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本当にこれは俺だけが悪いのだろうか?

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 この世の中はひどく理不尽だと思う。
 俺は確かに事故を起こし、その事故で客が転倒し怪我をした。
 幸い軽症で済んだものの、それでも車内転倒事故であることに間違いはなく。
 こうして窓のない通称『監獄部屋』に閉じ込められ、黙々と始末書に向き合っている。
 もちろんパワハラなどのハラスメントではなく。
 教育と名の付いたダイヤから外された日勤である。
 もちろん俺だけがこんな目に合うわけではなく。
 一度やらかしてしまえば誰であれ同じような境遇を体験することとなる。
 その辺りは平等であろう。
 時折事務員が進捗状態を確認するくらいで、トイレとか昼食の休憩もわりと自由に行ける。
 唯一の欠点と言えば、部屋の構造的な欠陥によって、陽の光が一切差し込まないことぐらいだろうか。
 ただ、これまでの経緯を鑑みれば、行き場のない憤りが燻り続けていて精神的にはよろしくはない。
 なぜこんなことになってしまったのだろうか……。
 事の発端は昨日へと遡る。


 俺は普段路線バスに乗務している。
 朝から晩まで毎日のようにハンドルを握って、大勢の客を運び続ける――それが俺の生業としている職業だ。
 業務内容だけ見れば誰でも出来そうな簡単な仕事に見えるかもしれないが、実のところはそうではない。
 ただバスの『運転』をするだけであればさほどハードルは高くないと言える。
 もちろん普通免許を取得して三年以上という超えられない壁はあるが――余程の運転不適合者でない限り大型免許の取得は出来る。
 だが、ただバスを運転するだけと客を乗せて走るとでは訳が違う。
 自家用車であれば多少の急ブレーキをしたところで、せいぜい乗り心地が悪い程度で済む。
 だが実車中のバスはそれとは異なる。
 なにせ立ち客がいるから急加速急ブレーキなどは御法度。
 だというのに、街には自分のことしか考えられない自己中な人、自転車、車が多く存在し、それらの動きを予想しつつ防衛運転をしなければならない。
 更に客も客で立ってるのにつり革手すりに掴まらない者、走行中に車内を移動する者、席が空いているのに頑なに座らない者など一筋縄ではいかず。
 車内にも車外にも気を使わねばならない。
 さて、そういう車の運転という仕事柄事故というのは大なり小なり付き物である。
 もちろん無事故が一番であるが、人間である以上ミスを起こすことはどうしたってある。
 ミラーをぶつけた、ボディーとガードレールがお友達になった程度で済めばまだ可愛いもので。
 立ち客をひっくり返した、急ブレーキで客が怪我をした――なんてことになれば事は大きくになっていく。
 俺が運悪くやらかしたのは前者であった。
 お昼すぎの駅へ向かうバスは、朝や午前中から続いた混雑がようやく開放され始める。
 駅の一つ手前のバス停を出た車内は、十人ちょっとが後方の座席に座り、前の方では二、三人が立っていた。
 席が空いているなら座ってくれ、立っているならつり革手すりに掴まれと何度かアナウンスすれど彼らは耳が遠いようで。
 両耳のワイヤレスイヤホンからは、少し音漏れがいていた。
 それを車内ミラーで確認しつつ小さく嘆息する。
 これがいつもの光景、ありふれた日常の一ページだ。
 けれど、昨日は――昨日に限っては『日常』ではなく。
 俺が求めてはいない退屈とは無縁な『非日常』へと変貌する。
 駅ロータリー手前、脇道から刺客は突然やってきた。
 従来、脇道は一時停止であり、そこから出てくる車の速度は抑えられている。
 けれど、刺客は一時停止を嘲笑うかのような速度で飛び出してきた。
 咄嗟の出来事に脳が一瞬バグるが、すぐにフルブレーキとともに俺が鳴らした長いクラクションが響き渡る。
 前からの衝撃は無かったが――代わりに後方から鈍い音が複数聞こえた。
 状況を瞬時に確認すべく目線を素早く移動させる。
 前方の刺客――タクシーとの衝突はなんとか回避したものの、当該車両は何事も無かったかのように走り去っていった。
 一方で車内ミラーを見れば元々立っていた客に加え、駅直前ということで既に席から立ち上がっていたであろう複数人が転倒していた。
 それが事故の顛末である。
 その後応急救護を行い会社へ連絡。
 もちろん運行は打ち切り、代務者が残った俺のダイヤを完走した。
 そうして現在へと至る。
 負傷した客からは睨まれ叱責され、事務員からはあからさまにため息をつかれ、代務者からは舌打ちをされた。
 今日も俺のダイヤを誰かが代わりに走っている。
 明日も明後日もその先もしばらく俺の日勤は続き、誰かが俺のダイヤを走ることになる。
 そうして一週間もダイヤから外され日勤という形で干されれば、一躍時の人になるのは確定事項だろう。
 もちろん悪い方の、ではあるが……。
 確かに俺に非があったのは間違いない。
 たとえその事象に客の身勝手な行動や、タクシーの一時停止無視による急な飛び出しがあったとしても、だ。
 プロだからなんで回避出来ないと今朝も所属長に叱責された。
 回避というならばある意味では回避しているはずだ。
 タクシーの横っ面に突っ込む大惨事になりかねない事態は回避したのだから。
 けれど、それを回避したからと言って称賛されることなどなく。
 事故を回避して当たり前、事故を起こせばなんで回避出来ないんだと詰られる。
 今回の件で査定は大幅ダウン待ったなし、無事故手当もリセットされて次に貰えるのは最速で三年後。
 まったく嫌になってくる。
 なんで俺はこんな所で働いているのだろう。
 毎日のように拘束十六時間、退勤から出勤までの開放が八時間で。
 十三連勤は当たり前、月の休みは半分以上が休日出勤で潰される。
 その割に給料は安く、一度の事故で査定はパー。
 慢性的な疲労と寝不足で身体は悲鳴を上げて、常に正常な判断が出来るはずもなく。
 家と会社だけを往復する無為な日々。
 心は摩耗を続けて削れてはいけない部分に到達している気がする。
 もう辞めたいと叫び続けて幾星霜。
 それがいつになるかはわからない。
 ただそれまではせめてこう告げよう。


 ――停まるまで座ってろ、と。
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