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「僕は嘆かずには居られない」
選択の自由
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沈黙とは如何なる時も平等では有るが、其れを心地好いとするか悪いとするかは其の人次第である。
黒く塗り潰された善、と云ふのは皮肉に成り得るだらうか、と思考の端を占拠せられ乍、私は見るとも無く紙面を見てゐた。
彼の方はと云ふと、目を閉じて本棚に凭れ、眠つたやうに動かない。町の音を、声を聞いてゐるのやも知れぬ。もう何十分と経つたやうな気さえするが、私は其れを邪魔する訳にもいかず、唯じつと息を潜めて黒い円を見る事しか出来なかつた。
「時に、君」
彼はややあつてから、唐突に私を呼んだ。ゆつくりと瞳を開くと、午後へ差し掛かつた陽が榛に揺れる。
誠、あの演説癖さえ無ければ、彼は友人としての贔屓目を抜きにしても中々に良い男である。然し恐らく其れが原因で、彼は二十代も半ばと云ふのに独り身でもあるのだ。私とて結婚をしてゐる訳では無いが、兎に角も彼の雰囲気と癖の差と言つたら世の女性が皆々揃つて愕然とするだらう程なのだ。
私は陽に溶けそうな彼に目を細めつつ、何だい、と返した。
「君はこの本を読んだ事はあるかい」
彼は今正に翻訳せんと奮闘してゐる原稿の一頁目を手に取った。其れは過去にも様々な訳で刊行せられている洋書であり、知らぬ人は居ないであらうと言える程の物である。小さな星から地球の砂漠での出会いへと至る迄の所謂風刺的冒険譚であるが、正直、何故今君が新訳を、と疑問が浮かぶ程である。だが然し確かにどんな訳でも売れてはいるのだから、決して無駄では無いのだらう。其のやうな事を考え乍、私は一つ頷いた。
彼は、だらうね、と口元に弧を乗せると次にこう尋ねて来た。
「君は幾つの訳で此の本を読んだのだい」
私は過去を反芻しては見たものの、生憎と冊数迄覚えてはいなかつた。
「覚えてはいない。けれども、最初に読んだ訳が幼少の私には何とも解難く、其れ故に所謂子供向けとせられる本へ変えた記憶はある」
二冊は確実に読んではゐるのではないだらうか、と答えると彼はその丸硝子の向こうで喜色を灯し、やあ、と又意味の無い感嘆を吐いた。
「流石は我が友」
「何がだい」
困惑も隠しきれぬ私を他所に彼は凭れていた本棚から身を起こして立ち上がり、些か興奮気味に私の隣へと坐り直した。
「正に君のやうな者が居れば、善悪も等しく平等に存在出来るのだよ」
如何やら、先程の続きのやうだ。彼は口元に三日月のやうな喜色を浮かべると、ずい、と近寄つてその笑顔を深めた。
「つまりだね、君。選択の自由と云ふものさ」
「選択? 嗚呼、」
成程合点がいつた。
確かに翻訳に限れば、同じ原作で複数の日本語作品が作られる。其れは勿論売れると云ふ打算的観点も在るが、読者の選択を広めると云ふのもあるだらう。
好む訳が無ければ他を試せば良い。其れが唯一であるとするのならば致し方ないと納得のいかない事も無いのであるが、今日日様々な訳が蔓延つてゐる。更に言ふならば、映像、漫画、音声劇など文章以外にまで其の選択肢は及ぶ。
私が納得したと見ると、彼は、ぴ、と人差し指を私と彼との間に立てて見せた。
「求めると云ふ行為と、押し付けると云ふ行為は決して同じでは無い」
さう言ふと、件の原稿を手にして唄うやうに言の葉を紡ぐ。
誠、翻訳では無く評論か文芸作品でも書けば良いと思わざるを得ない程に、彼は言葉を湧き水の如く溢れさせ、澄み渡った川のやうに流していくのだ。その言の葉は彼の喜色を乗せ、くるくると自由に泳ぎ回る。
私はと云ふと、言葉にはとんと弱い。言いたい事の何たるかも掴めぬ、脆弱極まりない日本語しか喋る事が出来ぬ。嗚呼、これが進化を止めた日本語かと、先の彼の言葉に頷かざるを得ない程だ。
しかして其のやうな思考に陥る私の前で彼は其の長い手を伸ばし乍、
「自己の欲を押し付けんとする其の行為を『意見』であり『指摘』とし、押し付けではなく『全の主張の代弁』とせられるやうな人が出てしまつたのならば、此の國は」
其の時だつた。
終わりだ、と嘆く彼の声を阻むやうに、正午を告げる鐘が鳴り響く。
「嗚呼、」
けろり、と嘆きを喜びに変えた彼は、立てていた指を、すい、としまつた。
「正午だ。正午と言へば昼飯を食わねばなるまい」
さうして眼鏡を、くい、とあげて嗤う。
…彼は時折このやうに言ふ。
然しその「しなければならない」と云ふ思考も又『主張の代弁』となり得る可能性があるのだらうか。
いや、然し此の考えは彼に対して余りに失礼ではあるまいか。どれだけ高尚に構えた事とて、人は皆所詮は欲を持たずに居られないのだ。分かりきつた事だ。
ふ、と息を吐くと円の黒く塗り潰された紙が微量の悪戯な風にはためく。
「では、喫茶店にでも行こうか」
その紙から視線を逸らし乍、私は彼に提案をし、掛けてゐた羽織を手にした。
外は、相変わらず無機質に騒がしい。
黒く塗り潰された善、と云ふのは皮肉に成り得るだらうか、と思考の端を占拠せられ乍、私は見るとも無く紙面を見てゐた。
彼の方はと云ふと、目を閉じて本棚に凭れ、眠つたやうに動かない。町の音を、声を聞いてゐるのやも知れぬ。もう何十分と経つたやうな気さえするが、私は其れを邪魔する訳にもいかず、唯じつと息を潜めて黒い円を見る事しか出来なかつた。
「時に、君」
彼はややあつてから、唐突に私を呼んだ。ゆつくりと瞳を開くと、午後へ差し掛かつた陽が榛に揺れる。
誠、あの演説癖さえ無ければ、彼は友人としての贔屓目を抜きにしても中々に良い男である。然し恐らく其れが原因で、彼は二十代も半ばと云ふのに独り身でもあるのだ。私とて結婚をしてゐる訳では無いが、兎に角も彼の雰囲気と癖の差と言つたら世の女性が皆々揃つて愕然とするだらう程なのだ。
私は陽に溶けそうな彼に目を細めつつ、何だい、と返した。
「君はこの本を読んだ事はあるかい」
彼は今正に翻訳せんと奮闘してゐる原稿の一頁目を手に取った。其れは過去にも様々な訳で刊行せられている洋書であり、知らぬ人は居ないであらうと言える程の物である。小さな星から地球の砂漠での出会いへと至る迄の所謂風刺的冒険譚であるが、正直、何故今君が新訳を、と疑問が浮かぶ程である。だが然し確かにどんな訳でも売れてはいるのだから、決して無駄では無いのだらう。其のやうな事を考え乍、私は一つ頷いた。
彼は、だらうね、と口元に弧を乗せると次にこう尋ねて来た。
「君は幾つの訳で此の本を読んだのだい」
私は過去を反芻しては見たものの、生憎と冊数迄覚えてはいなかつた。
「覚えてはいない。けれども、最初に読んだ訳が幼少の私には何とも解難く、其れ故に所謂子供向けとせられる本へ変えた記憶はある」
二冊は確実に読んではゐるのではないだらうか、と答えると彼はその丸硝子の向こうで喜色を灯し、やあ、と又意味の無い感嘆を吐いた。
「流石は我が友」
「何がだい」
困惑も隠しきれぬ私を他所に彼は凭れていた本棚から身を起こして立ち上がり、些か興奮気味に私の隣へと坐り直した。
「正に君のやうな者が居れば、善悪も等しく平等に存在出来るのだよ」
如何やら、先程の続きのやうだ。彼は口元に三日月のやうな喜色を浮かべると、ずい、と近寄つてその笑顔を深めた。
「つまりだね、君。選択の自由と云ふものさ」
「選択? 嗚呼、」
成程合点がいつた。
確かに翻訳に限れば、同じ原作で複数の日本語作品が作られる。其れは勿論売れると云ふ打算的観点も在るが、読者の選択を広めると云ふのもあるだらう。
好む訳が無ければ他を試せば良い。其れが唯一であるとするのならば致し方ないと納得のいかない事も無いのであるが、今日日様々な訳が蔓延つてゐる。更に言ふならば、映像、漫画、音声劇など文章以外にまで其の選択肢は及ぶ。
私が納得したと見ると、彼は、ぴ、と人差し指を私と彼との間に立てて見せた。
「求めると云ふ行為と、押し付けると云ふ行為は決して同じでは無い」
さう言ふと、件の原稿を手にして唄うやうに言の葉を紡ぐ。
誠、翻訳では無く評論か文芸作品でも書けば良いと思わざるを得ない程に、彼は言葉を湧き水の如く溢れさせ、澄み渡った川のやうに流していくのだ。その言の葉は彼の喜色を乗せ、くるくると自由に泳ぎ回る。
私はと云ふと、言葉にはとんと弱い。言いたい事の何たるかも掴めぬ、脆弱極まりない日本語しか喋る事が出来ぬ。嗚呼、これが進化を止めた日本語かと、先の彼の言葉に頷かざるを得ない程だ。
しかして其のやうな思考に陥る私の前で彼は其の長い手を伸ばし乍、
「自己の欲を押し付けんとする其の行為を『意見』であり『指摘』とし、押し付けではなく『全の主張の代弁』とせられるやうな人が出てしまつたのならば、此の國は」
其の時だつた。
終わりだ、と嘆く彼の声を阻むやうに、正午を告げる鐘が鳴り響く。
「嗚呼、」
けろり、と嘆きを喜びに変えた彼は、立てていた指を、すい、としまつた。
「正午だ。正午と言へば昼飯を食わねばなるまい」
さうして眼鏡を、くい、とあげて嗤う。
…彼は時折このやうに言ふ。
然しその「しなければならない」と云ふ思考も又『主張の代弁』となり得る可能性があるのだらうか。
いや、然し此の考えは彼に対して余りに失礼ではあるまいか。どれだけ高尚に構えた事とて、人は皆所詮は欲を持たずに居られないのだ。分かりきつた事だ。
ふ、と息を吐くと円の黒く塗り潰された紙が微量の悪戯な風にはためく。
「では、喫茶店にでも行こうか」
その紙から視線を逸らし乍、私は彼に提案をし、掛けてゐた羽織を手にした。
外は、相変わらず無機質に騒がしい。
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