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第六話 「あるじさま」のお名前。

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 前代未聞の心中事件から、一月が過ぎた。

 ショウスケが街を歩けば、住民の視線は彼に集まり、通りが色めき立つ。老若男女……思惑様々、引く手数多だったのは、もう過去の話だ。

 今では、ショウスケが歩くと波のように人が引く。そして賑々にぎにぎしい通りが寸の間、水を打ったように静まり返った後で、ひそひそとさざめき出す。

 見られているのは、前も今も変わらない。ショウスケを見る目が変わっただけだ。
 遠巻きに囁かれ、後ろ指を刺されても、彼は素知らぬ振りで歩いた。

 刑番所で用事を済ませた帰り道、ショウスケはジゴク橋の袂に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 後頭部で分けた髪の上半分を竜胆色のリボンで結った、若い娘。街行く人々を熱心に見つめる横顔はキヌだ。帳面と木筆えんぴつを手に、街の日常を描いているようだ。

 祭りの引き札に描かれた絵が、見事だったことをショウスケは思い返す。

 帳面と街並みを交差する真剣で熱のこもった眼差しは、趣味の一言で片付けるには勿体無い。ああしてキヌの絵が生まれるのだ。
 凛として美しいキヌの横顔を遠目に見守り、ショウスケは静かにその場を去った。

 しかし……。

「ショウスケ様!」

 気付かれぬようにしたつもりが、キヌが追いかけてきた。慌てて片したのだろう、筆入れから木筆えんぴつが顔を覗かせている。

 キヌは走ってやってきたので、揺さぶられた拍子に木筆がぽろりと飛び出した。

 道端を転がるそれを拾おうと、互いに身を屈める。
 その拍子に、頭と頭がぶつかり合った。木筆を追って下ばかり向いていたので、互いの距離がそこまで縮まっていることに気付いていなかった。
 互いに道端で頭を抱えてうずくまる。

「申し訳ありません。わたし、石頭で……」
「いや大丈夫……」

 目蓋の裏に星がちかちかしているが、ここは歳上の余裕と、男の意地の見せどころだ。
 何とか先に立ち上がることに成功したショウスケは、キヌに手を差し伸べる。それから落とし物を手渡して、あるべきお兄さん像を守り切った。
 キヌに別れを告げ、そそくさとその場を離れようとするも、視界に散らばる星のせいで足がふらつく。

「あのっ……。通り道ですし、お店までご一緒してもよろしいですか?」

 自身が元凶であることを気に病んで、キヌが申し出た。元々そのつもりでショウスケに声を掛けたのだが、まさかこんな形になるとは思わず、申し訳なさが声に滲む。

 ショウスケはやんわり首を振って、微笑を投げた。

「一緒にいて、噂でもされたら困るでしょう?」
「そ、そんなことはありません。困ったりなんて、絶対に……」

 頬を染めたキヌの初心な顔を見れば、一世一代の勇気でもって、声を掛けてくれたことくらいは察せた。それでもショウスケは笑顔を崩さず、首を縦には振れなかった。

「タナカ屋さんにはお世話になっているから。お父上に心配を掛けたらいけないよ」

 それじゃあ、と歩き出すショウスケの足はもうふらついていない。
 キヌももう追いかけてはこなかった。

「紙のご用命はタナカに! また……お届けにあがりますから」

 にこりと、店の看板の笑顔で手を振っている。
 たおやかで凛とした、白百合のようだ。踏みつけられることはないが、手折ることも憚られる。そのままでいた方が、美しさを損なわない。
 ショウスケは花を傷付けないよう、笑顔で手を振り返した。


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