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動地剣惑星 (どうちけんまどいぼし)
魔剣は一日ではならない 前編
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金城市はかつての城下町として栄え、現在は観光資源や伝統工芸などを売り物に成長している街である。最近の外国人観光客の増加もあって好景気に沸いてた。
更なる増益を見込んでちょっとした建設ラッシュが起きている市街区。駅から少し離れ、観光の拠点として改築を進めているホテルの中で、人知れず戦いは佳境を迎えていた。
敵、少なく見積もって五百は下らず。下手をすれば千の大台に乗るかも知れない。我、戦闘要員僅かに二人。ただしこれは組織の余裕の無さもあるが、二人の戦術的価値が凡夫を百千並べるより高いという意味もある。
シャンデリアの輝きを錦糸のような髪が反射する。波打つ時の自然さは、その持ち主は生前さぞかし男の目を惹きつけていただろうと思わせる。だが、今の所有者は人間ではなく、さらに言うと人型ですらない。
濃紺のシスター服をマントのようになびかせ、体のラインを隠すゆったりした布地に反逆して、一部の凸部が揺れる。骨に絡まっているだけに見える髪が、彼女の腕に合わせて虹のように曲がり、洪水のように氾濫した。無垢な乙女の歯を加工して臼に変えた対魔用審問兵装。異端審問裁判長エリッサ・クルス=モリネーロの愛機『煉獄の乙女』の髪巻き機構がかなきり声に似た独特の駆動音を上げて、地にのさばる屍鬼も空気中で増長する化け物蚊も何から何まですり潰してゆく。そこに一切の遅滞も疲労も無い。
猛烈な速度で腐肉から挽肉、挽肉から灰に変わっていく。弾丸では捉え切れない蟲の群れも網目の如く絡まった髪が地引網のように一掃する。
本来重火器で完全武装した兵員が中隊規模で当たらなければ全滅してもおかしくない状況を一人で裁いてゆく。
だが、その恐るべき審判から逃れる亡者が幾つか見える。見た目では他の屍鬼と変わりない。いや、事実屍鬼に個性など存在しないのだ。見逃されたことに感謝するでもなく、エリッサの白い肌に牙を突き立てんと歪んだ本能のままに走る。
その頭上に影が落ちた。
薄っぺらい何かが屍鬼を押し包む。頼りなく見えた人型の布は、しかし獲物を絞め殺す蟒蛇じみた剛力で屍鬼の体積を半分に圧縮し、開くときには灰だけが残っていた。
「エリッサさん。その子の調子が悪そうだけど、何か問題があるの?」
普段と変わりない柔らかい口調で御影光世が尋ねる。こちらは黒に近い灰色の袴に人型の布束を下げ、紺色の襦袢と脚袢、濃淡の違う黒の斑模様の羽織を襷がけにしている。影に溶け込む色合いに機動を考慮した装備である。半包囲された窮地の中、あくまでマイペースであった。
「いえ、調子は実によろしいのですが、この子はあの人たちを滅ぼしたくないようですね」
こちらも世間話のように不利を語るエリッサ。青銅色の瞳から発する眼光はいささかも揺るがず、水晶を散らしたように輝く肌が長引く戦いを物語るのみである。
「審問兵装なのに?」
「審問兵装だからです。どうもあの方々はまだ罪を犯していないようで」
『煉獄の乙女』は強い。化け物に対して無敵と言っていいほどに。だが完璧ではない。彼女の力の源は自分達を無残に殺害した異形への憎悪である。憎悪はその矛先にある物の一切を打ちひしぐ暴風だが、時には憐憫の雨を運ぶこともある。
呪いによって怪物に変えられただけの、まだ人を喰い殺してもいない屍鬼を彼女は被害者と判断した。どうして挽けよう、己等と同じ境遇の者を。
甘い話ではある。滅し滅されの闘争で敵を峻別するなど許し難き怠慢。しかしエリッサはその甘さを正義と信じ、その愛を力と信仰していた。愛故に死するならば使徒として本望である。
「ふむー。ということはここの人たちは何処かから輸入されてきたってことか。油断してたなあ」
「ええ、困ったものです。この子をあまり怒らせたくないのですが」
そして屍鬼の倍々算でここまで増えた訳でないなら、どこかから攫ってきて一気に変えたということになる。だがそんな行動をとれば自らの所在を喧伝するに等しい。そこでどうしたか。運んだのだ。
屍鬼のまま海を渡らせることは困難であるため、恐らく人間のまま。南北戦争以前の奴隷船よろしく貨物として送ったのだろう。政情の不安定な地域では数に入らない人間というものが腐るほどある。文字通り。
だがどのような理由あれ、怪物の原材料に人を消費しあまつさえそれを放つ。暴挙である。この後に及んでは問答無用。二人とも腹を括った。
「それじゃあここは僕の式でなんとかするから、エリッサさんは親玉をお願い」
「もちろんですとも。早めに片付けてお布団にもぐらせていただきますね。夜更かしは体に悪いですから」
エリッサが懐から長い棒状の物体を取り出す。刃長約70cm。全体は銀色、簡素なお椀形の護拳に、刺突に適した菱形の断面の刀身。古めかしい突剣であった。
「汝等罪無し」
呟くと、片手に2m以上の機械を持ったまま、急降下する猛禽の速度で突貫する。左は骨の盾が甲殻類の脚のように動き回って防御し、右から来る者を刷毛を放るように突き、頭と心臓を的確に破壊する。
その体が傾いだ。『煉獄の乙女』のフレームを屍鬼が掴む。鍛えているとは言え人間と鬼、更に多勢に無勢である。エリッサは逆らわない。屍鬼の手が伸びる。
骨が震える。盾を形作る腕の骨格が籠を形作り、エリッサを凶手から守る。意味もなく巨大な訳ではない。攻防一体だからこそ無敵とも嘯けるのだ。その隙間を縫って突剣が飛ぶ。
左の屍鬼を一息で灰に変えると、逆手に持ち直し後ろの屍鬼の水月から剣を通して心臓と脳を一突きで破壊。
「しかれど牙を持って我を討つ者、剣によって滅ぶべし」
髪が踊る。質量保存を無視した量の毛髪が部屋の隅々まで絡み、弓の弦のように張る。エリッサが浮かび、黄金の髪をはためかせながら奥へと消えていく。
光世は腰に下げていた布の束を取ると、まとめて投げる。布に空中で分かれると、見る間に子供大、大人大になっていき、屍鬼が噛みちぎろうとする頃には、天井のシャンデリアに頭の部分がつくほどになっていた。
「聞いていないだろうけど、それケブラー製だから君たちの力じゃ破れないよー」
無論聞く耳など持つはずもない亡者の群れが、間抜けにも見える人型に押し寄せ、そのまま包み込まれる。古ぼけた雑巾を絞りすぎた時の湿った破断音がして、やがて抱きしめるのをやめた人型が灰を開放する。
大きくなって近づくものを包み潰すだけの単純な式だが、布自体の性能を高くする事で、壁にも武器にもなる使い勝手の良い代物だ。
とりあえず足止めをしておけば彼女が面倒事の一切合切をぶちまけてくれるだろう。元凶さえ取り除けば実働部隊の火器と密教連の呪いで一掃すればいい。
だが甘い予想は覆されるために存在する。鋼鉄に換算すれば3cm以上ある布を貫通する殺気に、光世は本能のままに丸まり、首を庇う。衝撃と共に布が裂ける音。天井すれすれまで軽々跳躍した影が爪で切り裂いたのは、風船の如く膨れ上がった羽織であった。
御影光世が着ているのはただの服では無い。身に纏う布の全てを式の武装とした言わば移動トーチカである。
とは言え限定的ながらライフル弾をも止め得る厚着を一掻きで台無しにする爪と力、数では押せぬと見て変わり種を出してきたようであった。
犬、か狼か。どちらにせよ2mを優に超える生物ではない。怪物である。骨肉を噛み砕く用途より損傷を大きくする意図が強そうな乱杭歯から涎をしたたらせる。
この界隈では珍しく、見た目通り直接戦闘は苦手な光世だが、背に腹はなんとやら、できるだけ前方面積を小さくして、懐から出した合口で牽制する。黒犬は右手に少し注意を向けたようであったが、鼻を鳴らすと腰を引いて攻撃体制に入った。
痺れるような緊張感。
「おおおおのおうれえええいやっほおおうううう!!」
甲高い怪鳥音を発しながら自動ドアのガラスをぶちまけて吹っ飛んで来た自転車が黒犬を轢き逃げながらシャンデリアを両断し、屍鬼の頭をスーパーマリオじみて叩き潰すと、呆気にとられる一人と一匹をよそに階段をかけ下って行った。
恨みがましく自転車の消えた方を見ていた黒犬が、弾かれたように入り口に向きなおる。もう一台が飛び込んで来た。
今度こそは不埒者を返り討ちにせんと黒犬が牙をむき、2台目に食らいついた。タイヤのスポークはひしゃげ、フレームは溶けかけた飴のように捻曲がる。
しかし肝心の操縦者がいない。そして獲物を捉えたと歓喜した獣は、両前足を自転車の両輪に突っ込み、乱杭歯の間にフレームの残骸が挟まって、逆に己が捕らわれていたと気づいた。
空中で上半身の自由が効かないまま不格好に落下する。変わり身で下に滑り込み、後ろに回っていた堂馬は、その隙だらけの黒犬の肛門に刀を突っ込んだ。
「ギエエエエエエ!」
"ギャーーー!"
怪物の悲鳴が響きわたる。あとは何も聞こえない。
"なにをするかぁぁぁっ!生まれてこのかた肛門にアーッされたのは初めてだよこんちきしょう!"
肛門は生物共通の弱点の一つであり、分厚い毛皮に鎧われた哺乳類の急所である。
ここを突くのは当然だし、剣が喋らないのも当然である。引き切りながら剣を抜くと、痛みに耐えかね暴れまわる黒犬から距離をとる。怪我をした獣は火薬庫も同然。君子危うきに近寄らず。
もがく怪物に光世が近づく。左手でグリップを細く改造したコルトパイソンを構え、口の中に一発。痙攣して大人しくなったことを確認して、残りを心臓に打ち込んだ。
「あれ、お前左利きだっけ?」
「両利きだよ。最近何かと物騒だから訓練したんだ」
「なるほど、ところでありゃなんだ?」
納得した堂馬は式を指差す。超自然の技術は秘匿が義務付けられている。
「すごいでしょ。ケブラー製なんだよ」
「おお!高スペックだな!」
芦屋堂馬、ハイスペックに弱い男の子という生き物であった。
「そういえばさっき変な人が階段を登って行ったけど、芦屋くんの知り合いかな?」
「おお!如何にも敵だとも!情報感謝する!」
叫ぶと躊躇いなく飛び上がり、式と天井の間を抜けて着地、屍鬼を分解しながら上に向かって走って行った。
すっかり静かになったエントランスで、光世は近くのソファーに座った。ここまできたら自分のやる事は無い。エリッサに加えて彼もいるなら安心だろう。
「ゆっくりしよう」
光世は早くも舟を漕ぐぎ始めた。
更なる増益を見込んでちょっとした建設ラッシュが起きている市街区。駅から少し離れ、観光の拠点として改築を進めているホテルの中で、人知れず戦いは佳境を迎えていた。
敵、少なく見積もって五百は下らず。下手をすれば千の大台に乗るかも知れない。我、戦闘要員僅かに二人。ただしこれは組織の余裕の無さもあるが、二人の戦術的価値が凡夫を百千並べるより高いという意味もある。
シャンデリアの輝きを錦糸のような髪が反射する。波打つ時の自然さは、その持ち主は生前さぞかし男の目を惹きつけていただろうと思わせる。だが、今の所有者は人間ではなく、さらに言うと人型ですらない。
濃紺のシスター服をマントのようになびかせ、体のラインを隠すゆったりした布地に反逆して、一部の凸部が揺れる。骨に絡まっているだけに見える髪が、彼女の腕に合わせて虹のように曲がり、洪水のように氾濫した。無垢な乙女の歯を加工して臼に変えた対魔用審問兵装。異端審問裁判長エリッサ・クルス=モリネーロの愛機『煉獄の乙女』の髪巻き機構がかなきり声に似た独特の駆動音を上げて、地にのさばる屍鬼も空気中で増長する化け物蚊も何から何まですり潰してゆく。そこに一切の遅滞も疲労も無い。
猛烈な速度で腐肉から挽肉、挽肉から灰に変わっていく。弾丸では捉え切れない蟲の群れも網目の如く絡まった髪が地引網のように一掃する。
本来重火器で完全武装した兵員が中隊規模で当たらなければ全滅してもおかしくない状況を一人で裁いてゆく。
だが、その恐るべき審判から逃れる亡者が幾つか見える。見た目では他の屍鬼と変わりない。いや、事実屍鬼に個性など存在しないのだ。見逃されたことに感謝するでもなく、エリッサの白い肌に牙を突き立てんと歪んだ本能のままに走る。
その頭上に影が落ちた。
薄っぺらい何かが屍鬼を押し包む。頼りなく見えた人型の布は、しかし獲物を絞め殺す蟒蛇じみた剛力で屍鬼の体積を半分に圧縮し、開くときには灰だけが残っていた。
「エリッサさん。その子の調子が悪そうだけど、何か問題があるの?」
普段と変わりない柔らかい口調で御影光世が尋ねる。こちらは黒に近い灰色の袴に人型の布束を下げ、紺色の襦袢と脚袢、濃淡の違う黒の斑模様の羽織を襷がけにしている。影に溶け込む色合いに機動を考慮した装備である。半包囲された窮地の中、あくまでマイペースであった。
「いえ、調子は実によろしいのですが、この子はあの人たちを滅ぼしたくないようですね」
こちらも世間話のように不利を語るエリッサ。青銅色の瞳から発する眼光はいささかも揺るがず、水晶を散らしたように輝く肌が長引く戦いを物語るのみである。
「審問兵装なのに?」
「審問兵装だからです。どうもあの方々はまだ罪を犯していないようで」
『煉獄の乙女』は強い。化け物に対して無敵と言っていいほどに。だが完璧ではない。彼女の力の源は自分達を無残に殺害した異形への憎悪である。憎悪はその矛先にある物の一切を打ちひしぐ暴風だが、時には憐憫の雨を運ぶこともある。
呪いによって怪物に変えられただけの、まだ人を喰い殺してもいない屍鬼を彼女は被害者と判断した。どうして挽けよう、己等と同じ境遇の者を。
甘い話ではある。滅し滅されの闘争で敵を峻別するなど許し難き怠慢。しかしエリッサはその甘さを正義と信じ、その愛を力と信仰していた。愛故に死するならば使徒として本望である。
「ふむー。ということはここの人たちは何処かから輸入されてきたってことか。油断してたなあ」
「ええ、困ったものです。この子をあまり怒らせたくないのですが」
そして屍鬼の倍々算でここまで増えた訳でないなら、どこかから攫ってきて一気に変えたということになる。だがそんな行動をとれば自らの所在を喧伝するに等しい。そこでどうしたか。運んだのだ。
屍鬼のまま海を渡らせることは困難であるため、恐らく人間のまま。南北戦争以前の奴隷船よろしく貨物として送ったのだろう。政情の不安定な地域では数に入らない人間というものが腐るほどある。文字通り。
だがどのような理由あれ、怪物の原材料に人を消費しあまつさえそれを放つ。暴挙である。この後に及んでは問答無用。二人とも腹を括った。
「それじゃあここは僕の式でなんとかするから、エリッサさんは親玉をお願い」
「もちろんですとも。早めに片付けてお布団にもぐらせていただきますね。夜更かしは体に悪いですから」
エリッサが懐から長い棒状の物体を取り出す。刃長約70cm。全体は銀色、簡素なお椀形の護拳に、刺突に適した菱形の断面の刀身。古めかしい突剣であった。
「汝等罪無し」
呟くと、片手に2m以上の機械を持ったまま、急降下する猛禽の速度で突貫する。左は骨の盾が甲殻類の脚のように動き回って防御し、右から来る者を刷毛を放るように突き、頭と心臓を的確に破壊する。
その体が傾いだ。『煉獄の乙女』のフレームを屍鬼が掴む。鍛えているとは言え人間と鬼、更に多勢に無勢である。エリッサは逆らわない。屍鬼の手が伸びる。
骨が震える。盾を形作る腕の骨格が籠を形作り、エリッサを凶手から守る。意味もなく巨大な訳ではない。攻防一体だからこそ無敵とも嘯けるのだ。その隙間を縫って突剣が飛ぶ。
左の屍鬼を一息で灰に変えると、逆手に持ち直し後ろの屍鬼の水月から剣を通して心臓と脳を一突きで破壊。
「しかれど牙を持って我を討つ者、剣によって滅ぶべし」
髪が踊る。質量保存を無視した量の毛髪が部屋の隅々まで絡み、弓の弦のように張る。エリッサが浮かび、黄金の髪をはためかせながら奥へと消えていく。
光世は腰に下げていた布の束を取ると、まとめて投げる。布に空中で分かれると、見る間に子供大、大人大になっていき、屍鬼が噛みちぎろうとする頃には、天井のシャンデリアに頭の部分がつくほどになっていた。
「聞いていないだろうけど、それケブラー製だから君たちの力じゃ破れないよー」
無論聞く耳など持つはずもない亡者の群れが、間抜けにも見える人型に押し寄せ、そのまま包み込まれる。古ぼけた雑巾を絞りすぎた時の湿った破断音がして、やがて抱きしめるのをやめた人型が灰を開放する。
大きくなって近づくものを包み潰すだけの単純な式だが、布自体の性能を高くする事で、壁にも武器にもなる使い勝手の良い代物だ。
とりあえず足止めをしておけば彼女が面倒事の一切合切をぶちまけてくれるだろう。元凶さえ取り除けば実働部隊の火器と密教連の呪いで一掃すればいい。
だが甘い予想は覆されるために存在する。鋼鉄に換算すれば3cm以上ある布を貫通する殺気に、光世は本能のままに丸まり、首を庇う。衝撃と共に布が裂ける音。天井すれすれまで軽々跳躍した影が爪で切り裂いたのは、風船の如く膨れ上がった羽織であった。
御影光世が着ているのはただの服では無い。身に纏う布の全てを式の武装とした言わば移動トーチカである。
とは言え限定的ながらライフル弾をも止め得る厚着を一掻きで台無しにする爪と力、数では押せぬと見て変わり種を出してきたようであった。
犬、か狼か。どちらにせよ2mを優に超える生物ではない。怪物である。骨肉を噛み砕く用途より損傷を大きくする意図が強そうな乱杭歯から涎をしたたらせる。
この界隈では珍しく、見た目通り直接戦闘は苦手な光世だが、背に腹はなんとやら、できるだけ前方面積を小さくして、懐から出した合口で牽制する。黒犬は右手に少し注意を向けたようであったが、鼻を鳴らすと腰を引いて攻撃体制に入った。
痺れるような緊張感。
「おおおおのおうれえええいやっほおおうううう!!」
甲高い怪鳥音を発しながら自動ドアのガラスをぶちまけて吹っ飛んで来た自転車が黒犬を轢き逃げながらシャンデリアを両断し、屍鬼の頭をスーパーマリオじみて叩き潰すと、呆気にとられる一人と一匹をよそに階段をかけ下って行った。
恨みがましく自転車の消えた方を見ていた黒犬が、弾かれたように入り口に向きなおる。もう一台が飛び込んで来た。
今度こそは不埒者を返り討ちにせんと黒犬が牙をむき、2台目に食らいついた。タイヤのスポークはひしゃげ、フレームは溶けかけた飴のように捻曲がる。
しかし肝心の操縦者がいない。そして獲物を捉えたと歓喜した獣は、両前足を自転車の両輪に突っ込み、乱杭歯の間にフレームの残骸が挟まって、逆に己が捕らわれていたと気づいた。
空中で上半身の自由が効かないまま不格好に落下する。変わり身で下に滑り込み、後ろに回っていた堂馬は、その隙だらけの黒犬の肛門に刀を突っ込んだ。
「ギエエエエエエ!」
"ギャーーー!"
怪物の悲鳴が響きわたる。あとは何も聞こえない。
"なにをするかぁぁぁっ!生まれてこのかた肛門にアーッされたのは初めてだよこんちきしょう!"
肛門は生物共通の弱点の一つであり、分厚い毛皮に鎧われた哺乳類の急所である。
ここを突くのは当然だし、剣が喋らないのも当然である。引き切りながら剣を抜くと、痛みに耐えかね暴れまわる黒犬から距離をとる。怪我をした獣は火薬庫も同然。君子危うきに近寄らず。
もがく怪物に光世が近づく。左手でグリップを細く改造したコルトパイソンを構え、口の中に一発。痙攣して大人しくなったことを確認して、残りを心臓に打ち込んだ。
「あれ、お前左利きだっけ?」
「両利きだよ。最近何かと物騒だから訓練したんだ」
「なるほど、ところでありゃなんだ?」
納得した堂馬は式を指差す。超自然の技術は秘匿が義務付けられている。
「すごいでしょ。ケブラー製なんだよ」
「おお!高スペックだな!」
芦屋堂馬、ハイスペックに弱い男の子という生き物であった。
「そういえばさっき変な人が階段を登って行ったけど、芦屋くんの知り合いかな?」
「おお!如何にも敵だとも!情報感謝する!」
叫ぶと躊躇いなく飛び上がり、式と天井の間を抜けて着地、屍鬼を分解しながら上に向かって走って行った。
すっかり静かになったエントランスで、光世は近くのソファーに座った。ここまできたら自分のやる事は無い。エリッサに加えて彼もいるなら安心だろう。
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