竜の喰わぬは花ばかり

川乃千鶴

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後編 一輪の花

つまらぬ娘 1

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 その日は、昼から雨が降り出した。
 横殴りに叩きつける雨風は、このところのうららかな陽気に慣れた体に、冬の寒さを蘇らせた。

 炎と風を混ぜ合わせ、暖気を洞窟に満たすことで、ヴェルミリオは快適な昼下がりを過ごしていた。
 しかしふと、外の様子が気になって、雨除けを引っかぶり表に出た。

 岩肌を滑り降りる雨水は、水嵩を増した谷川に飲み込まれていく。まだしばらくはやみそうにない。

「まさか、こんな空の下にはおるまいが……」

 フィロスの背を借り、崖の上に出てみて、ヴェルミリオはそのまさかに目を瞠った。

 降りしきる雨の中、娘はやはりそこにいた。
 いつも通り、何をするでもない。雨を忌避することもなく、ただ花を見つめている。

「……狂っているとしか思えん」

 取るに足らない村娘。隣国の民であるなら尚更、捨て置くに越したことはない。

 しかし……。
 ヴェルミリオは早くも、表に出たことを後悔し始めていた。
 目の届くところに、雨に打たれる娘がいるというのは何とも気分が悪い。
 たとえ住処に戻って雨音に耳を塞いだとしても、目を背けられやしないのだろうと、苦虫を噛み潰した。

 娘のためにしてやれることはないかと逡巡している間にも、雨は横殴りに花々を叩きつける。

「いたしかたあるまい……」

 フィロスは友の意を介して、背中を差し出した。



 空は国の垣根に縛られない、手練れの魔法使いと翼のあるものにだけ与えられた自由な場所だ。
 まして国を持たぬ竜が、シルミランの上を散歩していても咎められることはない。

「空を飛ぶ魔導具などというものが開発され、誰もが飛べる時代が来れば、国境線は空にも引かれるのだろうが……。果たしてそれまで、大地は人を許しておくだろうか」

 今はまだ豊かな花畑を見下ろして、ヴェルミリオは憂いを深める。
 フィロスが気遣わしげな細い声で鳴いた。

「すまない、言っても仕方のないことだ。アイオラの子もおるのだ。俺が心配することでもないな。
さあ、うまく飛べよ。花を散らさぬようにな」

 曇天の空に紅蓮の巨躯を翻し、フィロスは娘のいる花畑の一角へゆっくりと降下する。
 もちろん地上へは降りずに、娘の頭上で翼を広げて停空した。
 フィロス自身がひさしとなって、娘を雨から守るようだ。

 頭上に、見た目だけなら凄みのある竜が飛来したというのに、娘はぴくりともしない。
 フィロスの柔らかく羽ばたく翼から送られる風に、亜麻色の髪から雨粒が弾け飛び、濡れそぼった衣服を揺らしても、寒がる様子さえなく、じっとその場に座ったままだ。

「おい、娘。このような空の下、かような場所で何をしている」

 竜の背からヴェルミリオが声を掛けて初めて、娘は驚いた様子で顔を上げた。

 雨水の滑る透けるような白肌が、ただの村娘にしては眩しい……十六、七の娘だ。
 小ぶりな輪郭から、褐色の瞳を零れ落としそうなほど見開かせてはいるものの、怯える素振りは見られない。
 娘はただひたすら虚を突かれたといった顔で、フィロスを見上げる。

「いつまでそうしているつもりだ。風邪をひいてしまうぞ」

 娘は目をぱちくりとさせるだけで、何も答えない。

「住まいはどこだ」

 後ろに見える屋敷か──とは、常日頃見ているのを変に受け取られそうな気がして、口にできなかった。

「それとも、迎えを待っているのか?」

 言いながら、ヴェルミリオは娘の出立ちを確かめる。
 一介の村娘にしては、指の先までしなやかに品のある容姿ではあるが、身につけた木綿のワンピースと毛織りのベストは、下々を侍らせ迎えを待つものの装いとして相応しくない。
 そもそも、そのような身分であるなら、こんな所にいやしないと思い出して、ヴェルミリオは問いを改めた。

「この竜を恐れぬのであれば、そなたの望む場所まで届けてやるが、どうか? 安心しろ。乗り心地は悪くない。思ったほどよりは、な」

 竜公爵の名が隣国の娘にまで届いているのかは分からなかったが、できる限り穏やかに語りかけたつもりだった。
 ところが娘は一言も返さないばかりか、ふいと視線を逸らして、二度とは顔を上げようともしなくなってしまった。

「耳が聞こえぬのか? それとも口がきけぬのか?」

 何を言っても無言で花を見つめ続ける娘に、ヴェルミリオは石像にでも語りかけているような虚しさと、同時に苛立ちも覚え始めた。

「ふん。そんなに花が好きか。ならば、その身が朽ちるまで見ていればよかろう。幸い、手向けの花は余るほど用意されていることだしな。──行くぞ、フィロス」

 竜が飛び上がる瞬間の大きな羽ばたきで、娘の体が傾ぐ。

「あっ……」

 娘の口から初めて、小さいが、鈴を鳴らすような声が飛び出した。

 折れそうに華奢な体を、手に泥を噛ませて支える姿が、ヴェルミリオの胸を刺す。
 やはり放ってはおけないと手を差し伸べようとした時、しまい込んでいたアイオラの声が脳裡をかすめた。

──お兄様の心を慰める道具ではありません。

 びくりとして、ヴェルミリオは手を引っ込めた。
 まだ英雄気取りで、誰かのためになったつもりになって自己満足しているのかと、腫れ物王子が心の淵で足を引っ張る。

 娘は初めから返事もしなければ、助けなど求めていないではないか──竜公爵はそう言い聞かせて、無理矢理に己を納得させると、フィロスに乗ってねぐらへと帰った。

 その晩は雨音がうるさくて、胸がざわつき、ちっとも眠れやしなかった。


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