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本編 第一部
56. 魔獣の毒
しおりを挟む馬から落ちたシオンだったが、たまたま傍にいた隊長が受け止めたのでことなきを得た。
隊長はシオンを石畳の地面に寝かせ、頬を軽く叩いて声をかける。
「領主様! 駄目だ、返事がない」
手袋を外して額や首に触れると、隊長はしかめ面をした。
「高熱が出ている。失礼ですが、直答をお許しください、ディル様。領主様は魔獣と戦いましたか?」
「もちろん許します! ええ、一頭だけ執拗に追ってくるので」
「そして、血を浴びた?」
「倒した魔獣の下敷きになっていました。服が汚れているでしょう?」
僕の指摘に、隊長は素早くシオンの状態を確認する。左腕の袖が切れているのを見つけて、隊長は叫んだ。
「ここだ! すぐに水を持て! 毒を洗い流さなければ」
慌ただしく部下が水を運んできて、シオンの怪我に水をかける。
「どういうことですか」
毒。そういえば、魔獣の血肉には毒があると言っていた。
「小さな切り傷でも、魔獣の血を浴びると毒が入るんですよ。幸い、傷が小さいので、洗い流して解毒剤を飲めば大丈夫でしょうが……」
そこで隊長はハッと僕を凝視する。
「あなたもお怪我を?」
「いえ、これは魔獣の死骸を押した時についたもので」
「つまり、血に触ったのですね! 誰か、至急、小神殿に行って神官を連れてこい! ガルダ、お前はディル様の侍従の代わりだ。宿を一つ貸し切りにして、ディル様をただちに風呂に入れるように!」
それから数名を専属護衛に選んで、準備をさせる。
「僕もまずいのですか?」
「念のためです。とにかく洗い流さないと」
「シオンは死ぬのですか?」
僕の顔がよっぽど悲壮に見えたのか、隊長の怖い顔に、優しそうな表情が浮かんだ。
「きちんと対処すれば死にません。緊急事態なので、領主様も同じ宿に運んで構いませんか?」
「もちろんです! 僕を助けようとしてこうなったのですから、むしろ責任をもって看病します!」
僕の宣言を聞いて、隊長は思案げに顎をなでる。
「看病ですか。そうですね……あなた様に相手をしていただけたら、きっと領主様もお喜びになるかと」
「相手?」
なんだか変な表現だ。僕は首を傾げる。
そこへ、手配を終えた部下達が戻ってきて、ディルを案内したので詳しく聞けない。
「ディル様」
だが、立ち去る前に、隊長が真剣な面持ちで名を呼んだ。
「はい?」
「もし少しでも領主様をおかわいそうに思われるなら、お慈悲をくださいませんか」
慈悲。今回の件で責任をとらされるから、情状酌量してくれという意味だろうか。
なぜか周りの人々は、緊張を込めて僕を見つめている。
「ええ。シオンの助けになるなら、喜んで」
彼らの不安を取り除いてあげようと、僕はきっぱり答えてほほ笑んだ。
わっと歓声が上がる。
「領主様、少しは望みがあるんじゃないか!?」
「脈ありだ! やった!」
どうしてそんなことを言いながら喜ぶのだろうか。
脈ありなんて、そりゃあ生きているのだから脈があるだろう。皆の長が危険な状況だというのに、不謹慎ではないか。
僕には謎だったものの、ひとまず宿のほうへ向かうことにした。
彼らの反応について、理由が分かったのは、小神殿から呼ばれた神官の世話で風呂を終えた後だ。木綿のネグリジェに着替え、軽食をとってから解毒剤を飲み、ようやくシオンと再会できた。
「シオン、大丈夫ですか」
シオンのいる寝室に入って、僕はぎょっとした。
なぜならシオンは下ばきだけ身に着けた格好で、寝台にいた。ヘッドボードの柵に、布で両腕を縛りつけられた格好で。ほぼ裸で、ぜいぜいと息をしながら、赤い顔をして苦しげにうめいている。
「な、なんで怪我人にこんなひどいことを!? 今、助けます!」
僕は布をほどいてあげようと近づこうとしたが、どういうわけか、当の本人に止められた。
「ディル様、なぜここに。だめだ、来るな!」
激しい声で注意され、僕はビクッと足を止める。
訳が分からない。
シオンが拘束されていることはもちろんだが、僕に近づくなと制止するのも意味不明だ。とりあえず両手を軽く挙げ、なだめる仕草をしながら疑問をぶつける。
「僕には意味不明なんですが」
「誰からも……説明を聞かなかったのですか」
息苦しそうな合間に、シオンが問う。
「僕が看病をすると言ったら、なぜか歓声を上げていましたが。そういえば、あなたに慈悲をとも言っていましたね。北部では流行っている言い回しなんですか?」
「はあ……。まったく、あいつら、後でしっかり注意しなければ」
呆れと疲労がこもったため息をつき、シオンは剣呑な目でどこか遠くをにらむ。
「そんなに、僕が看病をするのは嫌なんですか」
そりゃあひどい真似をしている自覚はあるが、好かれていると思っていた相手に、心底拒絶されるとショックである。
「ち、違います! 嫌なわけでは。というよりむしろ、あなただったらうれしいですが、いえ、そういう問題じゃありません。あなたを傷つけるのが嫌なんです!」
「拘束されているのは、苦しくて暴れるからですか?」
「いえ……その……」
なんでそんなに歯切れが悪いのか。
僕は再びシオンに近づく。
「シオン、助けが必要なら言ってください。医者を呼んできましょうか。何が必要なんです?」
シオンは黙り込んだ。
そしてあきらめた様子で目を閉じて、僕から目をそらして答える。
「以前は外部の人間が多かったため、なんの毒が分からないとフェルナンド卿の前ではお話ししましたが……実は、我々はどんな毒か知っています。魔獣の毒は、人間には興奮作用があるんです。ひどい場合、麻薬のような中毒症状に見舞われて、廃人になる者も」
「そんなにまずい毒なんですか!?」
「欲をおさえられなくなるため、我々は獣化と呼んでいます。少量が傷口から入り込んだだけですが、それでもこの通りですよ」
「この通り……?」
いったいシオンが何を言っているのかピンと来ず、僕は首を傾げて問い返す。
「いたたまれないので、どうか出て行ってください。あなたにだけは、こんな浅ましい姿、見られたくなかった」
シオンの声に、悲痛な響きがにじむ。
そこにいたって、ようやく僕は気付いた。シオンがはいている下ばきの前が、大きく盛り上がっていることに。
同じ男だから分かる。
我慢しようとして、できるものではない状況なのだ、と。
「あ……えっと……」
途端に僕はぎくしゃくした動きで、意味のない言葉をつぶやいた。
こんな清廉を絵に描いたような男が、欲をあらわにして苦しんでいるなんて。
(なんか……背徳的というか)
普段の真面目さとギャップがあって、その色気が衝撃的だった。
(僕に相手をって、慈悲って、そういう意味ですかーっ)
そんな遠回しに言わないで、きっぱり教えてくれればいいのに。
「で……でも、あの、どうして看病と言って、誰も否定しなかったんですか、ね」
うろたえた僕は、またしてもどうでも良さそうなことを訊いてしまった。
「体内に入った毒を外に出すには、とにかく出すしかないので」
「水をがぶ飲みして、トイレに行くとかは」
「なぜか生殖器にたまって悪さをするんですよ、この毒は。治療が間に合わないと、中毒症状が出る上に、不能になるという恐ろしいもので」
「な……っ。それをすぐに教えてくださいよ! 男にとって一大事ではありませんか!」
そりゃあ、オメガの男には前での生殖機能はないが、使えるかどうかは大事なことだ。
気まずさに動揺している場合ではない。
「分かりました。お手伝いします!」
あっさりと覚悟を決めた僕に、シオンのほうが悲鳴のような声を上げる。ぶんぶんと首を横に振った。
「いいです! ディル様にそんな真似をさせるわけにはまいりませんから! 心得のある者に頼みます。だ、誰か」
心得のある者? つまり、娼妓を呼ぶつもりなのか。
――僕が目の前にいるのに?
僕はカチンときた。
「仮にも候補とはいえ婚約者という間柄ですのに、僕を無視するんですか」
目をすわらせ、僕はベッドに上がる。
「……ディル様?」
恐る恐るという様子で、シオンがこちらを伺う。
「あなたを馬鹿にしたわけでは。そもそも、私の問題が片付くまで、こんなことはしないと言っていたのはあなたで……」
「それとこれとは別問題です」
僕はきっぱり言い切った。
シオンにとって理不尽なのは分かっているが、いら立ちのほうが勝った。
「し、しかし、医者に頼むので……」
「シオン」
「はいっ」
「僕がこの世で一番嫌いなものが何か教えてさしあげましょうか」
僕はにこりと笑った。
「浮気です」
「す、すみません」
僕の圧力に、シオンは何も悪くないのに謝った。
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