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本編 第一部
38. 同情か、愛か <side: ネルヴィス・ロア・フェルナンド>
しおりを挟む夏至祭当日。
ディルが突然の発情期で薔薇棟に戻った後も、ネルヴィスは中央棟の応接室でお茶をしていた。
相変わらず、かの人のフェロモンは凶悪だ。
他にアルファがいなかったから良かったものの、そうでなければ、その誰かがディルに襲いかかっていたかもしれない。忍耐力がある神官なら耐えられただろうが、今日は夏至祭だ。寄付金の関係で、公人が中央棟を出入りしているのだ。
シオンがすぐに戻るようにうながすのも、当然だった。
(相変わらず、レイブン卿はお行儀が良いな)
規律正しいシオンでも、フェロモンにやられては落ち着いていられなかったらしい。ディルが去るなり、すぐにトイレのほうへ向かっていた。ネルヴィスも、初めてディルレクシアの発情期に顔を合わせた時は興奮がおさまらずに困ったので、気持ちはよく分かる。
二杯目の紅茶を飲み終えそうな頃合いで、タルボが訪ねてきた。
(やっぱり来たか)
ディルレクシアには、発情期の相手を任されることが多い。帰宅してから呼び戻されては面倒なので、念のために残っていたのだった。
しかし、タルボは予想より深刻な顔をしていた。
秘密をもらさないようにと約束させられた後、ディルの正体について教えられ、さしものネルヴィスも驚いた。
まさか平行世界の人間が、ディルレクシアの中身と入れ替わったなどと思わない。
まさしく神の奇跡だ。
そして、現在のディルレクシアを不憫に思った。
彼もディルレクシアのわがままによる犠牲者だ。
「それでなんですが、フェルナンド卿。以前よりも発情期が重いそうで、ディル様が思い余って窓から飛び降りようとしたんです」
「……は?」
目を丸くするネルヴィスに、タルボはディルの事情を説明する。
今、ディルレクシアの中にいる人は、婚約者に裏切られ、番契約を破棄されたことで、狂死したそうだ。その後、入れ替わったという。
「自殺した前歴がございますから、おちおち目も離せません。今のところは睡眠薬で眠っていただいておりますが、何度も飲むのは体に悪いので」
気まずそうに、タルボはちらりとネルヴィスを見る。
「アルファの体液を摂取するのが効果的ですから、お相手願いたいのです。あなたならば、いろいろと心得ていらっしゃるでしょう?」
タルボが言うのは、この機に乗じて、わざと妊娠させようとしたり、結婚の確約をとりつけようとしたりといった悪い真似はしないという意味だ。
(狂死した時のことを思い出すのだろうか、発情期に苦しんで自殺しようとするとは)
ディルが死ぬと思うと、ネルヴィスは嫌な気分になる。
ここで誰かがディルを利用しようとすれば、さらに深い傷になるだろうことは目に見えていた。
「……承知しました。その光栄なお役目、引き受けさせていただきます」
彼を死なせたくないので分はわきまえるが、一方で幸運だと思う自分もいた。
*
以前も寝屋の相手はしていたのだし、平気だろうと思っていたのだが。
(これは……まずい)
発情期ですっかり気が緩んでいるディルは、本当に同一人物かと疑うほど、ネルヴィスの劣情をあおりまくった。
凶悪な甘い香りで、頭がくらくらするのもいけない。
抱きつぶさないようにこらえているのに、熱をおびたうるんだ目を向けられると、次をと望んでしまう。
以前と違い、今のディルはキスを好んでいるらしい。頬に口づけるだけで、うれしそうに微笑む。
ネルヴィスの内心は、可愛いという単語でいっぱいになった。
頭がすっかり馬鹿になっていると自覚しているが、どうにもおさえが効かない。
食事や風呂、トイレ以外では、眠るか体をつなげるかばかりしている。
(寝顔を見て、早く起きないかと思う日が来るとは)
ディルレクシアが寝ると、ネルヴィスは安堵したものだが。
相手をしていても、下手だとののしられるのだから、男としてはうんざりする。
しかし、ディルの反応を見る限り、もしかして以前の彼も感じていたのではという疑問が湧いた。体は同じなのだ。
(実は負け惜しみだったとか?)
充分、やり返せていたのではと思うと、ちょっと良い気分だ。
(ああ、駄目だ。風呂に入って、気をまぎらわせよう)
ディルが熟睡しているのを確認すると、ネルヴィスは窓をわずかに開けて空気を入れ替えられるようにし、風呂場に向かう。さっと湯を浴びて戻ってくると、ディルがうめいていた。
「どうしました?」
体調が悪くなったのかと思い、起こそうかとディルの肩に触れると、ディルがその手を払いのけた。
「触らないで!」
キッと怒る姿は、ハリネズミのようだ。見た目は可愛いのに、鋭いトゲを感じられた。
突然の拒絶に、ネルヴィスは息をのむ。
「何か気にさわりました?」
ネルヴィスが問うと、ディルは瞬きを繰り返す。どうやら寝ぼけているようだ。
なんとなくそうしたほうが良い気がして、ネルヴィスは違う名で呼ぶ。
「ディルレクシア様?」
「え……?」
ディルは不思議そうに呟き、どこかを確かめるかのように視線をさまよわせる。
「あれ、あなたは……」
「ネルヴィス・ロア・フェルナンドですよ」
「……ああ、そうでした。ネルヴィス、良かった」
ネルヴィスの名を呟くと、ディルの表情からこわばりが消えて、心底安堵した様子でやわらかくゆるんでいく。ポロポロとこぼれる涙に気づいて、ディルはけげんそうにつぶやいた。
「あれ? どうして泣いてるんでしょう」
その一部始終を見ていたネルヴィスは、胸に突き刺さる痛みと同時に、強烈な引力を感じた。
(この方は、まだ傷が癒えておられないんだ)
おそらく前の世界での夢を見て、ここが違うと分かって安心したんだろう。ネルヴィスを見て気持ちがゆるんだのだ。まだ愛ではないにしても、信頼されている。
(この人の弱いところも、全部守ってあげたい)
なぜだかネルヴィスまで泣きたくなってきた。
ネルヴィスはディルの隣に滑り込むと、彼を抱きしめて背を叩く。
「大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください」
発情期も終盤だ。疲れているのだろう。ディルはあっさりと眠りに落ちた。
ネルヴィスはため息をつく。
「なぜでしょうか。胸が苦しい……」
好意は確かにあった。だが、突然、沼に引きずり落とされるように、気持ちがディルへと墜落した。
彼が何も返してくれなくても、助けてあげたい。
この気持ちは同情なのか、それとも、愛なのか。
分からなかったが、上手くコントロールできなければ、泥沼だろうことだけは心の隅でなんとなく感じていた。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
三日お休みします。
再開は6/9。
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