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第六話 「あるじさま」のお名前。

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 その日は結局、ヨウを捕えることはならなかった。
 予見したのか、既に居住先に姿はなく、ゴンゲン堂本店にも戻っていなかった。
 犯人の行方は知れぬまま、どこからか洩れた噂が広まって、数日の内に街では、心胆寒からしめる事件の顛末がまことしやかに囁かれるようになった。
 ユキヘイの自殺にかこつけて、コトノハ堂を乗っ取ろうとした極悪人。ヨウはそのように言われ、話題に上らぬ日はない。

 そして長月の終わり。
 二つの代書屋を巻き込んだことに胸を痛めた町長は、志半ばにその地位を退く決断をした。
 だがやはり野心は強い。
 事件の解決に貢献したとして、研究所の価値を全面に押し出して去ったのだ。過ちあれど、彼なりにユキヘイの死に報いたつもりなのだろう。
 コトノハ堂は、完全に汚名を雪げたわけではない。
 ショウスケへの信頼は少しずつ回復しつつあるが、それでもお役は戻っていない。
 それには新しく町長に選ばれた者がした、一つの提案が関わっている。

「不正の温床になりうる代書屋は、政の場にふさわしくない」と。

 そうして試験的に、役所から代書屋を排除した。
 大方の業務に支障はないが、大半の役人は演説が下手になったという。
 刑番所も役所に倣って、自分たちで記録をつけているが、誤字脱字が多すぎて所長は毎日お怒りだそうだ。


 ※ ※ ※


「……これでよかったのございますか」

 夕飯の支度をするキョウコの傍らで、ショウスケは超浪漫なんちゃらを読んでいる。

「まるで代書屋が悪いような」
「誰にも罰されぬまま、死にゆく文字を書き続けるのなら、いっそこの方がいいんだ。いずれは、代書屋自体もなくなるのだろうし」

 識字率は年々高まり、民間でも代書屋の必要性は薄れていくはずだと、ショウスケは冷静だ。

「ならばその時まで、わたしはわたしの文字を書き続けるよ」

 分厚い原稿を閉じると、思いの外大きな音がした。
 驚いたのはショウスケだけではない。肝の据わったキョウコもめずらしくびくりと振り返ったくらいだ。
 音の正体は、窓の向こうで鳴った遠雷だ。すぅと、冷たい風が格子窓をすり抜けた。

「一雨来そうだ」

 急に肌寒くなったショウスケは、湯気立つ鍋に引き寄せられた。蒸気が揺らいで温かい。鍋の中では、キョウコが打ったうどんがぐらぐら茹っている。
 格子窓から見える景色が、どんどん闇に飲まれていって、裏庭の菜園も、離れの建物も見えなくなるほど急速に雲が増えていった。

「今更だけれど、おキョウさん。母屋で寝起きしてはどうだい? 離れに一人は、何かと危ないし。その方がわたしも安心だ」
「……本当によろしいのですか?」
「もちろん。どこでも好きな部屋を使ってくださ……」

 獲物を狙うようにきらきら輝く瞳に、ショウスケはしまったと口を噤んだ。
 きっと同室を求められる! だが、どこでもいいと言ってしまった手前、断ったら男がすたる。さあどうしたものか!

「では主人様……」
「待って待って!」
「ユキヘイ様のお部屋を、わたくしにください」

 思わず拍子抜けして、気の抜けた声を出した後、ショウスケは怪訝な顔をした。
 ユキヘイの部屋とは、あの納戸のような……事件現場だ。あんなことがあってから、ショウスケもほとんど近付いていない。
 血の痕が夥しく、床板まで剥がして畳を貼り替えたのだ。それでもまだ、臭いが残っているような、とにかくいい思いはしない場所に成り下がってしまった。

「駄目ではないけど……、気持ち良くはないんじゃ」
「だからですよ、主人様」

 キョウコは口を動かしながらも、てきぱきとうどんをザルにあげる。

「父と子の、大切な思い出が詰まった場所を、忌まわしい場所にしてはいけません。これからは、わたくしがそこにおりますから。社に通っていた時のように、会いに来てくださいませ」

 猫の思いの深さに胸を打たれ、ショウスケは目の前がぼやけて見えた。きっと蒸気のせいだと誤魔化して、猫の艶やかな毛並みを撫でさすった。

「じゃあこれからあの部屋は、おキョウさんのものだ。
 でもね、あそこは窓もないし、もう少し手を入れた方がいいと思うな。どうせだから過ごしやすいように改修しよう。それまではわたしの隣にいるといいよ」
「隣とはつまり、同衾せよとのことでございますね?」
「隣の部屋のことでございます」

 外ではわっと雨が降り始めた。
 嵐の名残のように勢いをつけて降る村雨が、夏の終わりを告げているようだ。
 遠雷が遠く遠くで鳴っていた。





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