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後編 一輪の花
神の落とし児
しおりを挟むフィロスは朝も夜もなく空を駆け、メィヴェルの香りや気配を探し続けた。
しかしその行方はようとして知れず、日々は無情に過ぎてゆく。
メィヴェルが消え、月が四度満ち欠ける頃、シルミランが属国となることを受け入れ調印したとの報せが届いた。
そして、牢での密約の通り、領土の一部がヴェルミリオに与えられたが、これは咎人の竜公爵を結界で隔絶した辺境に閉じ込め、監視下に置くためというのが表向きの理由であった。
後日、形だけも封印を施した事実を残すために派遣されて来たのは、アイオラの夫である魔法伯だった。
時の流れに逆らった容姿は、アイオラを迎えに来た日のまま、老いを知らないようだ。
軽く会釈をした後は、人嫌いとの世評に漏れず、世辞的な挨拶もない。
しかし、彼は唐突にメィヴェルの名を口にした。
「その名を頼りに血眼で探していると、お伺いしたが」
「何か知っているのか!」
「随分久しぶりに聞く名だと……まだわたしが魔法伯と呼ばれる前の、遠き日を思い出した」
そう言うと彼は一冊の古びた文献を差し出す。
頁の間に細かく紙片が挟まれ、随分と読み込んだあとが見て取れた。
「魔法の恩恵を誰もが受けられるようになればいいと始めたのが、魔導研究の始まりだった。しかしその技術が確立され普及すれば、いずれ魔力は枯れ、大地を食い潰すであろうとも早々に結論は出ていたのだ。そんな時に、一縷の望みを賭けたのが……」
魔法伯はヴェルミリオの手の上で頁を繰り、紙片の挟まれた箇所を指差した。
神々の創世記のさわりが、古い言葉で記されているのは、ヴェルミリオにもそれとなく読み取れた。
「ここに……ただそこに在るだけで魔力を生み、育むことのできる奇跡のような存在について記されている」
それは、下界の枯れた大地を嘆いた神が落とした涙から生まれたという。
涙は地に潜り、やがて黄金の芽を出すと、亜麻色の茎と葉を伸ばし、釣鐘状の花を咲かせ、大地を魔力で満たした。
挿絵に描かれた生成色の花弁は、ふわりと風を孕んで膨らむスカートのようだ。
「その花の名を──メィヴェルという」
魔法伯の無情な声に、古語を追いかけていたヴェルミリオの目も、絵に添えて記されたその名を拾い上げる。
愕然として、書物を取り落とした。
「あの娘が……人間ではないと? 花だというのか?」
「或いは、化身だろう。貴殿も竜も、どちらかと言えばそちらに近い存在だ。現に、あなた方しかその娘の姿を目にしていない。従者の目が常人より優れていたとして、果たして臨むことはできたかどうか」
枯れた花畑を見渡し、ヴェルミリオはくず折れる。
「ならばメィヴェルは……このどこかで絶えたというのか」
「元より、土を選ぶ扱いの困難な花で、わたしの力をもっても繁殖を望めなかったほどだ。魔力の渇いた地で、生きてはいけない」
初めて空中散歩に出かけた日、花畑から離れるほどに具合の悪くなったことが思い出された。
「メィヴェルは、月に怯えていたのだ。俺は、撃ち落としてやると言った……それなのに、肝心な時に守ってやれなかった」
穏やかなメィヴェルのことだ。最後まで人間の愚かさを恨まず、自らの非力さを嘆きながらも、ひとりこの地上に生まれた役目を果たそうとしていたに違いない。
物憂げで儚い微笑みが脳裏に蘇り、悲痛な慟哭が断崖に木霊した。
海と空のあわいに、帰りたいと涙した場所があるのなら、いまはそこへ還れたのだと思うことでしか心を保っていられなかった。
滲む視界に、取り落とした書物に描かれたメィヴェルの花が揺れる。そこには小さく花言葉が添えられている。
「慈しみ」「希望」。そして最後に、「再会の約束」だ。
魔力を浮かべた夜を思い出して、ヴェルミリオは懐の白い欠片に触れた。
『どんなに離れても、必ずまた会えるように……』
お守りだと託されたそれを、メィヴェルの心にも等しく大切に抱いていたが、今はそれが別の何かに見える。
ちょうど、文献に記された花の〈種〉のようだ。
ヴェルミリオはひとつの決意を胸に立ち上がる。
魔法伯に書物を返し、懇切丁寧に頭を下げるも、その顔は不敵な笑みを浮かべていた。
「これから俺は、貴殿の研究の成果をすべて破壊する。魔導具の類から施設に至る、すべてをだ」
これには傍らで沈黙していたユグナーも慌てふためく。
「そのようなことをすれば、閣下は本当に世界中を敵に回すことに」
「それでも構わない。花の咲かない大地に、人の未来があるとは思えぬ。不都合があるものは、俺を討てばよかろう。なあ、魔法伯殿」
魔法伯は杖を構えるかのような姿勢を取ったが、すぐに思い直した様子で腕を下ろした。
「本来なら、わたしが幕を引かねばならないものを、嫌な役回りを押し付けてしまった。申し訳ない。……ルモニアが我が国の救世主であるなら、貴殿は、この星の救世主だ」
「よせ、美談にしようとするな。俺は間違いなく、ひとに仇なすものだ。だが、それすら俺が自ら選んだことだ。神ではない、俺の意志で決めたのだ──」
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