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第八話 紅い痕。
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温かな空気と、甘い醤の香りが、静まり返った厨に日常の名残を落とす。力任せに閉められた戸の隙間から、冷気が足元を撫でて、ショウスケはしんしんと積もる罪悪感に埋もれていく。
まるで初めて恋をした時のように胸を満たした、あの恥ずかしいまでの幸福感が、思いがけない事実に塗りつぶされていって、心の中がぐちゃぐちゃだ。
これまでずっとキョウコの求愛に戸惑いつつも、真っ直ぐに向けられる愛情を信じていた。自分だから愛してくれるのだと、疑いもしなかった。
それすら、墨色の契りだったなんて、あんまりだ。
やっと、猫の想いに真心でもって応えられると……やっと、気付けたのに。
そして、自らの手で傷つけてしまった。
なんと愚かなことをしてしまったのか。悔やむほどに甦る肌の香りに苛まれ、息をするのさえ苦しい。
腕に抱いた華奢な身体が、あんなに震えていたのに、一方的に胸の痛みを押し付けるような真似をして……。
泣かせて、怒らせた。あの気丈な猫を。
ふらりと厨を出て、奥まったその部屋へ向かう。
こうしてまた、この場所へ足を運べるようになったのも、キョウコのおかげだ。
それなのに、ずっとそうして寄り添ってくれていた思い出まで、「主人としもべだから」と上塗りされていく気がする。
伝えたい言葉の一つも正しく口にできそうにないくせに、手は襖に伸びていた。
やたらと冷たい引手から這いずるように滲んだ違和感が、ぞわりと背筋を撫でる。
瞬間的に脳裏を掠めた血染めの記憶を破り捨てるように、一息に襖を開く。そこには猫がいて、きっと今は涙で袖を濡らしていると思い描いて……。
そして期待は裏切られる。
部屋のうちに明かりはなく、ひとのいた気配ともいうべき温もりの欠片も残されていない。
寺へ向かったのだと、すぐに閃いて、ショウスケもまた表へ飛び出した。
夜の匂いが一層濃くなり、寒さが身に堪える。
降り頻る雪に、猫の足跡は消されてしまっていたが、今キョウコが向かうとしたらエイゲンのもとしかない。
いつかの夏、二人が揉めているふうだったのは間違いではなかったのだと、ショウスケは振り返る。
キョウコは秘密を抱えていて、それを隠し通す自信もあったのだろう。或いは、ショウスケなら気付かないと、高を括られていたのかもしれない。事実、全く勘付きもしなかったのだから、文句は言えまい。
今更ショウスケが隠し事に気付いたからには、必ず知らせた者がいるはずだと、猫はお見通しなのだ。
(この寒い中、身一つで飛び出させてしまったのか)
灯りも傘も手にした形跡はなく、部屋には羽織りも残されていた。寺に着く頃には足袋が濡れて、小さな爪先を赤く腫らしていることだろう。
どんな顔で迎えに行こうとしているのか、ショウスケ自身あやふやだ。一人にさせたくないのか。一人になりたくないのか。それすらわからない。だが求めるままに、足が動く。
カンテラを手に、夜道を行くショウスケの前方から眩い光が揺れながら近づいてくる。金色の輝きに目を刺され、手を翳した彼の前に現れたのは……。
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