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第七話 だれでもなくて。
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しおりを挟む吐く息白く、底冷えする朝。
夜明け前の気配を敏感に感知して、猫は布団から這い出した。
窓の外はまだ暗い。硝子窓の内側に溜まった雫が、今日も寒くなるぞと涙を垂らした。
ネイの形見の鏡台の前で、猫は身繕いする。
今も変わらず、艶やかな黒髪は肩口で切り揃えられている。同じ年頃の娘たちには後ろ指を刺されるが、結い上げる手間もかからず手入れしやすい、最適な長さなのだ。
隣のハルには「モダン」だなんて、それこそ今風な言葉で褒められたりするが、キョウコはいまいちピンと来ない。どうせヒトの美醜など、好き好き、流行り廃りで移ろうもの。猫には大した問題ではなかった。
愛しい人に愛でてもらえたら、ただそれだけで、我こそはこの世で一番美しいと信じていられるのだ。
だから、髪に櫛を通す時は少し心が躍った。思わず撫でたくなるような、艶のある髪に仕上がったら、あの手は「美しい」と囁いてくれるかしら。そんな期待を込めて、櫛を滑らせる。
黒髪がよく映えるのは、雪のように真白い肌のおかげだ。俯いた横顔に稜線を描く鼻筋がまさに、雪をいただいた山のようだ。
その山を挟んで、豊かに上向いた睫毛に縁取られた大きな双眸には、備え持った思慮深さを宿した翠玉が勝気に輝く。
すっかり引きなれた紅が彩る唇は形が良く、小ぶりでありながらふっくらとしていて、情が深そうだ。
奉公に入って、まる九年。
猫はその身に纏った幼さの殻を破り、女の片鱗を覗かせる美しい娘へと花開いた。
※ ※ ※
猫の主人、ショウスケは厚い布団に抱かれてまだ微睡みの中にいる。
ありがたいことに、師走の景気に乗るようにして、このところ文字屋の仕事が立て込んでいたため、昨夜はだいぶ遅かったのだ。
あの事件から四年。
コトノハ堂は変わらず、クラサワの街の中心に店を構え、実直に商いを続けている。
役所は変わらず政の場に代書屋を立ち入らせず、お役は離れたままだ。しかし、書記屋としては、刑番所所長たっての願いでわりと早くに復帰を果たすことができた。納得しない一部住民の手前、報酬はかつての半分程度に削減されている。
今は、文字屋としての仕事を中心に食っている。
三年越しにようやく完成した「超浪漫すぺくたくる大長編」をショウスケなりに文字で表した作品。十万文字の小さな文字から成るチョウゾウの似顔絵を納めたところ、瞬く間に評判を呼んで、依頼が殺到した。
それでも使用人を呼び戻せるだけの余裕はなく、かつての栄華は手放したままだが、日々何かしらの仕事は舞い込んで、苦のない程度に生活できている。
時々、その「家族」たちから手紙が届く。新天地でもみんな元気にやっているようで、返事を書く手が自然と滑らかになった。
ショウスケ自身はといえば、いつかの冷ややかな視線を浴びせられることはなくなった。だがもう以前のように言い寄ってくる者はいない。
家柄にケチがついたことも大きいが、何よりの原因は店が傾いた時に番頭さえ放っぽり出しておきながら、世話係の少女だけは手元に残したことが尾を引いている。三十路に近くなってもいっこうに身を固める気配もなく、「若紫」の噂がいよいよ信憑性を増してきたというものだ。
もういちいち否定するのも面倒で、そのうちに飽きるだろうと言わせるままにしている。
人の心の移ろいやすさは、身をもって知ってしまった。
「おはようございます、主人様」
だがこうして、甲斐甲斐しく、変わらぬ言葉を掛けてくれる猫がいるから、あの時以来、起きられない朝なんていうのはなかった。
「お仕事はお休みですが、そろそろお時間でございますよ」
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