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第三章 エヴァの置き土産

エヴァの子

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 もう、原石──もとい魔石に呪いの気配も、魔人の思念も残っていない。だが未知ゆえの恐ろしさからか、アルクェスは割れた石を箱に仕舞い、切れた封を結び直した。

「……呪いの源は魔人の遺物であると判明しましたが、今後の対応は如何いたしましょう」
「既に流通している縞瑪瑙を、原石から加工されたものに到るまで回収し、解呪……というのも、途方もないですな」

 オットーの視線が、申し訳なさそうに神女に注がれる。

「それらを清めて終わるのか……と、不安も残りますが」

 採掘業者に変事あれど、鉱山が生きているなら、果たしてそこにはどれほどの魔石が眠っているのか。

「……そうだわ、源──。呪いを産み出す地を清め、死者の魂を鎮めることができたら或いは……」
「なんと! 魔人……を、神女様が封じると!?」
「まるで神話の再現のようですね」

 にわかに瞳を輝かせる彼らに、エファリューは失笑を禁じ得ない。

「目を覚ましなさい、アル。これは御伽話なんかじゃないの。古の戦が終わっていないだけよ」
「エファ……エメラダ様っ、口を慎んでください」

 冷静さを欠き、うっかり口にしてしまって、エファリューは取り澄ました神女の笑みでオットーを振り返った。ますます驚きを露わにするオットーだったが、曖昧に微笑むのみだ。

「アルクェス。メリイェル侯に連絡は取れますか? 陛下へのご奏上を急いでいただき、鉱山の特定と、解呪へのご助力を願いましょう」
「は、至急」

 伝心の魔法でロニーと対話するため、アルクェスは席を外す。
 穏やかな大僧主は、魔石の入った箱を手元に引き寄せ、ぽつりと呟いた。

「まあ……期待はしておりませんが」
「え?」
「陛下にその気がおありなら、既に動かれていることでしょう。しかし、我々に何の御沙汰もない現状を鑑みるに、神女様のお力を借りず内々に済ませるおつもりか……はたまた、に目立たれては困る、どなたかの意向が加わっているのやもしれませんからね」

 エメラダにあからさまな対抗意識を見せていた、幼い姫にエファリューは密かに舌打ちする。

「そん……そのようなことを言っている場合ではございません。このままでは、クリスティアの民がどれほど命を落とすか知れないのに」
「ほう、この国の民がご心配ですか?」

 好好爺の眼差しで、オットーはおかしなことを尋ねてきた。神女に問うなら、なんという愚問だろう。それをわざわざ問う彼の目には、エメラダが映っていない気がして、エファリューは慎重に言葉を紡いだ。

「も、勿論です。ですが、わたくしの気掛かりはそれだけにあらず……、呪詛に成り果てた魔人こそ、憐れに思えるのです」
「そうですか、貴女様は魔人に心を寄せますか……」

 オットーは妙に深く頷き、それから悪戯っ子のような珍しい笑い方で、箱をひと撫でした。

「身共も、同じ思いです。
神女様の教えを守るわたしが、このようなことを言っては、懲戒ものでしょうな。エヴァの子と罵られるやもしれませぬ。しかし大僧主という立場を脱ぎ捨てた時、身共にもいろいろと思うところはありましてな……」

 それを語る時間は今はない、と彼は続ける。

「さて、エメラダ様。神女様の座をいつまでも目隠しで覆っておくわけにもいきませんので、明日から修繕に回そうと考えております。作業が終わるまで、およそひと月はかかるでしょう。その間、お席がなくては神女様に失礼というもの。従ってエメラダ様にも、お務めをしばしお休みいただこうかと……」
「オットー?」
「参りましたなあ。神女様がご不在となりますと、身共は忙しくなりますので、空を眺める時間もございません。クリスティアの危機に、聖竜様が再び駆けつけてくれるやも……と、期待しておるのですが」

 やれ残念だと呟く裏腹な微笑みに、エファリューは心底驚いた。温厚で実直な聖職者である彼が、ひと月の猶予を与えるから、フューリを連れて、魔人の魂を救いに行けと唆しているようにしか聞こえない。なんという過激な企みだろう。だがエファリューには、これ以上に嬉しい休暇はなかった。

「オットー……感謝します」
「はて? 何のことでございますかな」

 オットーはにこやかにとぼける。
 程なくして戻ってきたアルクェスのことも、何食わぬ顔で迎え入れた。過保護な教育係の前ではできない相談と知って追いやっておきながら、これだ。彼は見た目以上に強かな老爺らしい。
 敵に回すのだけは避けねばと、恐れ入る思いがしたエファリューだが、同時に強い味方を得たのだと悟り、決意を新たにした。

 エヴァと神女の八百年の遺恨に決着をつけるのは、エヴァの子であるエファリューの使命に違いない。ならば今日まで生きてきたのも、無駄ではなかったのだと、星の巡り合わせに自然と頭が下がる。神など存在しない、信じられるのは己だけ──そんなエファリューが初めて、心から天に感謝の祈りを捧げた。







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