あるじさま、おしごとです。

川乃千鶴

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第六話 「あるじさま」のお名前。

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 線香をあげた男は、改めてショウスケに頭を下げて挨拶した。
 ユキヘイとは直接に面識はないが、その腕は隣町の店にも聞こえていて、幼い頃からの憧れだったこと。七夕祭りには短冊を持ち帰ったこともある、などぺらぺらと薄い唇を忙しく動かして語った。

「こんなことになって、まことに残念です。ワタクシなんぞが、コトノハ堂さんのお仕事を頂戴してしまうなんて、まったくなんの悪戯でしょうねぇ」

 男は心底申し訳なさそうに、ぺこぺこと頭を下げた。堅苦しい印象と違って、話し始めると気安い感じのする男だ。

「ああ、申し遅れました。ワタクシ、名をヨウと言います」
「珍しい、お名前ですね」
「ええ、本名はヨウノスケというんですがね。己の名だけで三文字も書かねばならないのが、どうにも面っっ倒……で! 仕事ではヨウとだけ名乗っております」

 キョウコが運んできた茶をすすって一息つくと、ヨウはにかりと笑った。

「どんな字を書かれるので? ああ、おキョウさん。それ、そこの硯と筆を取っておくれ。紙はあったかな?」
「はい、ございます。……あら、いけません。墨が切れております。わたくし取りに行って参りますね」

 ぱたぱたと駆け出すキョウコを、丸眼鏡の男が呼び止めた。

「お嬢さん、まぁそう慌てず。ワタクシも代書屋の端くれですから。ほぉら、いつでも持っているんですよ」

 ヨウが鞄から取り出したる小箱に、道具が一式揃っていた。その中には使いかけの墨も、新物の墨も入っている。

「硯と筆はお借りしますねぇ」

 ふんふん、と鼻唄まじりにヨウは墨を擦った。
 墨の匂いにすっかり鼻が慣れているショウスケだが、目の前で擦られる墨の幽香は匂い立つように香った。麝香が強いようだ。

 擦り上がった墨をたっぷり染み込ませて、ヨウの右手が動いた。

「要乃介」と隷書で書かれたその文字は、男の纏う堅苦しさと、反して柔和な内面を混ぜ合わせたような、書いた本人に似合いの字だった。

「お手を煩わせて申し訳ございません。ありがとうございます」

 道具を片し、ショウスケは今一度ヨウに向き直る。

「……して、本日はどのようなご用件で?」

 ただ手を合わせにきたわけでもあるまい、と初めから身構えていたショウスケの笑顔が、わずかになりを潜めた。
 ヨウは変わらずけろりとした顔で笑っている。

「さすがユキヘイさんの息子さん、話が早くて助かります。いえいえ、悪い話じゃないですよ? というか、これはワタクシが謝らなければならないんですがねぇ」

 彼が次に鞄から取り出したのは、ぎょっとする代物で、ショウスケは思わず腰を浮かせた。
 それは先月ショウスケがつけた記録だ。二度と目にすることはないと思った、ユキヘイとネイの死の詳細。コトノハ堂最後の事件記録だ。
 それは本来、コイミズの管理のもと、刑番所にあるべきものだ。無断で持ち出すのはそれだけで罪に問われる。その罪の重さに反して、ヨウは軽々しく人差し指を立てるだけだ。

「しーっ、しーっ! 旦那さん、落ち着いて。大丈夫、黙っていればバレやしませんって」

 ヨウは紙をめくる。どこか目当ての箇所を探しているようだ。

「ああ、ここだ。いや、ワタクシね。後からこの記録を見て驚きましたよ。こんなに精緻に記されていたなんて。それに比べて、ワタクシの記録のなんとお粗末だったこと……」

 第三者の存在を示す手掛かりが記された箇所を指差し、ヨウは悔しげに眉を寄せた。

「お身内だからこそ、分かることもあったでしょうに、お身内ゆえに記録が採用されないだなんて……! こんなこと間違っていると思いませんか?
 ですからねぇ、旦那さん。ワタクシにいい考えがあるんですよ」

 ヨウはぺらぺらと紙束をめくり、最後の頁を開く。そこの本当に最後、ショウスケの名を指差し、彼は愉快げに提案する。

「ここ。このお名前を、ワタクシに書き換えてしまえばいいんです。ね?」


 今現在、クラサワの代書屋をゴンゲン堂が担っているのなら、そうだ。この記録の最後をゴンゲン堂の名に書き換えてしまえば、これが正式な記録になる。
 妻を手にかけたとされるユキヘイの不名誉だけでも濯げるのだ。

「ね? ワタクシなんぞの記録より、こっちの方が価値があるでしょう? そうしましょうよ。ね? ね?」

 歳に似合わず、子どもっぽい落ち着きのなさでヨウが迫る。
 ショウスケは一秒たりとも迷わず、答えを返した。

「お断りいたします」
「なぜ!? ああ、報酬! でしたらこれほどで如何です?」

 ヨウが示す手を見ることもなく、ショウスケは首を振る。
 決断を迫られた時、もっと迷うものかと思ったものだが、口にしてしまえば案外晴れ晴れとした心地がした。

「わたしはユキヘイに似て、不器用なものですから」

 ショウスケは穏やかな笑顔を取り戻して、「お引き取りください」と頭を下げた。
 濁りなき字をていで表す真っ直ぐな眼差しの前に、さすがの男もおちゃらけた態度を改めて帰っていった。


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