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第一章
後悔
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吉行は、駅まで走った。冬の冷たい空気が、頬に当たる。肺にその冷たい風が入って来る。息が苦しい。喉がカラカラに渇いている。足がガクガクする。早く、早く電車に乗って、新幹線には、すぐに乗れるだろうか。
駅に着くと、ちょうどホームに入って来た電車に飛び乗った。真冬なのに汗だくだ。さっきの母親の声が、頭の中でこだまする。お父さんが危篤。ずっと元気だったのに、どうして。
高校3年の夏休み頃から、まともに話をしていなかった。自分が性同一性障害で、苦しんでいた時、やっとそのことを相談したのに、全く取り合ってくれなかった。手術については、頭ごなしにダメだと言われた。兄のサポートで、手術を受けて、そこからは、顔を合わせないように、家の中でも避けていた。大学に入ってからは、1度も実家には帰っていないし、連絡もしていない。それは、父親がずっと元気だと思っていたから。話せばケンカになると思っていた。こんなことになるなら、ケンカになってでもいいから、話しておけばよかった。
吉行が幼い頃、父親は、吉行に甘かった。兄と7つ違いの女の子。整った顔をしていて、利発でよく笑う活発な子だった。そんな娘を、可愛がっていた。休みの日には、遊園地や動物園、テーマパークに連れて行った。欲しいものは何でも買ってやった。ただ、女の子らしい洋服は、好んで着なかったが。思春期になり、だんだん、父親との距離が離れていった。それでも、父親は、娘のことを見守っていた。だんだん、変わっていく娘を受け入れられなかったのだろう。顔を合わせば、いつも口論になった。そして、いつしか口をきかなくなり、避けるようになったのだ。
新幹線に乗り換えると、再び着信があった。今度は、兄からだった。吉行は、デッキに移動した。
『兄ちゃん。もう、着いてる?』
『ああ、さっき着いた。今、どこだ?』
『今、新幹線に乗ってる。あと1時間ぐらいで着くよ。』
『そうか。気をつけて来いよ。』
『兄ちゃん、お父さんは?どうなの?』
『まだ、手術中。難しいかもしれないって。』
難しいって、どういうことだろう?さっきの母親のように、取り乱している様子はなかったが、兄の声は、沈んでいた。
『本館4階の手術センターにいるから。』
吉行は、そのままデッキの扉の窓から、外を見ていた。真っ暗な窓に、自分の顔が写る。疲れた顔をしている。人からは、綺麗だとか整った顔とか、よく言われるが、自分では分からない。こんな顔じゃなくてよかったから、男の体が欲しかった。男の身体だったら、父親との間に軋轢は生じなかったはずだ。
総合病院に着くと、フロアマップを確認して、本館4階目指して急いだ。夜遅かったから、人はほとんどいない。照明も、ところどころ消されていた。廊下の突き当たりに人影が見える。看護師のようだ。医療関係者以外、誰も見当たらない。目の前を通りがかった看護師に聞いた。
「あのっ。すみません。陸奥といいます。ここで、手術受けてるはずなんですけど…。」
「あっ。陸奥さんのご家族の方?」
「はい。父は?」
「ご案内します。」
看護師と一緒に、すぐ傍にあるエレベーターに乗った。無機質な病院の廊下を進み、ある部屋の扉の前で立ち止まった。
「こちらです。」
ノックをして、扉を開ける。
真っ白なベッドの中に、横になっていたのは、父親らしい。顔が見えない。白い布が掛かっているからだ。母親と兄がいた。母親は、ベッドにしがみついて泣いている。吉行は、目の前の光景が、現実なのか何なのか分からなかった。ドラマや映画で、こんなシーンを観たことがある。自分が当事者になるなんて、夢にも思わなかった。頭が、今、目の前で起こっていることについていけない。処理できない。人って、こんなにあっけなく死ぬものなのか。
「兄ちゃん…。俺、間に合わなかったの?」
「急だったから。」
「俺、お父さんと、ちゃんと話してないんだ。体のこととか、ちゃんと…分かって…もらって…ない…。」
そこから、どう実家まで帰ったか、断片的にしか覚えていない。葬儀屋が来て、兄が打ち合わせをしていた。兄の車で実家まで戻ったようだ。
父親は、リビングでTVを観ていたら、急に意識がなくなって、病院に運ばれたらしい。虚血性心不全という診断名がついた。突然死だった。父親の書斎は、そのまま明日も彼がそこを使うように、いろいろな資料が並べてあった。パソコンも、携帯も持ち主を待っているようだった。椅子にかけてあるカーディガンは、吉行が中学3年生の時、誕生日にプレゼントしたものだった。まだ使っていたんだ。毛玉がいっぱいできて、袖口もボロボロなのに。
「お父さんね、吉行のこと、分かろうとしてくてたよ。」
「お母さん。」
泣き疲れ、目を腫らした顔をした母親が、書斎の扉の所に立っていた。
「あなたは、遅くに授かった子だから、可愛くてしかたなかったみたいよ。」
椅子からカーディガンを取ると、愛おしそうに胸に抱いた。
「その体のことは、ちょっとした個性だって、理解しようとしてたよ。」
「でも、顔合わせると、すぐ口論になってた。」
母親は、手を引いて、吉行の部屋へ連れて行った。そこは3月の半ばに、吉行が出て行った時のままにしてあった。クローゼットを開けて見せた。中には、スーツが3着掛かっていた。どれも見覚えがない物だった。
「何?これ?」
「お父さんがね、吉行にって、入学祝いと誕生日祝いと兼ねて、スーツ買ってくれてたの。ネクタイもね。」
よく見ると、1着はストライプのダークグレイ、もう1着は深い紺色、最後の1着は、喪服だった。
「冠婚葬祭に対応できるようにって。吉行が帰って来た時に渡すって言ってたのよ。」
「そう…なんだ。もっと早く帰って来ればよかった。」
「お父さんも、頑固だから。あなた達、似てるわね。」
「お父さん、怒ってた?」
「怒ってないよ。娘が息子になっちゃったから、戸惑ってただけ。大丈夫。親は、子どものこと、絶対に嫌いにならない。」
「俺、兄ちゃん、手伝って来る。」
吉行は、父親の書斎で、写真を見ている兄に声をかけた。
「兄ちゃん、俺、何かできることある?」
遺影の写真を探しているらしい。
「写真、どれにしよう。」
あまり多くはないけど、懐かしい写真が机の上に並べられていた。
「ちょっと古いけど、これは?」
吉行の高校の入学式の時、玄関前で家族4人で撮ったものだ。父親が特にいい笑顔で写っている。
「いいな。これにしよう。」
兄は、懐かしそうに写真を眺めた。
「吉行、一服しようか?」
父親の机の引き出しを開けて、中からタバコの箱を出した。幼い頃から見ているパッケージ。吉行が、今吸っているのとは違う、タールが強めで喉にガツンと来る感じがする。あぁ、お父さんの匂いだ。
吉行は、長生きなんてしたくないと、高校の部活を引退した頃から、タバコを吸い始め、酒を浴びるほど飲んだり、昼夜逆転の生活をしたり、食生活もかなり乱れていた。でも、長生きしないと、こんなにも周りの人を悲しませることになるのかと、自分の考えや行動が、浅はかだったと思い知った。
駅に着くと、ちょうどホームに入って来た電車に飛び乗った。真冬なのに汗だくだ。さっきの母親の声が、頭の中でこだまする。お父さんが危篤。ずっと元気だったのに、どうして。
高校3年の夏休み頃から、まともに話をしていなかった。自分が性同一性障害で、苦しんでいた時、やっとそのことを相談したのに、全く取り合ってくれなかった。手術については、頭ごなしにダメだと言われた。兄のサポートで、手術を受けて、そこからは、顔を合わせないように、家の中でも避けていた。大学に入ってからは、1度も実家には帰っていないし、連絡もしていない。それは、父親がずっと元気だと思っていたから。話せばケンカになると思っていた。こんなことになるなら、ケンカになってでもいいから、話しておけばよかった。
吉行が幼い頃、父親は、吉行に甘かった。兄と7つ違いの女の子。整った顔をしていて、利発でよく笑う活発な子だった。そんな娘を、可愛がっていた。休みの日には、遊園地や動物園、テーマパークに連れて行った。欲しいものは何でも買ってやった。ただ、女の子らしい洋服は、好んで着なかったが。思春期になり、だんだん、父親との距離が離れていった。それでも、父親は、娘のことを見守っていた。だんだん、変わっていく娘を受け入れられなかったのだろう。顔を合わせば、いつも口論になった。そして、いつしか口をきかなくなり、避けるようになったのだ。
新幹線に乗り換えると、再び着信があった。今度は、兄からだった。吉行は、デッキに移動した。
『兄ちゃん。もう、着いてる?』
『ああ、さっき着いた。今、どこだ?』
『今、新幹線に乗ってる。あと1時間ぐらいで着くよ。』
『そうか。気をつけて来いよ。』
『兄ちゃん、お父さんは?どうなの?』
『まだ、手術中。難しいかもしれないって。』
難しいって、どういうことだろう?さっきの母親のように、取り乱している様子はなかったが、兄の声は、沈んでいた。
『本館4階の手術センターにいるから。』
吉行は、そのままデッキの扉の窓から、外を見ていた。真っ暗な窓に、自分の顔が写る。疲れた顔をしている。人からは、綺麗だとか整った顔とか、よく言われるが、自分では分からない。こんな顔じゃなくてよかったから、男の体が欲しかった。男の身体だったら、父親との間に軋轢は生じなかったはずだ。
総合病院に着くと、フロアマップを確認して、本館4階目指して急いだ。夜遅かったから、人はほとんどいない。照明も、ところどころ消されていた。廊下の突き当たりに人影が見える。看護師のようだ。医療関係者以外、誰も見当たらない。目の前を通りがかった看護師に聞いた。
「あのっ。すみません。陸奥といいます。ここで、手術受けてるはずなんですけど…。」
「あっ。陸奥さんのご家族の方?」
「はい。父は?」
「ご案内します。」
看護師と一緒に、すぐ傍にあるエレベーターに乗った。無機質な病院の廊下を進み、ある部屋の扉の前で立ち止まった。
「こちらです。」
ノックをして、扉を開ける。
真っ白なベッドの中に、横になっていたのは、父親らしい。顔が見えない。白い布が掛かっているからだ。母親と兄がいた。母親は、ベッドにしがみついて泣いている。吉行は、目の前の光景が、現実なのか何なのか分からなかった。ドラマや映画で、こんなシーンを観たことがある。自分が当事者になるなんて、夢にも思わなかった。頭が、今、目の前で起こっていることについていけない。処理できない。人って、こんなにあっけなく死ぬものなのか。
「兄ちゃん…。俺、間に合わなかったの?」
「急だったから。」
「俺、お父さんと、ちゃんと話してないんだ。体のこととか、ちゃんと…分かって…もらって…ない…。」
そこから、どう実家まで帰ったか、断片的にしか覚えていない。葬儀屋が来て、兄が打ち合わせをしていた。兄の車で実家まで戻ったようだ。
父親は、リビングでTVを観ていたら、急に意識がなくなって、病院に運ばれたらしい。虚血性心不全という診断名がついた。突然死だった。父親の書斎は、そのまま明日も彼がそこを使うように、いろいろな資料が並べてあった。パソコンも、携帯も持ち主を待っているようだった。椅子にかけてあるカーディガンは、吉行が中学3年生の時、誕生日にプレゼントしたものだった。まだ使っていたんだ。毛玉がいっぱいできて、袖口もボロボロなのに。
「お父さんね、吉行のこと、分かろうとしてくてたよ。」
「お母さん。」
泣き疲れ、目を腫らした顔をした母親が、書斎の扉の所に立っていた。
「あなたは、遅くに授かった子だから、可愛くてしかたなかったみたいよ。」
椅子からカーディガンを取ると、愛おしそうに胸に抱いた。
「その体のことは、ちょっとした個性だって、理解しようとしてたよ。」
「でも、顔合わせると、すぐ口論になってた。」
母親は、手を引いて、吉行の部屋へ連れて行った。そこは3月の半ばに、吉行が出て行った時のままにしてあった。クローゼットを開けて見せた。中には、スーツが3着掛かっていた。どれも見覚えがない物だった。
「何?これ?」
「お父さんがね、吉行にって、入学祝いと誕生日祝いと兼ねて、スーツ買ってくれてたの。ネクタイもね。」
よく見ると、1着はストライプのダークグレイ、もう1着は深い紺色、最後の1着は、喪服だった。
「冠婚葬祭に対応できるようにって。吉行が帰って来た時に渡すって言ってたのよ。」
「そう…なんだ。もっと早く帰って来ればよかった。」
「お父さんも、頑固だから。あなた達、似てるわね。」
「お父さん、怒ってた?」
「怒ってないよ。娘が息子になっちゃったから、戸惑ってただけ。大丈夫。親は、子どものこと、絶対に嫌いにならない。」
「俺、兄ちゃん、手伝って来る。」
吉行は、父親の書斎で、写真を見ている兄に声をかけた。
「兄ちゃん、俺、何かできることある?」
遺影の写真を探しているらしい。
「写真、どれにしよう。」
あまり多くはないけど、懐かしい写真が机の上に並べられていた。
「ちょっと古いけど、これは?」
吉行の高校の入学式の時、玄関前で家族4人で撮ったものだ。父親が特にいい笑顔で写っている。
「いいな。これにしよう。」
兄は、懐かしそうに写真を眺めた。
「吉行、一服しようか?」
父親の机の引き出しを開けて、中からタバコの箱を出した。幼い頃から見ているパッケージ。吉行が、今吸っているのとは違う、タールが強めで喉にガツンと来る感じがする。あぁ、お父さんの匂いだ。
吉行は、長生きなんてしたくないと、高校の部活を引退した頃から、タバコを吸い始め、酒を浴びるほど飲んだり、昼夜逆転の生活をしたり、食生活もかなり乱れていた。でも、長生きしないと、こんなにも周りの人を悲しませることになるのかと、自分の考えや行動が、浅はかだったと思い知った。
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