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蝉
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空蝉病と呼ばれている、その原因不明の疾患を自覚したのは、僕が中学生だったころ。僕が立っている、山の公園とふもとの町をつなぐ階段、通称大階段はまだ完成していなかった。
病気といっても、体の機能に異常が起きたり、まして命に危険が及ぶことは全くない。WHOだとか政府が言うには、この病気が直接の原因で死んだ人間はゼロだそうだ。
直接、というのが厄介なところで、その厄介な部分がこの現象を病と呼ばせている。
症状は単純。12時間寝る。それも絶対に。人によっていつ眠るのかは変わるが、この病気にかかった者は、12時間起きて12時間眠るという生活パターンを強制させられるのだ。
眠っている間は、基本何があろうと起きることはない。大きな音を出しても、ひっぱたいてもダメ。電気ショックを与えると一時的に覚醒するという研究もあったが、ビリビリ痙攣しながら起床したい奴なんていないに決まっているから、この方法は誰も採用しなかった。
多分僕が中学に入ったあたりから、徐々に感染が拡大していたはずだが、ただ眠るだけで健康に影響のない――むしろ睡眠不足からの疾患とは無縁になる――症状ゆえに、あまり警戒されていなかった。
僕が発症した時期は、まだ空蝉病が一般化していなかったころだったから、数日はただの寝坊だと思われた。今なら病院どころか学校や公共施設、出張サービスですぐ診断できるし、アプリで簡単な判別も可能になっている。便利な世の中だ。
僕の家は母さんが離婚でおらず、父さんは単身赴任だったので、3日連続で昼間ずっと寝ていたところを担任の先生に保護された。それからずっと病院暮らしで、家にはたまにゲームをしに帰るくらいだ。
幸か不幸か、生活はむしろ楽になった。高校は通信教育で十分だし、初期の患者だったため、経過観察という名のデータ取りに付き合うとお金までもらえた。病院の方もそのデータのおかげで、空蝉病患者を大量に入れることができ、敷地が大きくなって設備も更新されたので、ウィンウィンの関係だろう。
先行者利益と言うのもなんだけど、結果として僕は、それなりの待遇で、お小遣いというにはかなり多い額の賃金までいただける境遇になったわけだ。
かつての同級生たちが忙しく青春を送っているのは、SNSなんか何となく知っている。あけどこののんびりした生活も悪くないと僕は思っているし、事実として僕は、かなり幸福な部類の人間だろう。いや、だった。
まだ春になり切れていない乾いた空気の中で、僕はすっかり汗だくだった。ダウンジャケットの中から、熱気が雲のように湧いてくる。いくら体重が軽くとも人一人。それを走って十分ちょっとの距離はこんだのだから、こうなるのも当たり前だ。
「まったく、ひどい目にあった」
ぼやきながら、病院の空気を吸い込み、肺の冷たい空気を入れ替える。嗅ぎ慣れた消毒薬の香り。白く清潔な、それでいて死に近い香りだ。
映画のように女の子をおぶって、病院の窓口に荒い息でたどり着く。昔なら血相変えた看護師が駆けつけていたかもしれない。しかし今や、僕の姿に気づいて歩み寄る人たちは、手際は良くても焦ってはいない。
「あら、清明くん。寝た人を背負ってここまで来たの?連絡すればよかったのに」
看護婦さんが僕の背中から黒野を引きはがす。やっと一息ついて、ジャケットを脱ぐことができた。
「い、こんなので救急車を呼ぶのも申し訳ないですし」
「……清明くん。最近はタクシーを呼んでも空蝉病の人ならタダなのよ?自治体からお金が出るから」
「えマジですか?」
雑に聞き返してしまった。大ショックだ。最近はゲーム実況とかしか見ていないから、行政のなにやらは全く知らない。だいたい今どき、とっ散らかった情報の並ぶプリント類をいちいち精査する人なんているのだろうか。これは僕が悪いのか?
「ネットでも情報発信してるんだから、ちゃんと確認してね」
「はい」
まあ僕が悪い。病人の引き渡しも済んだことだし、病室に山と積まれたお便りでも読もうかと、寝床に足を向けた。
「あ、あと猿渡先生が呼んでたから、ちょっと顔出してあげてねー」
「ああ、はい」
あまり得意でない人の名前が出てげんなりする。やる気を出した途端にこれだ。無理やりな眠りといい、人生というのは何故こうもうまくいかない。
二年以上入り浸っていれば、だいたいの構造は覚えている。看護師さんたちにも顔を知られているし、ここでの僕はちょっとしたマスコット扱いだ。
あまり嬉しくはない境遇だけれど、それでも受け入れられてはいる。
黒野は受け入れられるだろうか。彼女は昼間に起きるようだから、生活を変える必要はほとんどない。せいぜい部活に行けなくなる程度だろう。その意味では僕より楽かもしれない。
でも、生活が変わらないからこそ、人の変化に戸惑うことも多い。空蝉病に対する認識は、まだそれほど統一されていない。気楽に過ごせるかどうかは、昼の人たち次第だ。
僕がこの病院で眺めてきた患者たちも、夜型の人の方が早く適応していた。これまでの世界とは縁を切った方が楽なんだ。僕たちは、もう根の国の住人なんだから。
白い壁に目が慣れて、外はもう墨で塗りつぶされたようだ。冬の間、僕はずっと太陽の無い世界にいる。蝉の幼虫の暮らす、地の底のようだった。
病気といっても、体の機能に異常が起きたり、まして命に危険が及ぶことは全くない。WHOだとか政府が言うには、この病気が直接の原因で死んだ人間はゼロだそうだ。
直接、というのが厄介なところで、その厄介な部分がこの現象を病と呼ばせている。
症状は単純。12時間寝る。それも絶対に。人によっていつ眠るのかは変わるが、この病気にかかった者は、12時間起きて12時間眠るという生活パターンを強制させられるのだ。
眠っている間は、基本何があろうと起きることはない。大きな音を出しても、ひっぱたいてもダメ。電気ショックを与えると一時的に覚醒するという研究もあったが、ビリビリ痙攣しながら起床したい奴なんていないに決まっているから、この方法は誰も採用しなかった。
多分僕が中学に入ったあたりから、徐々に感染が拡大していたはずだが、ただ眠るだけで健康に影響のない――むしろ睡眠不足からの疾患とは無縁になる――症状ゆえに、あまり警戒されていなかった。
僕が発症した時期は、まだ空蝉病が一般化していなかったころだったから、数日はただの寝坊だと思われた。今なら病院どころか学校や公共施設、出張サービスですぐ診断できるし、アプリで簡単な判別も可能になっている。便利な世の中だ。
僕の家は母さんが離婚でおらず、父さんは単身赴任だったので、3日連続で昼間ずっと寝ていたところを担任の先生に保護された。それからずっと病院暮らしで、家にはたまにゲームをしに帰るくらいだ。
幸か不幸か、生活はむしろ楽になった。高校は通信教育で十分だし、初期の患者だったため、経過観察という名のデータ取りに付き合うとお金までもらえた。病院の方もそのデータのおかげで、空蝉病患者を大量に入れることができ、敷地が大きくなって設備も更新されたので、ウィンウィンの関係だろう。
先行者利益と言うのもなんだけど、結果として僕は、それなりの待遇で、お小遣いというにはかなり多い額の賃金までいただける境遇になったわけだ。
かつての同級生たちが忙しく青春を送っているのは、SNSなんか何となく知っている。あけどこののんびりした生活も悪くないと僕は思っているし、事実として僕は、かなり幸福な部類の人間だろう。いや、だった。
まだ春になり切れていない乾いた空気の中で、僕はすっかり汗だくだった。ダウンジャケットの中から、熱気が雲のように湧いてくる。いくら体重が軽くとも人一人。それを走って十分ちょっとの距離はこんだのだから、こうなるのも当たり前だ。
「まったく、ひどい目にあった」
ぼやきながら、病院の空気を吸い込み、肺の冷たい空気を入れ替える。嗅ぎ慣れた消毒薬の香り。白く清潔な、それでいて死に近い香りだ。
映画のように女の子をおぶって、病院の窓口に荒い息でたどり着く。昔なら血相変えた看護師が駆けつけていたかもしれない。しかし今や、僕の姿に気づいて歩み寄る人たちは、手際は良くても焦ってはいない。
「あら、清明くん。寝た人を背負ってここまで来たの?連絡すればよかったのに」
看護婦さんが僕の背中から黒野を引きはがす。やっと一息ついて、ジャケットを脱ぐことができた。
「い、こんなので救急車を呼ぶのも申し訳ないですし」
「……清明くん。最近はタクシーを呼んでも空蝉病の人ならタダなのよ?自治体からお金が出るから」
「えマジですか?」
雑に聞き返してしまった。大ショックだ。最近はゲーム実況とかしか見ていないから、行政のなにやらは全く知らない。だいたい今どき、とっ散らかった情報の並ぶプリント類をいちいち精査する人なんているのだろうか。これは僕が悪いのか?
「ネットでも情報発信してるんだから、ちゃんと確認してね」
「はい」
まあ僕が悪い。病人の引き渡しも済んだことだし、病室に山と積まれたお便りでも読もうかと、寝床に足を向けた。
「あ、あと猿渡先生が呼んでたから、ちょっと顔出してあげてねー」
「ああ、はい」
あまり得意でない人の名前が出てげんなりする。やる気を出した途端にこれだ。無理やりな眠りといい、人生というのは何故こうもうまくいかない。
二年以上入り浸っていれば、だいたいの構造は覚えている。看護師さんたちにも顔を知られているし、ここでの僕はちょっとしたマスコット扱いだ。
あまり嬉しくはない境遇だけれど、それでも受け入れられてはいる。
黒野は受け入れられるだろうか。彼女は昼間に起きるようだから、生活を変える必要はほとんどない。せいぜい部活に行けなくなる程度だろう。その意味では僕より楽かもしれない。
でも、生活が変わらないからこそ、人の変化に戸惑うことも多い。空蝉病に対する認識は、まだそれほど統一されていない。気楽に過ごせるかどうかは、昼の人たち次第だ。
僕がこの病院で眺めてきた患者たちも、夜型の人の方が早く適応していた。これまでの世界とは縁を切った方が楽なんだ。僕たちは、もう根の国の住人なんだから。
白い壁に目が慣れて、外はもう墨で塗りつぶされたようだ。冬の間、僕はずっと太陽の無い世界にいる。蝉の幼虫の暮らす、地の底のようだった。
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