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第四話 落雁ほろり。
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しおりを挟む「まだ逝けないことはわかっています」
キョウコはその場に座り込んだ。不思議と疲れはなかったが、これ以上歩んでも無駄だと見切りはついた。虹の方を見ながら、膝を抱える。
「わたくしは主人様のもの。何処へも行きやしません。……だけど」
近づくほどに遠くなる虹の地と、一面の暗闇。そのどこにも大好きな主人の気配はない。
「道標もなしに帰れるほど、わたくしも賢くはないのですよ」
寂しさを紛らすように、キョウコはくしゃりと笑う。賢いと頭を撫でてくれる手の温もりなら、簡単に思い出せた。
その人の名をぽつりと口にすると、鋭い痛みが全身を走る。なのでいつもと同じように呼び掛けた。
「……わたくしの主人様」
愛しさに翡翠の瞳を細めると、微かに声が聞こえた。初めは、望むあまりに幻聴を耳にしたのだと自嘲していたが、彼方に光が差し込み声がはっきりと聞こえる頃には、キョウコは腰を浮かせていた。
『おキョウさん!』
それは間違いなく愛しい、かの人の声。
『おキョウさん!!』
虹の麓で聞こえた声は、もう少し寂しげで頼りなく呼び掛けていた。今は恐れと焦りが滲んだ声で、声の限りに叫んでいる。
『キョウコさん!!』
「……あらあら、主人様ったら。わたくしがいないとダメダメでございますね」
優しい光が射す方へ、キョウコは嬉しそうに歩き出す。微かに墨の香りが漂う方に進めばいいのだと、声に手を引かれるように歩を進めた。
「わたくしも、ここは寂しゅうございましたよ」
……
…………………
…………
……
花蕾のような唇が、見たこともない青紫に変わっている。真白な肌は必要以上に色を失くして、青いほどだった。だらりと投げ出された四肢がいかにも頼りない。
駆けつけて真っ先に握りしめた手は、生気が抜け落ちて冷たく、まるで人形のようだ。
「おキョウさん! しっかりおし!」
眉の一つもぴくりとしない。
「おキョウさん!! キョウコさん!!」
濡れた髪が指に絡んで、うまく撫でることができない。
こんなに小さい体だっただろうか。猫の時よりも遥かに弱々しい。社で膝に抱えた体は暖かくて、冬の寒さを和らげてくれた。色街の騒動の時だって、小さいなりに生きている分の重さはあった。
「店を譲り受けて、初めての仕事があなたの事件だなんて……あんまりじゃないか」
力の抜けた体の、軽いが妙に重たいこと。
「……あなたはまた、僕の知らない何処かへ行ってしまうのかい? 幸福にしてくれ……なんて言って、好きな菓子の一つも食べさせてやれてないのに、何処へ行ってしまうんだよ。ねぇ、おキョウさん」
「ショウスケ……」
どちらが溺水者かわからないほど、顔面が蒼白な友の背を支えてセイタロウは俯いた。残念だが、こうなって息を吹き返す望みは薄い。悔しさにセイタロウは天を仰ぐ。鼻の奥がツンとした。
小さく嗚咽が出そうになって咳払いすると、それに重なるように、か弱い声が漏れ聞こえた。
まだ芽吹きを知らない固い蕾が小さく開かれ、嘆息するような呼気がこぼれる。
「! おキョウさん!?」
ショウスケの呼び掛けに、濡れた睫毛が微かに揺れた。
「…………主人、様」
うわ言のようにぽつりと、微かな声が漏れて、重く閉ざされた目蓋が押し上げられる。帳の下に隠れていたのは、翡翠の宝玉。輝きは失われていなかった。
不安と焦燥、絶望から解放されたショウスケは言葉が出なかった。壊れそうな体を恐る恐る抱え起こし、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、少女の名前を繰り返した。
キョウコはぼんやりした眼で、ショウスケの姿を確認すると、消えそうな声で言葉を紡いだ。
「申し訳ございません……。コイミズ様のお菓子……どこかに、落としてしまって」
「そんな……そんなものはいいっ……。命を落っことしてしまうより、ずっといいです……」
ぐっとこらえないと泣いてしまいそうで、やたらと力んでショウスケは答えた。
泣きそうな顔さえ愛しくて、キョウコは笑みをこぼす。強張った顔は思うように動かなくて、意志に反して目蓋は再び落ちてしまう。
呼び掛ける声が遠のき、主人の腕の中でいま一度、深い微睡みに身を落とした。
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