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第三章 エヴァの置き土産

孤狼の爪痕

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 互いの縄張りを見極めるような睨み合いを続けながら、エファリューは女性の身体から溢れ出し、血溜まりのように染みを作っている濃い闇を、爪先で蹴り上げた。

『エメラダ様は、そのような行儀の悪い脚をお持ちではありません!』

 目を瞑ると約束したはずが、我慢できずに叱りつけてくるエメラダ狂信者に小さく舌打ちし、エファリューは足を滑らせたふりで誤魔化した。

 跳ね上げた闇を、すかさず指に絡め取る。
 刹那、糸を絡めた指先が千切れたような感覚をエファリューは覚えた。これまでと比べ物にならない痛みが肌を刺し、糸を振り解きたい衝動に駆られるのを何とか堪えた。
 狼は女性の上にのし掛かったまま、動いていない。それなのにエファリューは、眼前に狼の牙と息遣いを感じた。まるで指先を食い千切られたような錯覚さえ覚え、冷や汗が背中を伝う。
 痛みに意識を集中すると、鋭く、深い痛みが指先を締め付け、闇が絡みつく指がちゃんと存在していることを再確認できた。黒々とした糸ごと、拳をぐっと握り込み、エファリューは息を整える。

 この糸も、例によって戦場のにおいがした。今日のは酷く土臭い。
 においを感じた途端に、指先に走っていた痛みが、全身を締め付ける圧迫感に変わった。まるで前と後ろ両方から、押し潰されるようで、息が苦しい。
 顎を反らせ、はくはくと口を鳴らし、狭められた気道に辛うじて空気を取り入れる。
 神女の只ならぬ様に、周囲で見守る者たちは色を失くすが、まだまだエファリューは気持ちでは負けていなかった。


(全盛期のエヴァに匹敵すると、師匠に言わしめたこのわたしが、押されるなんてあってたまるものですか)

 圧倒的に負けているのは、魔力の量だ。普段であれば、丁寧に術を解いてやることもできるのだが、そんなことを言っていられる余裕も余力もなかった。
 糸を解くのが困難なら、力尽くで剥がす他ない。しかし呪いと女性との癒着が深いほど、命の危険を伴う。それどころか下手をすれば、呪いが自分に跳ね返る恐れもある。
 だが最早、しのごの言っていられる状況ではない。

(できればちゃんと受け入れてあげたいのよ。無理矢理なんて、駄々をこねる子を捩じ伏せるようで、気が進まないわ)

 握りしめた呪いの糸に、エファリューは魔力を逆流させた。相反する力で、女性の身体から呪いの根を強制的に引き抜きにかかる。
 女が呻く。痛みがあるのだ。しかしそれは着実に呪いが剥離している証拠だ。
 狼は抵抗するように、のし掛かった胸に爪を食い込ませた。しがみつくというより、何かを守り覆い被さるような姿勢だ。
 食い込む爪に、女は断末魔の悲鳴を上げるが、狼の姿をした呪力はお構いなしだ。少なくとも、守りたいのは宿主の女性ではないらしい。

 エファリューはじっと目を凝らす。黒い爪の先に、何か白っぽいものが光った。女性が胸に付けているのは、カメオのようだ。

(それが本体──呪いの核ね!)

 呪力の源が分かれば、そちらを叩いた方が早い。エファリューは魔力の流れを、カメオに集中させた。
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