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第七話 だれでもなくて。
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しおりを挟む沈黙の中に、談笑とドアベルの音がやけに響いて聴こえた。店の店主と、入ってきたばかりの客の声が耳にするでもなく滑り込んでくる。
「やあ、先生。今日はどうする?」
「……前の客と同じものを」
二人して、腰を浮かせてそちらを見てしまった。
長い髪を一つに結っている。コイミズのようにゆるりと洗練された感じではなく、邪魔にならなければいいといった具合で雑に括られている。
詰襟のシャツに、茶色いズボン。脱いで椅子に掛けられた上着は半纏に見えなくもない。
キヌは「あの人だ」と頷いている。
程なく出てきたのは氷冷糖だ。この寒いのに、こんなものを注文した客がいるとは……、関係ないのに男が気の毒に思えてきた。
「そのお客さんはね」
「余計な情報はいらん。あっち行け」
犬猫を追い払うような手振りで店主を隅に追いやると、男はよく冷えたグラスに口をつけた。
二口目を飲んだところだ。二人が見守る前で、突然項垂れるような格好で肩を震わせ始めた。泣いているように見える。
そして泣きながら、何かを書きつけた。また一口飲んでは涙して、筆を走らせる。
「うちの茶屋では、こんなことありませんでした。どうして? 何が違うのでしょう?」
気味悪がっていたくらいなのに、看板娘の誇りとでもいうのか、キヌはちょっと面白くなさそうだ。
涙目を拭き切ると、ショウスケが止める間も無く、直接答えを訊きに行ってしまった。揉めるようなことがあれば仲裁に入るとも、今はそっと衝立の陰から見守ることにした。
キヌが声を掛けると、男は驚いて振り返った。色素の薄い大きな目は、異国の血が混じっているようだ。
声を掛けてきたのが見知った顔とわかるや、表情を和らげて、会話に応じている。
そしてキヌがとうとう本題を切り出したらしい。グラスを指差すと、男の顔に困った色が浮かんだ。
照れを隠すように男は頭を掻いて、何か書いていた紙に向き直った。それをキヌに覗き込ませて、しばらく言葉を交わし、答え合わせは終わったようだ。
ぺこりと頭を下げて、キヌは戻ってきた。興奮冷めやらぬ様子で、彼女は語る。
「作家先生でした。お話に行き詰まった時に、ああした注文をして、想像を膨らませるんだそうです」
前の客はどうしてこれを頼んだのか。どんな味がしたのか。自分ではない誰かになって、物語の中に生み落とす。そのための腹ごしらえだという。
「季節外れの氷冷糖は、筆が進んだそうですよ」
誰かになりきりすぎて泣いてしまうほどに。
「いやはや、世の中にはいろいろな人がいるものだね」
「ですが、ショウスケ様が仰った『誰かを探しているかもしれない』というのは、遠からずでしたね」
くすくすと笑うキヌに、茶屋での憂いはもうない。
仕事の悩みには自分で決着をつけてしまった。あと残るは、尻切れ蜻蛉になってしまいそうな、恋心をどうにかしなければいけないと、キヌは最後の勇気を振り絞った。
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