あるじさま、おしごとです。

川乃千鶴

文字の大きさ
上 下
13 / 112
第三話 硝子の小鳥。

3

しおりを挟む

「誤字も……ないじゃない」

 誤りがないことはいいはずなのに、彼は薄化粧をした細面を、心底つまらなそうにひん曲げる。

「ふんっ。誤字脱字はなくて当たり前。もしアタシが目を通す書類に不備があったら、とっ捕まえてやるから覚悟なさい。じゃあね、ユキちゃん。スカーフよろしくね」

 日傘をくるりと回して、彼は去っていった。
 呼吸も忘れて敬礼していたセイタロウは、直れとともに甘い空気を胸いっぱいに取り入れた。

「緊張した……」
「僕もだ……。なんであのお方はいつも、僕に突っかかってくるんだろう」

 すると、それまで黙っていたユキヘイが笑い含みに口を開いた。

「誤字脱字があった方がいいのさ。あれも若く見えるが、わたしと同じ四十しじゅう半。説教は年長者の楽しみなんだよ」

 はぁ、と気のない相槌を打ってショウスケは記録の控えを見返した。何度も確認したから、間違いない。刑番所でコイミズがじっくり目を通しても、後日呼び出されて説教される心配はなさそうだ。
 控えの書束は、一連の事件を纏めて綴じてあるため、父が担当した日のものも一緒に見ることができた。

 この色街では、七日ほど前から不審火が相次いでいる。決まって、日のあるうちに、街を覆う天幕の一部が燃やされた。
 不可思議なのは、いずれも天幕ばかりが燃やされているということだ。通りや店が狙われたことはない。とは言え、街を覆う天幕が燃えれば、炎の外套に街ごと抱かれるのと同じだ。
 幸い、今のところはボヤ程度で消し止められているため、大きな被害は出ていない。
 連続不審火事件として、近隣の注目を集めているにも関わらず、怪しい人物は目撃されておらず、解決の糸口はまだ見えていなかった。

 コトノハ堂が関われるのは、とりあえずここまでだ。事件の調査は刑番所の仕事。事件解決後に、刑番所に赴き最終記録をつけて、ことの顛末を知るのが常だ。
 セイタロウはこの暑い中、手掛かりを求めて天幕の外と内を行ったり来たりだ。体に気をつけるよう言い添えて、ショウスケは父とともに色街に背を向けた。
 その後ろで、刑番所の男たちの慌てふためく声が上がった。

「水!!」「さっきの隣だ」「誰も見なかったか!?」

 所員たちが天幕を踏みしめて屋根に上がる姿が、ショウスケにも見えた。すぐにぶすぶすと黒い煙が昇り、鎮火に安堵する声が頭上から降ってくる。
 所員が辺りを見渡したが不審な者の影はない。甍の屋根と、それより頭ひとつ突き抜けた電信柱が居並ぶばかりだ。

 セイタロウがすまなそうに追いかけてきて、コトノハ堂はもう一仕事頼まれた。
 ユキヘイはあとは自分がやる、とその場に留まり、ショウスケには店の方を任せた。

 父と別れたショウスケは、日が高くなって、ますます灼けつく帰途を急いだ。まるで茹だった鍋の蓋の上を歩いているようだ。暑さに辟易しながら、日陰を探して辺りを見た。
 すると道行く人々から、好奇心に満ちた目を向けられているのに気付いた。中には「まただって?」と話しかけてくる者もいる。刑番所も大っぴらにはしていないそうだが、不審火の噂は着々と広まりつつある。

(おキョウさんの耳に入るのも、時間の問題か)

 まさに今朝知られたところだが、ショウスケが知る由もない。
 そもそもやましいことはないのだから、仕事で色街に足を運んでいることを隠す必要はなかったのだ。それでも隠しておきたかったのは、幼気《いたいけ》な少女の口から、またとんでもない言葉が飛んでくるであろうと容易に察せられたからだ。

(中身は大人とわかっていても、心の臓に悪いのだよ……)

 ショウスケの控えめなため息は、蝉の声に掻き消えた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

これもなにかの縁ですし 〜あやかし縁結びカフェとほっこり焼き物めぐり

枢 呂紅
キャラ文芸
★第5回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました!応援いただきありがとうございます★ 大学一年生の春。夢の一人暮らしを始めた鈴だが、毎日謎の不幸が続いていた。 悪運を祓うべく通称:縁結び神社にお参りした鈴は、そこで不思議なイケメンに衝撃の一言を放たれてしまう。 「だって君。悪い縁(えにし)に取り憑かれているもの」 彼に連れて行かれたのは、妖怪だけが集うノスタルジックなカフェ、縁結びカフェ。 そこで鈴は、妖狐と陰陽師を先祖に持つという不思議なイケメン店長・狐月により、自分と縁を結んだ『貧乏神』と対峙するけども……? 人とあやかしの世が別れた時代に、ひとと妖怪、そして店主の趣味のほっこり焼き物が交錯する。 これは、偶然に出会い結ばれたひととあやかしを繋ぐ、優しくあたたかな『縁結び』の物語。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

処理中です...