あるじさま、おしごとです。

川乃千鶴

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第五話 星、流れども。

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 真っ先に目に映ったのは、卓に突っ伏しているユキヘイだ。
 顔を戸に背けているが、背格好でそうだと判じられた。ユキヘイらしくないことに、だらしなく脚まで投げ出して、呼び掛けに返事もない。
 暗がりの中で、卓を覆うように丸めた背中が、ぴくりともしなかった。

 それからショウスケは、足元に視線を落とした。

 戸に背を預けるようにしなだれ掛かっているのは、ネイだ。
 どうしてだか、ネイも全く動かない。
 それにネイの周りがやたらと濡れている。

 闇に目が慣れてくるとともに、答えを合わせるように視界が拓けていって、ショウスケの平穏は脆く崩れ去った。

「……トウキチ、刑番所へ知らせを。おキョウさんは明かりを」
「はっ、はいっ……」

 番頭が足をもつれさせながら、表へ駆けていく。
 キョウコはすぐに蝋燭と燭台を持ってきて、火を灯した。
 燭台を受け取ったショウスケは目を瞑り、微動だにしなかった。

 ……二人とも既に事切れている。目蓋を閉ざしていても、もう覆しようがないほど、密なる死の匂いが狭い室内を満たしている。
 それでも何かの間違いであれと願いながら、燭台を傾けた。

 ゆらゆらと揺れる灯りにぼんやりと闇が払われ、目を背けたくなるような現実が露わになる。
 墨をひっくり返したように、飛散して部屋を染め上げているのは鮮烈な赤。ネイの首から下を染めて、大きな水溜まりを作っているものと同じ、赤だ。
 卓の上で拳を作ったユキヘイの右手には、血塗れの合口が握られ、蝋燭の炎を揺らして鈍く光を放っていた。

 あまりに唐突な光景に出くわした時、人は思ったより冷静でいられるのかもしれないと、ショウスケは思った。少なくとも、自分はその一人のようだと自嘲さえ浮かぶ。
 両親の変わり果てた姿を見ても、涙の一つも出てこない。刑番所が来るまで、この場を動かしてはならないと……、代書屋の主の顔でじっと立ち尽くしていられる己を軽蔑した。

 やがて、トウキチの声がぞろぞろと足音を引き連れて帰ってきた。

 牡丹のスカーフを首に巻いたコイミズが、所員の先頭に立っている。男の顔には何の感情も浮かんでいなかった。さぞ慌てて駆け付け、もしかしたらユキヘイの亡骸に泣いて縋るかもしれないと思っていたショウスケは裏切られた気分だ。

 コイミズの表情が変わったのは、凄惨な現場を目の当たりにした時ではなく、血の海に溺れるネイを見つけた時だ。
 それは、店に入ってから不自然なほどに冷静だった所長が、唯一動揺を見せた瞬間だった。

 クラサワにおいて刃傷沙汰など、いま生きている住民で記憶にある者はいない。駆け付けた所員でさえ、震え上がっている。
 何から始めたものかまごついているようだが、有事の際の手引きを参考に少しずつ動き始めた。

 所員の中には、医術の心得ある者が複数おり、普段の事故、事件の際には傷病人の対応に当たっている。今回の場合は、遺体の状況から推測される状況と死因の特定が求められた。

「……遺体が傷むから、早く済ませて運び出しなさい」

 コイミズは非情と言えるほど冷静だ。自分だって似たようなものなのにと思いながらも、ショウスケは彼に腹立たしさを覚えた。
 そこへ、不意に声が掛かる。

「ショウスケ。アンタが記録なさい」
「……お言葉ですが、わたしは当事者に該当します。記録に客観性と公平性を持たせたいのなら、別の者に依頼すべきかと」

 コトノハ堂で、公務を請け負っていいのはユキヘイとショウスケだけだった。イヘイはまだ見習い。センは職人としての腕は確かだが、扱いはユキヘイの弟子である。コトノハ堂では今回の事件を扱えないと、ショウスケは暗に告げた。
 しかしコイミズは青い眼で真っ向からぶつかってきた。

「職人なら如何なる状況であろうと、真価を見せなさい。それとも何? 身内だと手心を加えるとでも言うの?」
「そうではなく、わたしが言いたいのは……」

 コイミズの手が、いつぞやのように胸ぐらに伸びてきて、ショウスケは言葉を遮られた。

「この街の代書屋はアンタでしょう。誰にも口を挟まれない、隙のない記録をしてみなさい」

 爪が食い込むほど、コイミズの手は強く握られている。

「……筆が乗らないと言うのなら、遺体から名を奪いましょうか。そうね……。なんてどう? ああ、最近の若いのはアとイの方がお好みかしら」

 ショウスケはコイミズの手首を掴んだ。暴力になっても構わないと思うほど、力任せに胸から引き剥がしたので、揉み合った後かというくらい浴衣が着崩れた。
 もう目上の者だろうと関係なかった。ショウスケははだけた胸元を整えると、意識してコイミズを睨み据えた。

「では、そう呼ぶに至った経緯も記しておきましょう。見る者には、所長殿が被害者を侮辱されたと思われるかもしれませんが……。ありのままの事実を記録するのが、わたしどもの仕事ですから」

 氷点下の眼差しを投げつけて、ショウスケの方から背を向けた。

 足袋が血に濡れて歩き回れないので、トウキチとキョウコを呼びつけて、記録用の道具を取って来させた。
 様相が酷く、所員たちも早く血の処理もしたがっているネイの遺体から先に、筆を取ることにした。



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