竜の喰わぬは花ばかり

川乃千鶴

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後編 一輪の花

空は自由 1

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 谷川で顔を洗うヴェルミリオが仰いだ陽射しの中を、ひらひらと舞い降りてくるものがいる。

 しなやかなその身に風を纏い、色とりどりの衣を翻して、それはヴェルミリオの肩口を撫でた。
 そっと指先で摘み上げて、彼は微笑みかける。

「やあ、ご機嫌よう、侵略者殿」

 国境を越えた花々は、今日も優雅に、そして着々と──竜公爵の領地を侵している。

 *

 斥候を送り込んだ指揮官は、花畑の真ん中でうとうとしていた。
 今日は特に陽射しの暖かく、風も穏やかで、居眠りするにはもってこいの陽気だ。

 起こすのが可哀想な気もしたが、こんな日だからこそ、ヴェルミリオはメィヴェルに見せたい景色があった。

「起きよ、メィヴェル」
「うん……あら、ヴェルミリオ? どこ?」

 寝ぼけ眼できょろきょろとしているメィヴェルに、フィロスが風を送る。
 亜麻色の髪を掻き分け、褐色の瞳は宙を舞う紅蓮の竜と、尾を引くようにたなびく紅の髪を捉えた。

「しがらみのない場所へと散歩に行かぬか? いや、無理にとは言わんが……」
「無理……なことなのか、わたしには分からない。だって、ここから出たことがないから」

 少し不安そうに迷いを見せたメィヴェルだが、意を決して立ち上がった顔は思いの外、晴々としていた。

「でも、行ってみたいわ。連れて行って」
「承知した。じっとしていろ」

 フィロスは高く飛び上がったかと思うと、宙がえりして急降下した。花を散らさぬ、ぎりぎりを滑って、ヴェルミリオがすれ違いざまにメィヴェルを引き上げた。

「きゃあっ。びっくりした。公爵様のエスコートは、思ったより荒っぽいのね」

 珍しく声を出して笑った娘の頬に差す桃花色ももはないろが、花々の中で一番美しいと感じ、ヴェルミリオも穏やかに目を細めるのだった。




 フィロスは、陸の果てまで飛んだ。
 晴天の空を映した雄大な水鏡を臨み、メィヴェルは歓声を上げる。

「わあ……! これは、もしかして海? 初めて見たわ。とても大きいのね」
「爽快だろう?」
「ええ、とても。海と空の境が無くなって、ひとつに繋がったよう」

 この景色を眺めていると、ヴェルミリオは心が軽くなる。喰らい尽くせないほどの魔力の渦を波の中に感じ、まだ星は生きていると安堵できるのだ。

 メィヴェルなら、どんなふうに海を見つめるのか、ヴェルミリオは知りたかった。
 はしゃぐ声の様子から、きっと笑っているのだろうとメィヴェルに視線を移して、彼ははっと息を飲んだ。

 陶器のようななめらかな頬を、一雫の涙が伝う──メィヴェルは、海と空のあわいを見つめて涙していた。

「どうした」
「……え? あれ?」

 言われて初めて気付いたように、メィヴェルは頬を拭う。

「変ね、どうしてかしら。とても……帰りたいと思ったの」
「どこへ、だ?」
「どこだろう。どこか……失くしてしまったところ? おかしいの、わたしの帰る場所なんてないのに」

 メィヴェルは初めて、自分の口から何かを語ろうとした。だが迷いを露わに「ごめんなさい」と小さく呟いて、それ以上は口にしない。
 ヴェルミリオも突き詰めようとはしなかった。代わりに、小さな肩を引き寄せる。

「風に目が沁みたのだろう。少し目を瞑るといい」
「……ええ。ありがとう」

 メィヴェルはヴェルミリオの胸に頭を預け、そっと目を閉じた。

 悲しませるつもりはなかったのに、結果として泣かせてしまったことをヴェルミリオは悔やんだが、空にかせがないことだけはよかったと思えた。
 寄り添い、涙を拭ってやることはできる。

 メィヴェルの睫毛を濡らした最後の雫を指で掬うと、風が静かに攫っていった。
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