64 / 112
第六話 「あるじさま」のお名前。
7
しおりを挟む「大丈夫かい? わたしはまた戻らないといけないけれど、後で何があったのか話しておくれ」
それだけ告げて、後ろ髪を引かれる思いで踵を返すショウスケだが、本当に強く袖を引っ張られて足を進められなくなった。
「先程申し上げた以外に何もありません。ですが、一つだけ……」
キョウコが背にしなだれかかってくる。
「もう少し、ここにいてくださいませんか?」
「どうしたんだい。やっぱり何か怖いことでもあったんじゃ」
キョウコはふるふると首を振る。
「いえ、その……そうそう。転びかけた時に足を捻ってしまって……たいへん痛うございます」
明らかに歯切れが悪かったのに、普段痛いも痒いも口にしないだけに、キョウコの言葉はすんなり信用された。
ショウスケはすぐに厨に行って、冷水で絞った手拭いを取ってきた。
戻らないキョウコを心配していたタツにわけを話し、ついでに客間に茶を足しに行くよう頼んできたので、少しばかり戻るのが遅くなっても大丈夫だ。
ショウスケの腕が背中と膝の裏に回ると同時に、ふわりと身体が浮き上がって、キョウコは抱き上げられていた。
突然のことに理解が追いつかないまま、作業部屋に運ばれ、畳の上に下ろされる。
「痛むのはどっち?」
「……あ、ええ。左……のような気がいたします」
そういえば足を捻っていたのだった、とキョウコは思い出した。ショウスケとエイゲンを引き離しておきたいがための方便で、キョウコの足は腫れも何もしていない。
それなのに大真面目に受け取って、この心配ぶりのショウスケだ。だからキョウコは、「秘密」を知られたくないのだ。
ショウスケの手が小ぶりな踵を持ち上げて、足袋を脱がす。
どの辺りが痛むのか、探すように肌を撫ぜる手がくすぐったくて、キョウコは爪先をぴくりと跳ねさせた。
顔を上げたショウスケと視線が絡んだ瞬間、甘い痺れが全身を突き抜けた。キョウコは咄嗟に両手で口を覆う。その隙間から、熱を持った吐息がこぼれた。
「……っ」
「ごめんよ、痛かったかい」
「い、いえ……」
ショウスケにその気などないのに、ひとり虚しく身を火照らすのが恥ずかしくてならない。こんな時でもなければ、身を差し出す口実を得たと思えただろうが、喪服に身を包んでおいてそんな気分にはなれない。
細い足首に巻かれた手拭いの冷たさでさえ、煩悩を拭い去れはしまいと、キョウコは両手の下で息をついた。
それが痛みに耐えている姿に見えたようで、ショウスケはますます表情を曇らす。
「こっちも冷やした方がよいね」
右手首にまだエイゲンの指の痕が残っている。
「この程度、唾でも付けておけば治ります」
「剛胆だなぁ」
ショウスケは呆れたように笑うが、本当の話だ。猫の時なら、痛いところも嫌な思いも、舐めて梳《くしけず》って綺麗にしていた。
そんなことを話していると、赤い輪を括られた手首に柔らかな温もりを感じた。
キョウコは目を疑う。夢でなければ、ショウスケの唇が、引き寄せられた手首に触れているではないか。
唐突に鼓動が突き上げられて、キョウコは手を引っ込めた。それでショウスケもはっとして、我に返ったような、バツの悪い顔をしている。
「これはその……深い意味はなくて!」
「……ないのでございますか」
「ないです! ないない!」
そこまで否定せずとも、と口を尖らすキョウコを遮って、ショウスケの弁明は続く。
「その痕、痛々しくて……! 何だろうな、見ていると嫌な感じがする、のか? 早く消えて欲しいけど、毛繕いというわけにもいかないし……ああ、いや、だからって唾を付けたわけでもないよ?
ごめんよ、今なにか拭くものを……ああ、そうだ! 冷やすんだった」
「お、お待ちくださいっ」
慌てて厨に行こうとするショウスケを呼び止め、足の痛む演技も忘れ、深々と頭を下げた。
「お引き止めして申し訳ございませんでした。主人様のお手当てのおかげで、痛みもずっと良くなりましたので、もう平気でございます。御坊様方もお帰りの時間でございましょうから、行ってください」
「そう、かい? ……それではわたしは戻るけれど、おキョウさんはもう少しここで休んでおいで。急に動いてはいけないよ」
「はい、お言葉に甘えさせていただきます……」
ショウスケの気配が去ってから、キョウコはようやく顔を上げられた。
いつも澄まして主人を翻弄している少女の、こんなに戸惑った顔を見たことがあるだろうか。触れた頬は焼け石のように熱く、胸の鼓動はそれしか聞こえないくらいにうるさい。
(嘘に嘘を重ねて、こんなに幸福な時を過ごしているなんて……バチが当たりますね)
手首に触れた愛しい温もりに己が唇を重ねて、猫は深く憂いの息を吐く。
唾をつける、そこに深い意味などあるはずがないと思いながらも、キョウコは喜びを噛み締めずにいられなかった。
(あのお坊様、憎らしいことに変わりはございませんが、今日のところは許してやりましょう)
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
サクラ色に染まる日 〜惨めな私が幸せになるまで〜
碧みどり
恋愛
七条家は東洋魔術五大名家に名を連ねる由緒正しき家柄である。
東洋魔術五大名家とは、
「本条院」「東十条」「南条」「七条」「下条」の五つの家名を指す。
祖父の代よりも遥か昔、当時の当主達は優れた魔力を用いて
大規模な異形襲撃から帝都を護った功績を称えられ、皇帝より「条」の字を賜った。
現在においても「条」の字を冠することは
東洋魔術に優れた家筋であることの証明となっている…。
祖父の死後、家族に虐げられていた主人公が幸せになるまでの物語。
最終話までの構成完成済み。
※他サイト様にも掲載させていただいております。
こんこん公主の後宮調査 ~彼女が幸せになる方法
朱音ゆうひ
キャラ文芸
紺紺(コンコン)は、亡国の公主で、半・妖狐。
不憫な身の上を保護してくれた文通相手「白家の公子・霞幽(カユウ)」のおかげで難関試験に合格し、宮廷術師になった。それも、護国の英雄と認められた皇帝直属の「九術師」で、序列は一位。
そんな彼女に任務が下る。
「後宮の妃の中に、人間になりすまして悪事を企む妖狐がいる。序列三位の『先見の公子』と一緒に後宮を調査せよ」
失敗したらみんな死んじゃう!?
紺紺は正体を隠し、後宮に潜入することにした!
ワケアリでミステリアスな無感情公子と、不憫だけど前向きに頑張る侍女娘(実は強い)のお話です。
※別サイトにも投稿しています(https://kakuyomu.jp/works/16818093073133522278)
光る穴に落ちたら、そこは異世界でした。
みぃ
BL
自宅マンションへ帰る途中の道に淡い光を見つけ、なに? と確かめるために近づいてみると気付けば落ちていて、ぽん、と異世界に放り出された大学生が、年下の騎士に拾われる話。
生活脳力のある主人公が、生活能力のない年下騎士の抜けてるとこや、美しく格好いいのにかわいいってなんだ!? とギャップにもだえながら、ゆるく仲良く暮らしていきます。
何もかも、ふわふわゆるゆる。ですが、描写はなくても主人公は受け、騎士は攻めです。
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
TAKAMURA 小野篁伝
大隅 スミヲ
キャラ文芸
《あらすじ》
時は平安時代初期。小野篁という若者がいた。身長は六尺二寸(約188センチ)と偉丈夫であり、武芸に優れていた。十五歳から二十歳までの間は、父に従い陸奥国で過ごした。当時の陸奥は蝦夷との最前線であり、絶えず武力衝突が起きていた地である。そんな環境の中で篁は武芸の腕を磨いていった。二十歳となった時、篁は平安京へと戻った。文章生となり勉学に励み、二年で弾正台の下級役人である少忠に就いた。
篁は武芸や教養が優れているだけではなかった。人には見えぬモノ、あやかしの存在を視ることができたのだ。
ある晩、女に救いを求められる。羅生門に住み着いた鬼を追い払ってほしいというのだ。篁はその願いを引き受け、その鬼を退治する。
鬼退治を依頼してきた女――花――は礼をしたいと、ある場所へ篁を案内する。六道辻にある寺院。その境内にある井戸の中へと篁を導き、冥府へと案内する。花の主は冥府の王である閻魔大王だった。花は閻魔の眷属だった。閻魔は篁に礼をしたいといい、酒をご馳走する。
その後も、篁はあやかしや物怪騒動に巻き込まれていき、契りを結んだ羅城門の鬼――ラジョウ――と共に平安京にはびこる魑魅魍魎たちを退治する。
陰陽師との共闘、公家の娘との恋、鬼切の太刀を振るい強敵たちと戦っていく。百鬼夜行に生霊、狗神といった、あやかし、物怪たちも登場し、平安京で暴れまわる。
そして、小野家と因縁のある《両面宿儺》の封印が解かれる。
篁と弟の千株は攫われた妹を救うために、両面宿儺討伐へと向かい、死闘を繰り広げる。
鈴鹿山に住み着く《大嶽丸》、そして謎の美女《鈴鹿御前》が登場し、篁はピンチに陥る。ラジョウと力を合わせ大嶽丸たちを退治した篁は冥府へと導かれる。
冥府では異変が起きていた。冥府に現れた謎の陰陽師によって、冥府各地で反乱が発生したのだ。その反乱を鎮圧するべく、閻魔大王は篁にある依頼をする。
死闘の末、反乱軍を鎮圧した篁たち。冥府の平和は篁たちの活躍によって保たれたのだった。
史実をベースとした平安ダークファンタジー小説、ここにあり。
後宮一の美姫と呼ばれても、想い人は皇帝(あなた)じゃない
ちゃっぷ
キャラ文芸
とある役人の娘は、大変見目麗しかった。
けれど美しい娘は自分の見た目が嫌で、見た目を褒めそやす人たちは嫌いだった。
そんな彼女が好きになったのは、彼女の容姿について何も言わない人。
密かに想いを寄せ続けていたけれど、想い人に好きと伝えることができず、その内にその人は宦官となって後宮に行ってしまった。
想いを告げられなかった美しい娘は、せめてその人のそばにいたいと、皇帝の妃となって後宮に入ることを決意する。
「そなたは後宮一の美姫だな」
後宮に入ると、皇帝にそう言われた。
皇帝という人物も、結局は見た目か……どんなに見た目を褒められようとも、わたくしが好きなのはあなたじゃない。
元虐げられ料理人は、帝都の大学食堂で謎を解く
逢汲彼方
キャラ文芸
両親がおらず貧乏暮らしを余儀なくされている少女ココ。しかも弟妹はまだ幼く、ココは家計を支えるため、町の料理店で朝から晩まで必死に働いていた。
そんなある日、ココは、偶然町に来ていた医者に能力を見出され、その医者の紹介で帝都にある大学食堂で働くことになる。
大学では、一癖も二癖もある学生たちの悩みを解決し、食堂の収益を上げ、大学の一大イベント、ハロウィーンパーティでは一躍注目を集めることに。
そして気づけば、大学を揺るがす大きな事件に巻き込まれていたのだった。
下宿屋 東風荘 2
浅井 ことは
キャラ文芸
※※※※※
下宿屋を営み、趣味は料理と酒と言う変わり者の主。
毎日の夕餉を楽しみに下宿屋を営むも、千年祭の祭りで無事に鳥居を飛んだ冬弥。
しかし、飛んで仙になるだけだと思っていた冬弥はさらなる試練を受けるべく、空高く舞い上がったまま消えてしまった。
下宿屋は一体どうなるのか!
そして必ず戻ってくると信じて待っている、残された雪翔の高校生活は___
※※※※※
下宿屋東風荘 第二弾。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる