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本編

一章2

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「スマホー!」

 叫びながら目が覚めた剛樹は、天井に向けて右手を伸ばしていた。

「え?」

 天井が石造りで、見覚えがない。剛樹の住んでいるアパートの部屋は、防音に向いた白いものだ。蛍光灯も見当たらず、薄暗い。明かりのほうを見ると、暖炉で火が燃えていた。小さな窓の向こうには青空が広がっている。
 ひんやりした空気に身をすくめ、なにげなく服を見下ろして驚いた。

「何これ、ワンピース?」

 薄い生地の長袖で、すそは膝より下くらい。やけに首元が広いし、袖が余っている。

「もしかして、サイズが合ってないのか?」

 そのことに気付いて、ゾッとした。

(どれだけ体が大きいんだ)

 想像できなくて首を傾げながら、恐る恐るベッドを降りる。裸足でペタッと石床に着地すると、ゆっくりと扉に近付いた。

(なんか変な夢を見たよなあ。車に水を引っ掛けられたらおぼれて、狼が目の前にいて――)

 どうせなら、ちゃんと見ておけば良かった。そうすれば絵の参考にできたのに。そう思いながら扉を少し開けたところで、上から声が降ってきた。

「起きたか」

 扉の向こうでは、二メートル近い狼男がぬっと立ち、こちらを見下ろしていた。銀色の毛はつやつやしていて、袖なしの白いシャツを着て、腰を青い帯で締め、ゆったりした白いズボンを履いている。靴はなく、獣の素足に布を巻いただけだ。

「ひ……」
「おい、また気絶など勘弁」
「ギャ――――――!!」
「……そう来たか」

 剛樹は大声で絶叫し、後ろに下がろうとして足を滑らせ、思い切り尻餅をついた。勢い余ってそのまま倒れ、後頭部を打って痛みで悶絶する。

「お、おい、大丈夫か。どんくさい奴だな」

 狼男は動揺した様子で呟き、手に持っていた盆をテーブルに置くと、剛樹の傍らに膝をつく。

「ぎゃーっ」

 狼のドアップに剛樹はまた悲鳴を上げ、慌ててベッドに逃げようとして、またすっ転んだ。ベチャッと床につぶれる剛樹に観念したのは狼男のほうで、溜息をついてベッドの反対側まで移動する。

「ああ、分かった。私は近付かぬから、安心しろ。ほら、出口はそこだ」

 よろよろと起き上がった剛樹は、逃げ道があることにほっとした。そして、わざわざ出口をゆずった狼男の気遣いを見て、敵意はないようだと感じとる。恐怖がゆるやかに落ち着いていった。
 殺されるのではと半泣きになってしまったので、袖で目元をぬぐい、深呼吸をする。

「……あの、すみません。ごめんなさい」

 出てきたのは謝罪だった。狼男を刺激したくなかったのだ。ベッドの陰に隠れたままの剛樹にも、狼男は気を悪くした様子はない。

「その様子だと、お前は私のような獣人じゅうじんがいない世界か、もしくは獣人が敵の世界から来たようだな。もしやお前の世界では、獣人は人を食うのか?」
「食う!? 俺、食べられるんですか!?」

 声が引っくり返った。

「まさか。獣人と人、見た目は違えど、同じ人間だ。共食いなどするか。狂人や危ない宗教の輩なんかは食う者もいるらしいが、禁忌だ。見つかれば処罰される。私は常識的な部類だから、安心していい。……まあ、信用するかどうかはお前次第だ」
「な、なるほど。とりあえず法律はあるような場所なんですね。規律があるなら大丈夫なのかな……」

 怖いのは無法地帯だ。狼男でも、理知的な様子を見るに、ある程度の文明はありそうだ。

「俺のいた所には、人間しかいなくて。人種は色々ありましたけど、あなたみたいな狼男は見たことないです。えっと、伝承とか神話とか、空想の話にはいましたけど……」
「けど?」
「だいたい悪役で」
「ふっ。なるほどな。それでその反応か」

 狼男が口の端を上げて笑うと、白い牙が覗いた。

「狼男というのは間違いではないが、正しくはない。私は銀狼族の獣人だ。名をユーフェ・ラズリアという。このラズリア王国で五番目の王子だ。異界からの客人よ、お前は私の名のもとに保護しよう。安心するがいい」
「あ、どうも……。俺は沖野剛樹といいます。ええと、どちらが名前ですか?」
「ユーフェだ」
「あっ、国の名前が後ろについてるんだから、そうだよな。これだから俺、ぼんやりしてるとか言われるんだ」

 ぶつぶつと呟いて、余計なやりとりをさせたことに軽い自己嫌悪を覚えてうつむく。

「まあ、それだけ混乱しているのなら、いたしかたないのではないか。オキノゴキ?」
「ありがとう、ユーフェさん。沖野が苗字で、剛樹が名前です」
「そうか、ゴキだな」
「やめて! ゴキじゃなくて、ゴウキ! ゴキだと嫌われてる虫と同じ名前だから! 俺、それでいじめられたことあるから!」

 小学生の時、短期間だけだがゴキ呼ばわりされて、登校拒否したことがある。事態を重く見た父が担任に相談して、子ども達を叱ってくれたので、なんとか教室に戻れるようになった。
 有名人の息子なので、ただ、そこにいるだけで生意気などと言われることもあり、正直、沖野家に生まれて良かったことなどほとんどない。
 どうやらそれだけでなく、兄達が「SNSにさらすぞ」という脅しを、子どもとその親にしたみたいだった。保護者が子どもを連れて謝りに来て、菓子折りを差し出して、猫撫で声でご機嫌とりをされたのは、さすがに気持ち悪くてよく覚えている。剛樹としては後味が悪く、次第にそのクラスメイトとは疎遠になった。

「う、害虫か。ゴーキ? 難しいぞ、この名前」
「ゴウは?」
「ゴー?」
「うーん……」

 ゴキよりも戦隊ものみたいな呼ばれ方のほうがまだマシだが、オキノでも呼びづらそうである。もごもごと名を呟いて首をひねっている狼男が、ちょっと可愛らしく見えた。

(犬って、意外と顔に表情が出るんだなあ)

 ペットを飼ったことがないので、剛樹は感心した。

「呼びづらいなら、あだ名でもいいですよ」

 なんだか申し訳なくなって、妥協案を出す。ユーフェの三角耳がピクリと動いた。うれしそうだ。

「それはありがたい。ふむ、お前は黒い髪と目をしているから……モリオンなんてどうだ?」
「モリオン? 黒水晶のこと?」
「おお、お前の世界でもそう呼ぶのか? どうだ、強力な邪気払いの石ともいわれていてな、この名がお前を守ってくれるだろう」 

 とっさにつけたにしては、良い意味を込めてくれたようだ。

(王子ってすごいなあ。……王子?)

 ようやく頭が追いついてきて、剛樹は青ざめた。

「あの、そういえば、違う世界って?」

 これが夢ではないのは、さっきから転んでいた痛みでよく分かっている。ユーフェは剛樹が異界から来たとも言った。それに地球には獣人なんていないから、ここが異世界と言われても納得だ。

(漫画やアニメでよくあるパターンだと、俺が世界を救うとかそういう!?)

 さーっと血の気が引く。
 運動音痴で、それほど頭が良いわけでもなく、ちょっと絵が上手い程度の平凡な男だと、剛樹がよく分かっている。画家で世界的に有名になろうなんて気概があるわけもなく、祖母のように絵画教室を開いてのんびり暮らそうというのが、剛樹の将来の夢だ。イラストレーターとして、本の表紙に関われたら幸せだろうなあなんて、ツブヤイターを見ながら憧れている。

「この世界、とても大変だったり!?」
「戦をしている所はあるが、この国は平和だぞ」
「魔王なんて現われたりして!?」
「なんだそれは? 初めて聞いた」
「じゃ、じゃあ、国の改革のために呼ばれたとか!?」
「呼ぶ? お前はそらの泉に流れついただけで、特に意味はないが」

 剛樹はのけぞった。

「意味が、ない!?」

 無意味に周りを見回して、頬を指でかく。

(戦うなんて怖いから無理だ。よし、結果オーライ。期待されても困るけど、無意味は想定外だぞ!)

 頭を抱え、剛樹は当然の要望を叫ぶ。

「それなら俺、帰りたいです!」

 ユーフェはどこか困った顔で沈黙し、深々と溜息をつく。

「どう説明したものかな。とりあえずついてこい、見せるものがある」
「はい!」

 勢いよく返事をした剛樹は立ち上がろうとして、ワンピースなんて普段はかないので、裾を思い切り膝で踏んで、その場にベチャッと倒れた。

「だ、大丈夫か……? 落ち着きがない子どもだな。十かそこらか?」
「え? 俺は十八です」
「……ちなみにこの国では、太陽が昇って沈み、また昇るまでを一日と数える。一年は三百七十日ほどだ」
「俺の世界は、三百六十五日です!」
「ざっと三ヶ月の差でも、これが十八か……」

 何故だろうか。かわいそうなものを見る目をされている気がする。ユーフェは子どもにするように、剛樹の前に膝をついて覗き込む。

「この国の者は、私以上に体が大きい者がほとんどだ。建物や家具、衣服も同じだな。お前はその調子で怪我をしそうだから、腕に乗せていって構わんか?」
「腕に乗る……?」

 お姫様抱っこのことだろうかと首をひねると、ユーフェは剛樹を左腕に座らせるようにして、ひょいっと持ち上げた。

「本当に座ってる……! すごい! おお、筋肉がすごい!」
「大丈夫そうだな。行くぞ。落ちぬように、肩に掴まっていろ」
「は、はいっ」

 部屋の外に出てみて、ユーフェの心配が分かった。階段の一段の大きさが、日本で見るものの三倍の高さがあるのだ。剛樹にしてみれば、軽い登山みたいなものである。
 ユーフェは身軽な足取りで、長い階段を下りていく。どうやらこの建物は塔のようだ。そして、外へ出た。
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