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第三話 硝子の小鳥。

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「まぁ、あとは本当に署名だけだし」

 ショウスケは気を取り直して、最後の一筆まで丁寧に仕上げた。それから懐に手をやると、キョウコが届けてくれた革の小袋を取り出した。
 キョウコが書記屋の仕事を見守るのは初めてのことだった。袋から出てきた四角い石が何か分からず見つめていると、ショウスケが気付いて微笑んだ。

「これは落款印だよ」

 記録は芸術品ではないが、職人の仕事の証として書記した者の名前を捺すことになっている。筆跡、署名と落款とで差異があれば不正を疑われるし、印がなければ公正な記録とは呼ばれない。ユキヘイなどは不正防止のために、落款に特別な加工を施しているらしい。

「おキョウさん、手を貸してごらん」

 ショウスケが悪戯めいた笑みで、手を差し伸べている。キョウコは小首を傾げつつも、彼の手に重ねるように左手を差し出した。
 ショウスケは朱肉を舐めた印章を、白く小さな手の甲にそっと押し付けた。
 硬く冷たい石の感触にびくりと跳ね上がりそうになった手を、ショウスケがしっかりと支えて離さなかった。

 真白い手の甲に、赤く名が刻まれた。
 キョウコの瞳が歓喜の色に輝き出す。自分の手を何度も見つめ、愛しむように頬を寄せた。

「はい、お拭き」

 水差しで湿らせた手拭いを差し出すも、キョウコは受け取らなかった。

「このままでおります」
「いやいや、そのままでは汚れてしまうよ?」
「それでも、これがいいのです。ご覧ください。わたくしはでございます」

 とても、とても幸せそうに。それはそれは、晴れやかに──。キョウコは左手を抱いて微笑んだ。
 ショウスケは思いがけず胸が脈打つのを感じて、戸惑った。

 事件解決に浮かれて、気が迷っているのだとショウスケは頭を振った。
 最後の署名に落款を捺して、長かった事件にいよいよ終止符を打つ。

 ことり、と捺印の音がして、印を引き上げる。次の瞬間。
 ぽきり、と落款印が欠けた。

 幸い、印は綺麗に捺されていて、書面に不備はない。印章も損なったところはなく、まだ使えそうだ。持ち手が欠けて扱いにくそうではあるが。

「前からヒビが入ってはいたんだ。新しいのをおろさないとね」
「そうしたら、そちらはお役御免ですか?」
「そうだねぇ。……欲しいかい?」

 内心では欲しくて堪らなかったが、体裁を保つためキョウコは首を振る。

「まぁ、あげられないんだけれどね。不正に使われてはいけないから、きちんと処分しなければならないんだ」
「……左様で」

 キョウコは明らかにしょんぼりと肩を落とす。そうすると小さな体が、ますます縮んでしまったようだ。
 がっかりした様子の少女がいじらしくて、ショウスケはそっと手を取った。そして赤い名が記された手に、折れた印を握らせた。

「誰の手にも渡らぬように、こいつの処分はおキョウさんに任せようかな」

 秘密だよ、と人差し指を立ててショウスケははにかむ。
 キョウコは満面の笑みで、大きく頷いた。

 ※ ※ ※

 それから程なくして、セイタロウがやってきた。
 コイミズに命じられたとは言え、下っ端の出る幕ではないと判断し、上司を連れてきている。
 橙色の腕章を付けた所員は、書面に目を通した後、ショウスケに敬礼した。記録に問題なし、ということらしい。保管庫に書類を仕舞うまでを請け負って彼は去った。その後を、薄墨の腕章のセイタロウが追う。

 少しして戻ってきたセイタロウの腕には、腕章がなかった。今日はこれで上がりだそうで、彼は一緒に帰ろうとショウスケを誘った。滅多にあることでないので、童心に返った気分でショウスケは頷いた。

「約束通り、氷冷糖ひょうれいとうを食いに行こう。おキョウちゃんも、な?」
「滅相もございません。使用人の身で、お相伴に預かるなど……」
「じゃあ、碁で勝負しよう。それで俺が勝ったら、おキョウちゃんは俺に奢られるんだ」

 不審火騒動に片がついて嬉しいのだろうが、こうなったらセイタロウはしつこい。意地でも三人で茶屋に行くつもりだ。

「おやめ。セイタロウでは勝てないよ」

 賢いキョウコは碁も強い。教えたらあっという間に心得てしまって、今ではショウスケも歯が立たない。

主人ぼくが誘うから、一緒においで。ねぇ、おキョウさん。それならいいんじゃないかな?」
「……では、お言葉に甘えて」

 そうして彼らは、キヌの働く茶屋に向かうことにした。
 夏の一日の終わりに、三人仲良く通りを歩く。

 カァカァカァ、と遠くの空で鳴く声はカラス……、いや、硝子の小鳥かもしれない。






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