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3幕 美女画の怪

5 壁観

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 壁観へきかんは静かでしっとりとした雰囲気をした酒楼だ。
 一階にはいくつかの円卓が置かれており、客が酒と食事をめいめいに楽しんでいる。部屋の隅では、あでやかな妓女が琵琶びわをゆったりと奏でていた。

「なあ、老人が好きそうな店じゃないか?」

 紫曜がひそひそと言うのを無視して、碧玉は下男に声をかける。

「一番良い部屋に案内せよ」

 下男は困ったように眉尻を下げて断る。

「申し訳ございません。本日はすでにご予約がございまして……」
「灰炎」

 碧玉が灰炎を呼ぶと、灰炎はすぐさま銀子ぎんすの入った袋を開けて下男に見せる。

「主君はこれでは不足かと仰せです」
「金銭ではございません。お約束があるのですよ。その……」

 下男は言いよどむ。商人にとって、はぶりのいい新規客は大事なものだ。それよりも優先するということは、この町の権力者だろうと碧玉は思いついた。

「もしや黄家の若君か?」
「……どなたかとは申せません」

 下男が一瞬だけ目を瞠ったので、碧玉は予想通りだと察した。

「ふむ。では、次に良い部屋はどうだ。琥珀壁が見えれば構わぬ」
「ご案内いたします」

 下男が受け入れたので、碧玉は満足した。
 二階の端にある部屋は、広間ではなく、少人数向けのものだ。大きな丸窓の障子戸は開けられ、薄闇にぼやけ始めた琥珀壁と空が見えている。その窓の前には螺鈿細工の卓と椅子が置かれていた。
 一見すると質素に見えるが、最上級の家具だ。
 通りの喧騒も遠く、まるで違う土地に来たような気分にさえさせる。座布団に腰をかけると、ほのかに花の香りが漂った。

「ふう。落ち着く場所だ」

 先ほどの下男が手早く用意した茶器を灰炎が受け取り、丁寧な所作で給仕をする。碧玉はそうやって尽くされるのが当然という態度で、なんの気負いもなく茶杯を手に取った。その様子を見て、下男がほうと感嘆のため息をつく。

「お前、良い部屋を選んだな。――灰炎」
「はい、主君」

 駄賃用に、懐紙に包んだ銀子を用意してある。灰炎はそれを一つ、下男の手に握らせた。下男の目がきらりと光る。碧玉は紫曜を示した。

「こちらは黒家の若君でな。この辺りの魚料理が恋しいらしい。良い酒とともに、適当に持ってまいれ」
「畏まりました。旦那様のお好みをお伺いしてもよろしいでしょうか」
「灰炎」
「は。私のほうで対応いたします」

 碧玉は下位の者と長々と話す気はないので、灰炎に任せる。灰炎も慣れたもので、名前を呼ぶだけで碧玉がしてほしいことを理解して、下男とともに部屋を出て行った。残った丹青は入口の傍に立って、護衛をしている。

「相変わらず、面倒くさがりだな」

 紫曜がぼそりと言って、茶杯をあおる。

「お前が誰とでもしゃべりすぎなのではないか」

 碧玉は大帯に差している扇子を抜き、ポンと手の平を叩く。

「この店ならば、黄家の情報も聞けるだろうよ」
「初めてこの町に来たお前が、どうして一目で見抜くんだ?」

 紫曜は茶托に茶杯を戻し、納得がいかないと腕を組む。

「本物を味わえばよいと言っただろう。美しく輝く琥珀壁を満月に見立て、内装もそちらを引き立てるものにすればよいだけだ。あのように美しいものが傍にあるのに、なぜ形だけの空虚な月を愛でるのか意味不明だな」
「うぐっ」

「それに加え、黄家にとって琥珀壁は特別な地だ。この辺りで先祖代々、絵の具や宝飾品の石を採掘してきた。異能を授けられるきっかけとなった誇りある場所であり、富と権威の象徴でもある。あれを眺めながら飲む酒は、あの家の者にとって、さぞ格別であろうよ」

 紫曜は頬を指先でかく。

「ああ、なるほど。私が天声山を見て誇らしく思うのと、同じなのだな。黄家にとって、派手で人気ならばいいのかと……」
「芸術のことは、私もそこまでは分からぬ。だが、美にこだわるならばこうだろうとの予測は立つ。念のため、黄家が喜びそうな貢ぎ物も用意してある」
「いったいどういうものだ?」
「最近、我が家が買い上げた刺繍師がいてな。明明というが、素晴らしい才を持っている。天祐が私にと作らせたものだが、一度、袖を通して見せたことだし、手放しても構わぬだろう」

 紫曜はごくりとつばを飲みこむ。

「お、おい、いいのか? 天祐殿からの贈り物を粗末に扱ったら、さすがにあの温厚な男も怒るんじゃないか?」
「そもそも、あやつが行方不明にならなければ良かったのだ。これより上となると、先祖伝来の古物や、母上の嫁入りの品になる。遺品を手放すほうが、後々厄介だ。恐らく黄家の審美眼ですぐにばれるゆえ」
「まあ……そうだな。そちらのほうが危険だ」

 紫曜はしかつめらしく頷いた。

「無名の天才刺繍師の作品ということか。むしろ、新しい物好きの黄家にはうってつけだろう。黄夏礼と仲が悪いというくせに、やけに詳しいな?」
「後継者教育を受けた身ゆえ、これくらいできて当然だ」

「それを言われたら、私の立場が無いではないか」
「お前といい天祐といい、どうして芸事が不得意なのだ? 紫曜、お前の字は上手いし、詩歌は得意だろう。だというのに、こういう機微になると途端に目が曇る。どういうことだ」
「私のほうが知りたいよ! というか、お前みたいになんでもこなせる者のほうが少ないんだ」

 紫曜はすねたように言い返す。

「私がもっとも欲しかった霊力は、あいにくとさほど持っていなかったがな。どうでもいいことばかりできて、大事にしていたものは去った。そして、このざまだ。何がいいのだか」

 碧玉が自嘲まじりにつぶやくと、途端に紫曜はおろおろし始める。

「お、おい、そこまで言わなくてもいいだろう? 私が悪かったよ」

 紫曜は心配そうに碧玉の様子をうかがう。

「相変わらず淡々としているから気づかなかったが、お前、天祐殿のことでかなり参っているようだな」

 碧玉は茶杯に入っている茶を見下ろした。

「……最後の家族まで失うわけにはいかぬ」

 碧玉は一度死を受け入れたせいか、自分の死にはさほど興味はない。だが、天祐に対しては生きていてほしいという執着がある。

「生きていると思うか?」
「白碧玉の怨霊が黄夏礼の姉を殺したから、それを恨んで、弟である天祐殿に手をかけるってことか? 先代ならともかく、現宗主はそこまで馬鹿ではないと思うぞ。美に執着しているわりに、俗物ぞくぶつ的だ。恩を売るほうを選びそうだが」

 紫曜の考えでは、夏礼は周りから自分がどう見えるか気にするほうでありながら、利益にもこだわるので、商人寄りの気質だという。
 碧玉はそぼくな疑問を抱いた。

「そういえば、黒家の後継者候補が行けば、すぐに会えるのではないのか?」

「何があるか分からないから、先に情報収集をするんだ。黄家は特殊でな。政治的なことは重要決定以外のほとんどを家臣に任せ、黄家は芸術活動に専念している。滅多と人前に出ないことで、黄家の神秘性を高めて、価値を上げているわけだ」

 紫曜の説明が、碧玉にはよく分からない。

「そもそも、貴族には滅多と会えぬものだが」
「それでもお前は仕事ならば家臣と会うだろう? 祓魔のために外出もする」
「まさか領内の視察すらせぬのか」

 碧玉は呆れた。視察をして、自分の目で確認するのは大事なことだ。そこを任せている者が悪政を敷いていないか確認もできる。

「ああ。冬の間は門を閉ざしている始末」
「来客も追い払うのか?」
「だから、黄家の関心を惹く何かが必要なんだよ。緑家や青家の富豪ならば、喜んで会うのだろうが……」
「いくら芸術に長けても、買う者がいなければ生活できぬからな」
「そういうことだ」

 碧玉はううむとうなる。

「白宗主であったら、銀子を積むだけでよいから楽であったのに」
「お前が白宗主だったとして、嫌われているなら、会ってくれるか怪しいものだぞ。お前の言う様子なら、ここぞと嫌がらせをしそうなものだ」
「それもそうか」

 碧玉は再び扇子で手を叩く。

「偶然とはいえ、どうやらここに黄夏礼が来るらしい。ここであいさつしたいと言えば、拒否はせぬだろう。紫曜、後で行ってこい」
「門前払いが関の山だ。では、こうしようか」
「何?」
「当初の通り、妓女を呼ぶ」
「それで?」
「良い女を横取りされたら、黄家の若君も興味を抱くさ。俗物的だと言っただろ」

 紫曜は悪い笑みを浮かべている。

「それで天祐の行方が分かるならば構わぬさ。こういう時の金だ」

 そして碧玉も、にやりと笑う。
 悪だくみをする主人達を、丹青は見ないふりをしていた。
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