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第三章

我恋歌、君へ。第三部:16 入浴

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 量が食べられないだけで食欲がないわけじゃないから、アレンさんと向き合って夕食をいただく。
「響くん、途中で眠って正解だったよ。二本目の映画は見ない方がいい内容だった。八代なんてしばらく眠れないと思うよ。可哀そうに、この家のトイレでさえひとりで行けなくて、神音に途中まで付き添わせてたよ」
 優雅に箸を使い、食べ進めながらアレンさんが会話を投げかけてくれる。
 相槌を打つしかできない俺相手でも、ちゃんと会話が成立するように上手くつないでくれるので、とても気が楽で楽しく食べることができた。
 最近の俺にしては新記録な量を食べたんだけど、やっぱり完食はできなかった。
 アレンさんは俺の頭を無言で撫でて、後片付けを手伝ってくれる、とだけ言った。
 並んで皿を洗い、片付けていく。
 神音が危ぶんで手伝わせないのも道理なほど、俺の指先はまだ思うままに動かせない。
 それでも慎重に動かせば、皿を拭いていくことは出来た。もちろん俺が二、三枚拭く間にアレンさんがすべて洗い物を終えてしまうほど時間がかかるけれど。
 それに触れることはなく、焦らせることもしないで片付けを終えると、アレンさんはまたソファへ俺を誘った。
「せっかく時間が空いているんだから、出来ることをしていこう。本を読んでみるのもいいんじゃない?」
 アレンさんが部屋から数冊の本を抱えて戻ってくると、一冊を俺の手に乗せた。
「作詞する時に役立つこともあるんだよ。それは短めで読みやすい文体だからおすすめ」
 手渡された本を足に乗せて、もどかしい動きながら一ページずつ読み進めていくと、言われた通り読みやすくて面白かった。
 俺の隣で何かを読み、書いていたアレンさんが読み終わったことに気付くと、次とばかりにもう一冊手渡してくる。
(うっ……英語だ、これ)
 日常の簡単な英語ならどうにか聞けて、話せるようになったとは言っても、文字は苦手なままだ。
 思わずアレンさんを見ると、にこにこ笑うアレンさんと目が合った。
「せっかく話せるようになったのなら、読めるともっと面白いと思うよ? オレたちの将来にも絶対に役立つしね」
「…………」
 それを言われると反論できません。
 ページを開いて視線を落としたものの、日本語よりは見ても瞬時に理解が出来ない英語は、すぐに読書欲を削いでしまう。
(樫部との約束を考えたら、英語は必須なんだけど……そもそも俺がまた歌えるようになるかもわからないのに。それに歌えるようになるまで、富岡さんが待ってくれるとも言い切れない……)
 趣味で音楽活動をしているわけじゃないし、十分に会社へ貢献した後での休業状態でもない。
「わからない単語があったら、電子辞書で調べるといいよ」
 ずっと動かない俺を心配して、アレンさんが仕事で使っているらしい電子辞書を貸してくれた。
 苦笑しつつ辞書を借りて、調べるふりをしながらも頭の中は後ろ向きな思考へ落ちていく。
(いつになったら歌える? 戻れるの? また壊れてしまわない?)
 家族のように、と思ったところで大きな音が聞こえて思考が中断された。
 隣から音が聞こえた気がして、横を見る。
 厚い本を読んでいたアレンさんが、勢い良く本を閉じたようで、読書用の眼鏡を外しながら俺を振り向く。
「もうそろそろ切り上げて、眠ろうか」
 時計を確認すると確かにずいぶんと時間が経っている。
 アレンさんは神音から事情を聞いているらしく、一緒に入浴しようと持ちかけてきたけど、断固拒否した。
「何で? 背中とか洗うの大変でしょ?」
 確かに洗いにくいけど、だからと言って手伝ってもらうほどじゃない、と思いたいんだ。
 ぶんぶんと首を横に振って、一歩も引かない俺に、先にあきらめたのはアレンさんの方だった。
「どう? ちゃんと起きてる?」
「…………」
 妥協案として扉一枚隔てた位置にある洗面所兼脱衣所で、アレンさんが待機している状態での入浴となったわけなのだが。
(ご、拷問かこれ……っ!)
 始終そばにいて見張られながらの入浴時間が、決してリラックスできないことが身にしみて理解できた夜だった。
 出来る限り早く洗い終え、温まる時間もそこそこに浴室から出ると、アレンさんはまだそこにいて、タオルを手渡してくるから背中を向けて素早く水気を拭いて着替えた。
 アレンさんに頭を下げてから脱衣所を出て、かつて寝泊まりさせてもらった客室へ逃げ込む。
(……ふわぁ~……つ、疲れたよ……)
 血行が良くなって体温も上がっているからか、心臓がばくんばくんと元気が良すぎるほど高鳴っている。
 ベッドにダイブしてその音を聞きながら、ふと神音が相手だとこんな風にはならなかったと気付く。
(身内じゃないから、かな。うん、たぶんそうだ)
 もっとも神音はアレンさんほど真面目に監視していなかったし、浴室のそばにいても音楽を聞いていたり作曲作業をしていることも多かったから、俺も気安くいられたんだろう。
 久しぶりの客室に緊張感はまったく無くて、むしろ帰ってきたんだなと懐かしく思う。
 神音を押しのけて、バンドのヴォーカルとなった俺を妬んだファンからの嫌がらせから身を隠すため、アレンさんの実家に避難していた間、この部屋をずっと使わせてもらっていたのだ。
(ん……懐かしい匂いがする……)
 シーツの感触も自室のベッドとは違う気がして、もっと肌に柔らかく馴染むようだ。
 洗剤が違うからなのか、ここで暮した日々にずっとそばにあった香りが、戻ってきた今になって気付くなんて。
(……いろいろあったもんなぁ……)
 目を閉じるとここにいた頃の思い出から、いろんなことを思い出された。
 ずっと自分を押し殺して生きていたから、まったく正反対のポジションに立つことへの気後れや、周囲からの反対に言い返せなかった自分自身と、浴びせられた声と。
 ふたりだけの教室で静かに聞いた大切な友人の過去と、痛烈に目を覚まさせてくれた言葉。
 彼と別れる日、朝日の中で見送った白い背中に向けて、必ず彼が暮らす地へ、俺たちの音楽を届けると約束したのに。
 本当にまた歌えるだろうか。
 俺たちが活動しない時間が長引くほど、忘れられていく。もう商品価値はないと通告されるまで、もう間がないんじゃないか。
 焦り、不安が泥のように重く体に圧し掛かり、そのまま体が沈み込んで、底知れぬ暗い闇へ落ちていく。
 そこはつい最近、落ちたばかりの場所。
 いつか落とされた、暗く異臭のする狭い場所。
『だれもおまえなんて要らないの。消えてしまいなさい』
 冷たい母の声が聞こえたところで、目が覚めた。
「響くん……っ」
 だれかが名前を呼ぶ声が聞こえ、茫然としたまま視線を動かした。
 異常なほど倦怠感が体を満たしていて、顔を上げる気力さえない。
 背後から覆い被さるように、アレンさんが俺を覗きこんでいる。まだ髪が湿っているので風呂上りなのだろう。
 それなのに眉を寄せたアレンさんの顔は青白く、とても入浴直後とは思えない。
「響くん、オレの声が聞こえる?」
 ゆっくり頷くだけでどっと疲れる。なんだろう、どうしてしまったんだろうと不思議に思う。
「良かった……ゆっくり呼吸して、響くん」
 背中をアレンさんの手がゆっくり往復して撫でていく。
 そうしてようやく、俺はずいぶんと浅い呼吸を何度も素早くくり返していて、息苦しさのせいか全身にびっしょりと汗をかいていることに気付いた。
 アレンさんがそっと俺を抱きしめてきた。
「大丈夫だから。ここはもう響くんが恐れている場所じゃないよ」
 あぁ、そんなことしたらせっかく風呂上りなのに、また汚れてしまう。
 他人事のように頭の中では考えている。
 だけど体は震え続けていて、アレンさんが何度もあやすように手のひらで俺を優しく叩く。
「今度こそ、オレが一晩中響くんを抱っこするからね」
 何を言ってんですか、と言い返したいけれどやっぱり喉から発音することは出来なかった。
(……変なこと、言って……まったく……)
 いつもなら昼過ぎに眠ってしまうと、夜眠れなくなるのに、アレンさんが規則的に体を叩く手の感触や、抱きしめる温もりが次第に遠くなっていく。
 目が開けられなくなって、眠ろうとするたびに暗闇に落ちてしまう気がしてびくっと震え、飛び起きる。
 その度に大丈夫と囁くアレンさんの声を聞いた。
 数回それをくり返した後は、ただひたすら何も覚えていないほど熟睡してしまい、翌朝も遅くまで寝過してしまった。
 起き出してアレンさんを見つけるなり、土下座する俺に対して、アレンさんは頭を撫でてくる。
「うん、顔色いいね。それなら万事良し」
 この一言ですべて片付けてしまったのだった。


 鑑賞会の翌日、俺たちは富岡さんに呼び出されて、事務所へ集められた。
「体調はどうだ、響」
「…………」
 この場合、答えないのが答えになる。
 じっと俺を見据えた後で、富岡さんは小さく頷いた。
 くっと眼鏡を押し上げて話をはじめる。
「響が今すぐ歌えなくとも、やるべきことはある。わかっているな、おまえたち」
「もっちろん、承知してますよ~」
 神音が立ち上がり、敬礼の真似をする。
 そしてくるりと俺たちを振り向いた神音が、手に何かを持っていて、各自へ配っていく。
 富岡さんは腕組みをしたまま、神音の行動を見守るばかりだ。事前にこうなることを知っていたんだろう。
「はい」
「?」
 神音に手渡されたのは、一枚のCDだ。
「……何やろ、前にも同じような場面があった気がするんやけどな……」
「奇遇ですね。僕も同じことを考えていました」
 八代さんと文月さんが恐る恐る小声で会話をする。神音はふたりを見下ろし、腰に両手を当ててにっこりと笑った。
「へっへ~ん。君たち、響の不調を理由にサボろうとか甘っちょろい考えだったのではないのかね? このぼくが、そんな甘えを見過ごすはずがないであろうっ」
「神音……キャラ、変わってるで」
 両肩を落とし、ぼそっと八代さんが指摘したけど神音は得意げに笑うばかりだ。
(もしかして……神音、富岡さんの真似しているわけじゃないよね?)
 だとしたら全然似てないから。
 不安を余所に神音がしゅぴっと勢いよく腕を伸ばし、はるか彼方を指さして言い募る。
「わかるかい、君たち! ぼくたちは立ち止まることなく、思い描いた未来の為に、今も歩き続けるべきなんだと言うことを!」
「……つまり、新曲が出来たと言うことですね」
 文月さんが冷静に言葉を返せば、神音はそうそうと何度も頷く。
「君たち、まさか忘れていないだろうね? 我々は仕上げたはずの新曲を、先に発表されたせいでお釈迦になっているのですぞ」
「お釈迦とは、ずいぶん古風な言い方を知っているね」
 アレンさんがゆったり椅子に腰かけ、指先で手渡された新曲の入ったCDを弄びながら感心している。
「この際、過ぎた日々は湖に流して、いざ進もう同士たちよっ、と言うわけなんだ」
「言っていることは正しいと思いますが、流すのは水で、湖ではないですよ、神音」
 ズバッと切り込む文月さんへ、神音は肩をすくめて笑ってごまかした。
「それはともかく。ぼくたちはやるべきことをやろうよ。響もまだ声が戻ってなくても、やれることはいっぱいあるからね」
「あぁ、響にはこの後でジュノのところへ行ってもらう。奴も何か考えがあるらしい」
 各自がいつものように新曲の制作へ取りかかる中、俺は富岡さんの指示でジュノさんのところへ出向いた。
(ここに来るのも久しぶりだな……)
 悩みの真っただ中であがいていた俺に、しばらく来るなと言い放ったジュノさんだ。
 今行ったところで何をすることがあるのかなと思いながら、練習室に入るとピアノの前にジュノさんはいなかった。
「こっちだ! 待ちかねたぜ、響」
 いつものように寝ぐせがついたままの、ヨレヨレなシャツ姿のジュノさんが、ステレオセットの前に座って手を振っている。
 手招きされるがまま近づくと、ジュノさんの周囲に乱雑に積まれているのがレコードだとわかった。
(クラシックにジャズ、こっちは何だろう……ジャンルがめちゃくちゃだ)
 ジャケットを見るだけでは内容に見当がつかないものの方が多いけど、統一感がないことだけはわかる。
 するとジュノさんがにかっと笑った。
「まぁ、適当に座れや。おまえさんの事情は、富岡に聞いてるぜ。話せない分、聞くしかないだろ? いい機会だ、いろんな本物の音を聞いておきな……それと、おまえさん自身の声もな」
 レコードだけじゃなく、かつて録音した自分自身の声も大音量で聞かされ、恥ずかしい思いもしたけど、面白さも感じた。
(俺ってこんな声だったんだ)
 以前のように曲を作ってはお互いに意見を出し合い、作詞をしてひとつの作品へ仕上げていく日々がはじまった。
 制作と並行して体力作りと音楽を聞くことを続けて、やがて出歩けるほどに体力が戻ると、ジュノさんはコンサートに俺を連れて行くことも増えた。
(こんなことしてていいのかなぁ)
 生演奏をたくさん聞けるのは楽しいのだけれど、制作中にこんなことしていていいのかなと、複雑な心境だった。
 出歩けるようにもなって、新曲の制作をしていると、もう完治したような気分になってくる。
 ノートに作詞をする時も、退院したての頃はペンすら持てなかったくらいだったのに、歪ながら文字が書けるようになっていた。
 これで後は声さえ戻ってきてくれたら、と少し明るい気分になっていた矢先、また突然眠ってしまい、丸一日中眠りっぱなしになってしまった。
 神音の心配そうな視線が胸に痛い。
「あんなぁ、物事ってのは万事、天の邪鬼なんだ。上手くやろうとすると失敗しちまう。だからな、開き直っちまえよ。どーんと構えてろ。でもってやりたいこと、思っていることの反対をやればいいのさ」
 ジュノさんが背中をバシバシ叩いて励ましてくれるのだけれど、そう思えたら苦労はしないと言い返したかった。
(開き直れって言われてもなぁ……声が出ないことの反対って、黙れってことか? すでに声が出てないのに……何だよ、反対って)
 相変わらず空欄の作詞ノートを広げて、ジュノさんの声を反芻していたら、不意に思いついたことがあった。
(俺は今悩んでいる。上手くいかないことだらけで……もし何も悩みがなくなったら? 上手くいかなかったことが順調に進みだしたら、どう思うだろう?)
 何となくジュノさんの言葉に従うのは抵抗があったけど、試しに物事が順調に進みはじめたとしたらと考えてみることにした。
 また歌えるようになったとしたら、どんな曲をみんなに聞いてもらいたいと思うだろう。
(反対の立場になってみよう……今の俺が聞きたい曲は?)
 俺が、『i-CeL』の曲を楽しみにしているただの一般人だとしたら。
 おぼろげに書きたい言葉が見えてきて、ふらふら揺れるペン先に舌打ちしながら、見えた言葉が消えないように急いで書きとめていく。
 核になる言葉をすべて書き留めたところで、歌詞全体の流れを思い描く。
 途中、また意識を失ってノートに突っ伏した時間があったけど、翌日みんなで集まった時にはどうにか書き上げることができた。
 先に仕上げていたアレンさんの歌詞と見比べて、どちらが採用されるかをメンバーと富岡さんとで検討していく。
「ヒュ~。響ちゃん、一皮むけた感じやな。おれ、響ちゃんの歌詞が好きやわ」
 こくん、と文月さんも頷く。
「前向きで素晴らしい歌詞だと思います」
「響がこんな歌詞を書けるとは思ってもいなかったよ、うんうん。ぼくもこれ気に入った。この歌詞なら、新曲の曲調にもぴったりだしね」
「参ったね、完敗です」
 メンバー全員の意見が一致したところで、最後は富岡さんを見上げてその意向を伺う。
 少しだけ笑いながら富岡さんが頷いてみせた。
 そこから先の進行は早くて、俺の声が抜けたままの状態であっという間に新曲を仕上げたメンバーたちは、各自レコーディングへ臨んでいた。
 妨害がなければ新曲は完成し、発表していたはずで、突然すべてが水泡に帰してしまったのだから、進行が早いのは当然なのかもしれない。
 だけど未だ声が戻らないヴォーカルとしては、焦りと危機感が強くなる一方だった。
(どうしよう……早く、早く戻ってこい!)
 洗面台に立って口を動かし、声を出している自分自身をイメージしているのだけれど、効果はまったく感じられなかった。


 着々とレコーディングが進んでいく。
 ひとり悶々と頭を抱えていると、神音がやって来た。
「やっと見つけた! こんなところにいたの。探してたんだよ。父さんがぼくたちに会いたいんだって。ほら、行こう!」
 神音が強引に俺を連れて行ったファミレスの中は空いていて、数組の客がてんでばらばらな位置に座っているだけだった。
 窓際に座って外を眺めている父の姿を見つけるのは簡単で、その疲れきった横顔にずっと抱えていた胸の痛みがさらに強くなった。
「お待たせっ!」
「……あぁ、神音と響。忙しいだろうに、呼び出したりして悪かったな」
 いつも穏やかな父親が俺たちを見上げ、ふわりと微笑んだけど、何かがいつもと違っている。
(……父さん……)
 父はすぐに目を伏せてしまい、俺たちをまっすぐ見ていなかった。そんなことは今までになく、だからこそ呼び出された内容が良いものではないとわかってしまう。
「好きな物を頼みなさい。昼は食べたのか?」
「う~ん、つまんだ程度かな。レコーディング中で、スタジオに籠りっきりだからね」
「それはいけないな。ほら、響も好きな物を選びなさい」
「…………」
 メニューを広げて楽しそうな神音の横で、父からメニューを受け取りながら気まずい思いを味わう。
(母さんも事情を聞かれているとアレンさんが言っていた……あれからどうなったのかは聞いてない。こうして呼ばれたのは母さんのことなんだろ? だとしたら俺が関係しているんだ……何を聞かれるんだろう)
 実は俺も警察から事情を聞きたいと言われ、神音に付き添ってもらって一通り事件についての証言はした。
 もちろん声が出ないので、スマフォで文字を入力して伝える形になったけれど。
 それも最後の方は記憶があいまいで、だれに何をされたのかははっきりと覚えていない。
 さらにおおまかな流れを伝えただけで、松木に言われたことまでは触れていない。
 詳細を文字にしている間に、何度も気分が悪くなって中断させてしまったくらいだ。細部までは伝えきれていなかった。
(それなのに呼び出されたって……何を言われるんだろう)
 不安が強くなる一方で、とても食事をする気になれるはずもない。
 結局サラダだけ頼んだ俺を見て、父親がとても渋い顔をした。
「響、ちゃんと食べているのか?」
「食べてるけど、まだちょっとしか食べられないんだ。ぼくが多めに頼んだから、響に分ければいいでしょ」
 神音が横から説明をして、父親もそれならと身を引いた。
「久しぶりに食べられるよ、ハンバーグ定食♪」
「今は神音が料理を作っているのか」
「そだよ。でもね~、やっぱり自分で作って食べるのは作ってもらうより味気ないね。ぼくの料理が美味くないってのもあるけどさ。だから響もたくさん食べないんでしょ? 今日はたくさん食べられるよ、きっと」
 そんなことはない、と首を振ってみせたところへサラダが運ばれて、食欲はないけどフォークを握って野菜に突き刺した。
 もぞもぞと食べ進める俺を父親がじっと見てくる。
(……味を感じない……)
 人にじっと見られながら食べると、どうしてこうも緊張するのだろうか。
 おかげでドレッシングがかかっているのに、何の味を感じることもできない。
「わぁ~っ、待ってました!」
 神音が頼んだハンバーグ定食が運ばれて、父親もまたグラタンを食べ始める。
 ようやく視線が外されて、ほっと息を吐いたところへ、取り皿が置かれて神音がハンバーグを切り分けて載せる。
「食べなよ~、美味いから」
 他にもフィッシュフライや五目うどんも神音は頼んでいて、ほとんどを俺へ取り分けてくる。
(もう、こんなに食べられないよっ!)
 取り皿を返そうとするも、神音は受け取らない。
「だめ。これくらい食べなよ、せっかく父さんが奢ってくれるんだから」
「ん? 私はそんなこと言っていないぞ?」
「えっ! うそ、ぼくはてっきり奢りだと思って、調子に乗って頼んじゃったよ」
 すると父親が声を上げて笑いだした。
「すまん、からかっただけだ。ちゃんと私が支払いをするから、気にせず食べなさい」
「なぁ~んだ。まったく……びっくりしたじゃん。ぼく財布も持たずに来たから」
 それは驚いて当然だな、と苦笑しながらいつもより多い料理と向かい合う。
 父と神音が先に食べ終わって、食後のコーヒーやカフェオレを飲みながら俺が食べ終わるのを待つ。
(うぅ……ちょっと食べすぎて、気持ち悪いかも……)
 最後のうどんをすすって、すべて食べ終えると、もう一滴の水さえ飲めないほど満腹になっていた。
「……さて。いつまでもおまえたちを拘束していては怒られてしまうだろう。食後すぐにする話ではないが、聞いて欲しい」
 椅子に寄りかかり、ぐったりしていた俺に向けて父親が口を開いた。
 隣で神音が座り直す。俺も姿勢を正して、痩せた父親へ向かい合った。
 目を伏せた父親が間を置く。わずかな沈黙がかえって雄弁に父親の心境を伝えてくるようだ。
「母さんのことだ」
 たった一言で、食事中の和んでいた空気が霧散して、緊迫した空気に変わる。
 ついに来たと俺が覚悟した時、父親がテーブルに額を打ち付ける勢いで、ばっと頭を下げた。
「すまなかった! 母さんが響にしたこと、今までしてきたこと、すべてを聞いた。気付いてやれず、守ることも助け出すこともできず、本当に……すまなかった」
「……父さん」
 ぽつん、と神音が呟く声がやけに大きく聞こえる。
 周囲にはいろんな音が聞こえているはずなのに、まるで別室にいるかのように俺たちの周囲だけが静かに張りつめていた。
「私は……響に会うことが怖かった。一度だけ、響が入院していた病室へ行った。そこで眠る響を見て、足が竦んで動けなくなった……あの日がまた戻ってきた気がして」
 ぎゅっ、と思わず手を握り締めた俺に気付いて、隣から神音がそっと手を重ねてきた。
「指を折られ、自宅で療養していたはずの響が、朦朧として衰弱しているのを見つけたあの日。運び込んだ病院で、おまえの首にだれかに絞められた跡があると聞かされ、私は目の前が真っ暗になった。安全な場所にいるはずなのに、なぜ……医者は私や母さんを疑った。当たり前だな……だが私は現実を信じられず、妻を疑いたくもなかった。目を反らしたのだよ、私は……響が犠牲になるのを承知でっ」
 父親が言葉に詰まり、片手で顔を覆った。
 俺の手を握る神音の手の方が、細かく震えているのが伝わって、俺は横を向いた。
 さっきまでの楽しそうな雰囲気は消えて、何かと葛藤している神音の険しい表情が目に映る。
 事件に巻き込まれた後、病院で神音が取り乱した理由は、いま父親が語った日のせいだ。
 父親だけでなく神音もあの日を思い出して不安になったのだ。
 祖母に首を絞められ、ベッドから出てくるなと言われた幼い頃の俺は、祖母が怖くて言いつけを守り、脱水症状で意識を失った。
 入院してからも意識がはっきりしない期間が続いて、ようやく意識を取り戻した後も、神音や父親がそばにいなければひどく怯えるようになって、ずいぶんと心配を掛けてしまった。
 最もあの頃やもっと幼い頃に海外で男に襲われ捨てられた出来事も、ずっと忘れていたのだけれど。
「……私は、母さんと離婚する」
「っ」
 俺は急に父親の口から飛び出した結論に驚き、立ち上がりかけた。
 父親が一息ついてから話を続ける。
「妻を今も愛している。だが響、神音。おまえたちも私の愛しい家族だ。それを壊そうとする者をそばには置いておけない……今更だと思うかもしれないが」
 今はまっすぐに俺と神音を見る父親の表情は決然としていて、もう決めてしまったのだとわかった。
「本当はもっとずっと以前に、こうしておくべきだったのだ……響が苦しんでいることを神音が気付かないはずがない。お前たちは本当に仲が良い兄弟だから……神音もずいぶんと苦しんだだろう」
 すまなかった、とまた俺たちへ頭を下げる父親を見ているのは辛かった。
 俺はスマフォを取り出し、出来る限り素早く文字を入力して、父親へ画面を向けた。
『止めてください。俺のせいで、これ以上家族がバラバラになるのは辛い』
「響……違う、お前のせいじゃない。何もおまえは悪くないんだ」
『でも、父さんがひとりになってしまう』
 これから先、俺と神音は自分たちの選んだ道を進んでいくつもりでいる。
 あの家に戻る機会は減ってしまう。
 母がいなくなったあの家に、父がひとりで暮らすのはとても寂しいと思うのだ。
『お願いです。思い止まって下さい。俺は家に戻らないから、母さんと離れないで』
 隣から俺が入力する文字を読み取った神音が、身を乗り出した。
「何を言ってんの、響っ! まさか、母さんがしたこと許すって言うの? まだ響は事件のこと忘れていない。自覚してないかもしれないけど、夜眠るたびに怯えているんだよ? 宥めるぼくの声が全然聞こえてない感じで……声が出ないのに、叫んでる響を見ているしかできないぼくの気持ち、わかる?」
『神音……ごめん、迷惑かけて』
「違うっ。ぼくが言いたいのは、そんなことじゃない!」
「落ち着きなさい、神音」
 テーブルをドン、と叩いて歯を食いしばる神音を父親が落ち着かせようとする。
 苛立ちを少しでも鎮めるために、神音が水をガバッと飲み下したけど、苛々とテーブルを叩き続ける指先がその荒れた心境を表していた。
「……神音が言う通りだと私も思う。母親だからこそ、してはいけないことをしてしまったのだ」
 父親が俺へ視線を移すと、淡々と言葉を重ねる。
「事件に関与している証拠が十分ではないから起訴はされないことになったが、私は妻を信じることができない。いつまた響を脅かすかと。だから……」
『だからこそ、父さんに見張っていて欲しい。父さんにしか頼めないんです……母さんのそばにいてあげてください』
 神音は怒ったけど、俺は少し達観していた。
 やっぱり家庭を壊したくはない。
 父が働いて帰りつく先が、空っぽの家になることは避けたかった。
 それにずいぶんと酷い要求をしていると思う。不信感を抱いた妻とこの先寄り添って生きていけ、と求めることは案外、とんでもなく過酷な現実を押しつけることになるんじゃないか。
 それとも打算的な望みなのかもしれない。
 母親を見張る仲間が欲しくて、父親に身勝手な望みを押しつけているだけなのかも。
(それでもいい……)
 神音がいつか帰るかもしれない家を、父親が安らぐための場所を、完全に奪い去りたくはなかった。
 母親はふたりを愛しているはずだから。
 帰り際、父親は考えてみると言ってくれたけれど、神音はずっと不貞腐れていた。
「信じられないよ……響はお人良しすぎ」
 ごめん、と神音に短いメッセージを送った。
 神音はレコーディングへ戻る道の途中で、こつんと肩を当ててきた。
 そのまま並んで歩き続ける。
(あれは俺の為でもあるんだ。神音たちから家庭を奪った罪悪感を薄れさせたいだけなんだ、きっと)
 もしかしたらそれこそが本音なのかもしれない。
 歩きながら空を見上げると、薄い雲がもやのように青空を覆い隠していた。
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