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追加エピソード②
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しおりを挟む手の中の温もりが消えてからも、他愛もない話をし、遠回りに遠回りを重ねた帰り道はまだまだ続いていた。
さすがに脚が疲れて、エメラダは橋の上で歩みを止めた。ふと目についた欄干には、銅線編みの花が飾られている。中に燭台が確認できた。ここに火が灯る、春祭りの夜はさぞ美しかろうと思い浮かべ、エメラダはうっとりとした。空想した宵の橋には、豊穣の女神が微笑んでいる。
スフェーンは多神教国家だ。世界をお創りになった主神の下に豊穣の神、武の神、知識の神と……市場に軒を連ねる店さながらに御用向きに沿った神々が存在する。その宗教観に初めは戸惑ったエメラダだが、人々の暮らしを学ぶうちに、国が変われば神も変わるのだと受け入れていった。そしてそれが改めて、己はただの人間なのだとの思いを強めるきっかけとなった。
「フェイ、知っていますか? 春祭りの面と舞のこと」
川面を揺蕩う水鳥を見ていたフェイは、茶鼠色の目を僅かに彷徨わせてから、エメラダに向き直る。小さく頷く様子だ。
「それでは、わ……わたしとっ……! 揃いの面を付けて、踊ってくれませんか!」
長いこと遠回りしたが、やっと言えた──!
だが本当に勢いだけで言ってしまった──!
達成感と羞恥心の狭間で、エメラダは急激に顔が火照り出して、汗さえ滲んだ。フェイを直視できず、足元を見下ろしていたら、ぼそぼそとした答えが返ってきた。
「……できない、です。俺は、踊れない」
「舞が? ステップはなんでもいいんですのよ」
「違います。貴女とは、踊れない……です」
高揚して高鳴っていた胸が、大きく一跳ねしてどくどくと不穏に脈打つ。火照った頬から熱が引き、冷たい汗がエメラダの首筋を撫でた。
フェイは嘘をつく人間ではない。エメラダはそう信じている。それなら、これが彼の答えだ。
恥ずかしそうに頷いて手を取ってくれる彼の姿を、頭の片隅に想像していたエメラダは、驕っていた自分自身にひどく痛めつけられた。
ぐっと涙をこらえて、フェイを見上げると、彼はまた川面に視線を戻していた。
「……わたし、と踊れないのに、一緒にいてくれるのはどうしてですか? アルに、頼まれたから?」
「そうじゃないんです。貴女は、あの子たちと同じだから……」
橋の下の水鳥を指差し、フェイは眼差しに憂いを深めた。
「あの子たちは、初めて見たものを親だと思う。それと同じで、お嬢様も……。初めて触れた刺激に、俺をいいものだと……そう、刷り込まれただけです。俺なんかでは、不釣り合いだ。だからいつか貴女は目を覚ます。いつか、本当の恋をして、飛び立っていく……飛べるようにしなくちゃいけない。だから、俺は貴女と踊れない、踊っちゃいけないんです」
項垂れるように川面に目を伏せて、フェイは声を絞り出す。
「……それでも、その時まで……。貴女が俺のもとを離れるまで、一番近くで貴女を見ていたい。そばにいられる間は、貴女の心は俺のものだって、そんなことばかり考える……。浅ましい男なんです、俺は」
「そんなことを……考えていらしたの」
エメラダも並んで水鳥を眺めながら、いつにもまして頼りなげな背中に、そっと寄り添った。身を強張らせながらも、フェイは動かない。
「……今は、なにを考えていますか?」
「あ、貴女に触れられて、嬉しい……」
「……では、わたしと一緒。心がとても喜んでいるの」
水鳥が飛沫を上げて羽ばたき、フェイの緑青色の髪に光る雫を降らせていった。それがとても綺麗だとエメラダは思う。
「フェイ、貴方はわたしを侮りすぎですわ。確かにエメラダは無知ですけれども、人を見る目くらい養ってきたつもりです。この想いが刷り込みなら、アルでもロニーでもよかったはずなのに、わたしは貴方を選んだのです。お願い。わたしを信じて。この想いを認めて」
わたしと踊ってください、と改めてエメラダはお辞儀をする。フェイはその手を取ったが、やはり頷きはしなかった。
「……一年。あと、一年待ってください」
「一年?」
「魔女のエファリューは、貴女のすべてを奪うと言いました。でも俺は、貴女には奪うのではなく、手に入れてほしい」
「手に入れる? 何を?」
「魔女でも姫でもない、貴女だけの顔……名前と戸籍を」
神女として育てられる第一王女には、もとより戸籍がない。住民に勧められるまま、エファリューの在住票に乗っかってきたが、フェイはそれをよく思っていなかった。
一年間、居住歴があって税を納められる生活基盤が整っていれば、エメラダのような成人前の娘でもスフェーンの戸籍をもらえるという。
「そうしたら、貴女は本当に……ただの町娘だね」
にっこりと微笑むフェイに、エメラダは未来を垣間見た。
──きっと今度の……その次の春の祭りでは、一緒に踊っている。揃いの面を付けて、フェイは従僕の顔を捨て、エメラダは新しい名前に新しい顔で……。そして彼の腕に留まって、飛び立つことはないのだ。
「新しい名前は、フェイに付けて欲しい。これから先、一番呼んでほしいのは貴方だから……。思わず呼びかけたくなるような名前を付けて?」
「……頑張って、考えます。だから、待っていて」
朴訥とした青年は、重ねた手にキスさえしない。だが手を離すこともないまま、歩みを揃えてゆっくりと帰路を辿った。
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