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第八話 紅い痕。
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しんしんと降る雪に裏庭が白く埋もれて、表はいかにも寒そうだ。厨の内は蒸気でほこほこしているので忘れてしまうが、火を落とせばここも急速に冷え込む場所だ。
主人想いの猫は、ショウスケがいつ帰ってきてもいいように、火を絶やさずに待っている。夕飯時をとうに過ぎているが、煮っ転がしを温め直しながら、何度も味見しているので、キョウコの腹は膨れていた。
店表で物音がして、戸を開け閉めする様子が伝わってきた。
キョウコはぱっと顔を明るくしつつも、どこか寂しさを滲ませて、料理を盛り付けた。里芋の煮っ転がしに、青菜のお浸し、鴨汁に白米。今夜はいつもよりちょっとだけ豪勢にしたのだ。縁談はうまくいった、と言ってくれなければ困ってしまう。
暖かな空気と匂いに誘われて現れたショウスケを、キョウコはいつも通りに迎える。
「おかえりなさいませ、主人様」
「ただいま。美味しそうだね」
微かに笑み、ショウスケは里芋を一つ口に放った。
「お行儀が悪うございますよ。お着替えされてからにしてくださいませ」
水場を片す振りをして、キョウコは背を向けた。いつもなら、着替えも手伝いに行くところだが、今は言葉を交わすほどに、最後通告が近づいてくるようで怖かった。
「おキョウさん」
静かな呼び掛けに、勘の鋭い猫は察した。ああ、逃げても変わりはしなかったと。
「はい?」
それでも振り返ることはできないまま、冷たい水に手を浸して返事をした。
「キヌさんとの縁談はなくなりましたから」
「何故……」
予想だにしない言葉に、振り向きかけたキョウコの視界を、暖かな紺地の羽織が遮った。
背中から回された腕が、力強くキョウコを抱きしめる。
「おキョウさんが好きだからです」
「……揶揄われてはいけませんよ」
「嘘じゃない。本当に今更だけど、やっと気付いたんだ。わたしは、おキョウさんがいい」
馥郁たる墨の香り。
穏やかで優しい声音。
背中から感じる温もり。
本当には手に入れられないと諦めていたのに、こんなふうに貰ってしまっていいのだろうか。
キヌの想いは? タナカ屋は?
そんなこと、全部頭から締め出して、何も考えられなくなるほど幸福で、翡翠の眼から涙が零れ落ちた。
「まことでございますか」
「うん」
「猫なのに、良いのでございますか」
「最初に言い出したのは、わたしでしょう?」
耳元でくすくす笑われるとこそばゆくて、キョウコは首を窄めた。
はらりとこぼれた髪の間から、青く爽やかな香りが立つと、身体に回された腕に力が入ったように感じた。
「春になったら祝言をあげよう。いや、それより……」
露わになった真白なうなじに、そっと接吻を落とされる。手首に触れた時とはまるで違う。こそばゆさが稲妻のように全身を駆け抜け、甘く痺れた余韻を残していく。
「……わたしも猫になってしまえばいいか」
猫は言葉など交わさずとも番いになれるのだから。そう呟く声は、どこか冷たくて。触れた唇は灼けるように熱くて、痛かった。
「……あ、主人様、ちょっと待っ……お待ちくださっ………ッッ!?」
猫の雄が雌を屈服させる時のように、首筋に歯を立てられて、キョウコは身を固くした。
猫の時から、これだけは屈辱でしかなかった。首根っこを抑えられて自由を奪われ、のしかかられて……。後の毛繕いでどれほど苦労し、惨めな思いをしたことか。
人間になってまでこんな屈辱を味わうとは思わなかった。それも愛しくて堪らなかったショウスケに、こんな思いをさせられるなんて。
さっきまでと違う涙が込み上げてくるのに気付いて、キョウコは水から手を上げた。きつく回された腕に触れると、震えているのはショウスケも同じだった。
「嫌なら嫌と言って」
泣きそうな声で彼は乞う。
「……嫌ではございません」
「だけど震えている」
「寒いからでございますよ」
キョウコはショウスケの腕の中で、くるりと向きを返る。
互いの瞳に合わせ鏡のように映した姿が重なり合って、唇が触れ合う刹那、ショウスケが口を開いた。
「わたしを呼んで」
「……主人様」
「…………違う。僕の名を呼んで。おキョウさん」
泣きそうな顔で、ショウスケが無理に笑おうとしている。
キョウコは血の気が引くと同時に、全てを理解した。
彼は知ってしまったのだ。キョウコがこれまで隠してきた、守りたかった秘密を……。
どこで、という問いは虚しかった。ショウスケに告げるとしたら、一人しかいない。キョウコは、胡乱な眼差しの僧に、心の中で悪態をついた。
「……本当なのだね。おキョウさんがわたしを拒めないのも、名を呼べないのも……」
ショウスケの腕が力無く垂れて、温もりが遠ざかる。
「きっと慕ってくれるのだって……」
「違います! わたくしは、本当に主人様を愛しているのです!」
「魂を縛ることを愛とは言わない」
今にも泣き出しそうな顔で、ショウスケはまだ笑おうとしている。見ていられなくて、キョウコは彼の胸に縋るように顔を埋めた。
「いつか誰か他の者に……なんて、僕自身であなたを縛っておいて……なんと愚かなのだろう」
「違います……違うのです……」
「僕が死ぬまで、絶対に不自由はさせないから。おキョウさんの望む幸せをすべてあげるから……」
ぽつりと落ちた涙は、どちらのものかわからない。
「ずっと一緒にいさせておくれ」
主人想いの猫は、ショウスケがいつ帰ってきてもいいように、火を絶やさずに待っている。夕飯時をとうに過ぎているが、煮っ転がしを温め直しながら、何度も味見しているので、キョウコの腹は膨れていた。
店表で物音がして、戸を開け閉めする様子が伝わってきた。
キョウコはぱっと顔を明るくしつつも、どこか寂しさを滲ませて、料理を盛り付けた。里芋の煮っ転がしに、青菜のお浸し、鴨汁に白米。今夜はいつもよりちょっとだけ豪勢にしたのだ。縁談はうまくいった、と言ってくれなければ困ってしまう。
暖かな空気と匂いに誘われて現れたショウスケを、キョウコはいつも通りに迎える。
「おかえりなさいませ、主人様」
「ただいま。美味しそうだね」
微かに笑み、ショウスケは里芋を一つ口に放った。
「お行儀が悪うございますよ。お着替えされてからにしてくださいませ」
水場を片す振りをして、キョウコは背を向けた。いつもなら、着替えも手伝いに行くところだが、今は言葉を交わすほどに、最後通告が近づいてくるようで怖かった。
「おキョウさん」
静かな呼び掛けに、勘の鋭い猫は察した。ああ、逃げても変わりはしなかったと。
「はい?」
それでも振り返ることはできないまま、冷たい水に手を浸して返事をした。
「キヌさんとの縁談はなくなりましたから」
「何故……」
予想だにしない言葉に、振り向きかけたキョウコの視界を、暖かな紺地の羽織が遮った。
背中から回された腕が、力強くキョウコを抱きしめる。
「おキョウさんが好きだからです」
「……揶揄われてはいけませんよ」
「嘘じゃない。本当に今更だけど、やっと気付いたんだ。わたしは、おキョウさんがいい」
馥郁たる墨の香り。
穏やかで優しい声音。
背中から感じる温もり。
本当には手に入れられないと諦めていたのに、こんなふうに貰ってしまっていいのだろうか。
キヌの想いは? タナカ屋は?
そんなこと、全部頭から締め出して、何も考えられなくなるほど幸福で、翡翠の眼から涙が零れ落ちた。
「まことでございますか」
「うん」
「猫なのに、良いのでございますか」
「最初に言い出したのは、わたしでしょう?」
耳元でくすくす笑われるとこそばゆくて、キョウコは首を窄めた。
はらりとこぼれた髪の間から、青く爽やかな香りが立つと、身体に回された腕に力が入ったように感じた。
「春になったら祝言をあげよう。いや、それより……」
露わになった真白なうなじに、そっと接吻を落とされる。手首に触れた時とはまるで違う。こそばゆさが稲妻のように全身を駆け抜け、甘く痺れた余韻を残していく。
「……わたしも猫になってしまえばいいか」
猫は言葉など交わさずとも番いになれるのだから。そう呟く声は、どこか冷たくて。触れた唇は灼けるように熱くて、痛かった。
「……あ、主人様、ちょっと待っ……お待ちくださっ………ッッ!?」
猫の雄が雌を屈服させる時のように、首筋に歯を立てられて、キョウコは身を固くした。
猫の時から、これだけは屈辱でしかなかった。首根っこを抑えられて自由を奪われ、のしかかられて……。後の毛繕いでどれほど苦労し、惨めな思いをしたことか。
人間になってまでこんな屈辱を味わうとは思わなかった。それも愛しくて堪らなかったショウスケに、こんな思いをさせられるなんて。
さっきまでと違う涙が込み上げてくるのに気付いて、キョウコは水から手を上げた。きつく回された腕に触れると、震えているのはショウスケも同じだった。
「嫌なら嫌と言って」
泣きそうな声で彼は乞う。
「……嫌ではございません」
「だけど震えている」
「寒いからでございますよ」
キョウコはショウスケの腕の中で、くるりと向きを返る。
互いの瞳に合わせ鏡のように映した姿が重なり合って、唇が触れ合う刹那、ショウスケが口を開いた。
「わたしを呼んで」
「……主人様」
「…………違う。僕の名を呼んで。おキョウさん」
泣きそうな顔で、ショウスケが無理に笑おうとしている。
キョウコは血の気が引くと同時に、全てを理解した。
彼は知ってしまったのだ。キョウコがこれまで隠してきた、守りたかった秘密を……。
どこで、という問いは虚しかった。ショウスケに告げるとしたら、一人しかいない。キョウコは、胡乱な眼差しの僧に、心の中で悪態をついた。
「……本当なのだね。おキョウさんがわたしを拒めないのも、名を呼べないのも……」
ショウスケの腕が力無く垂れて、温もりが遠ざかる。
「きっと慕ってくれるのだって……」
「違います! わたくしは、本当に主人様を愛しているのです!」
「魂を縛ることを愛とは言わない」
今にも泣き出しそうな顔で、ショウスケはまだ笑おうとしている。見ていられなくて、キョウコは彼の胸に縋るように顔を埋めた。
「いつか誰か他の者に……なんて、僕自身であなたを縛っておいて……なんと愚かなのだろう」
「違います……違うのです……」
「僕が死ぬまで、絶対に不自由はさせないから。おキョウさんの望む幸せをすべてあげるから……」
ぽつりと落ちた涙は、どちらのものかわからない。
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