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第二章

我恋歌、君へ。第二部 12:心の距離

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 あの日からアレクと顔を合わせにくくなってしまった。
 いつもなら出掛けるアレクを見送るけれど、それも気まずくて部屋に閉じこもったまま、ひとり出ていくアレクの足音を聞いている。
 アレクと生活する部屋にいるのもいたたまれず、片付け終わるとモーチンさんの部屋も片付けるようになっていた。
 黙々と家事をこなしながら、借りたスマフォで音楽を聞き続ける。
 とにかく何も考えないで済むように、ゆっくりでも体を動かし続けた。
 気まずくなって三日目。
 いつもより早く帰ってきたアレクは、俺の部屋の外から声をかけてきた。
「ヒビキ。出掛けるから準備をしなさい」
「……早かったんだね……それに、出掛けるってどこに……」
 いつまでも閉じこもっているのは大人げないと、ドアをそっと開いて顔を見せながら話しかけると、目の前にずいっと何かを突きつけられた。
「これを着て。着方はわかるかい?」
「へ? あの、これって……」
 反射的に受け取ってしまったものは、吊り下げられた黒のスーツ一式だった。
 アレクが俺の視線に気づいてにやりと笑う。
「今度はちゃんと男性用だよ」
「……それはどうも、ご親切に」
 とにかく着替えをしなさい、と部屋の中に押し戻される。
(な、何がなんだか……)
 高校時代の制服がネクタイ着用だったから助かった、と思いながら用意してくれたスーツに着替える。
 なめらかな手触りと着心地の良さ、着用した時の美しいライン。
 仕立ての確かさから見ても、これが量販品じゃないことがわかる。
(……これからどこに行こうとしてる?)
 高級感たっぷりのスーツに中身が負けている気がして、ためらいながらドアを開ける。
 廊下に腕組みをして待っていたアレクも、同じくブラックスーツに着替えていた。
「よく似合っているよ」
「……ありがとう」
 俺の姿に気づいたアレクが腕を解きながら、目を細めて褒めてくれた。
 お世辞だと思う。似合いすぎなほど似合っているのはアレクの方だったから。
 いつの間に用意してくれていたのか知らないけれど、スーツのお礼もこめて返事をすると、行こうと催促された。
 アパートを出て少し歩くと、道幅が広くなった交差点脇で黒い車が待っていた。
 アレクの後について歩いて、車に近づくと中から黒服の男性が下りて、当然のように後部座席を開いてアレクを待つ。
(え……これに乗るの? しかも運転手付き?)
 車種に疎い俺でも知っている高級車に専属運転手付きだ。
 それまで身近に感じていたアレクが、実はとんでもなく遠い存在なのだと思い知る。
「……アレク、どこの御曹司なの?」
「え? しがない会社社長の息子だよ」
 遠い目でアレクを見る俺に、苦笑しながらアレクが乗車を促す。
 先に後部座席に乗り込むと、後からアレクが乗ってドアを閉めた運転手が席に戻った。
「途中で事故が起きました。渋滞を避けますので、予定より三分ほど遅れます」
「構わないよ」
 運転手との問答を手早く済ませ、アレクは車窓へと視線を投げてしまう。
 静かに進みはじめた車の中は、奇妙な沈黙に満たされた。
(どうしよう……こう言う時って話をしていてもいいのかな。運転の邪魔しないように黙っているべきなのか……)
 どこへ向かっているのか、何をするために行くのか、聞きたいことは山積みなのに、車内の空気に尻ごみして言葉が出てこない。
 アレクも通りすぎる景色を眺めるばかりで、話しかけてくる気配がない。むしろ横顔は俺を拒絶しているようにも見えた。
(うぅ……何なんだよ、もう……富岡さんの車に乗った時と同じだ~)
 説明を省いて車に乗せたがる人ばかりなのか、それとも俺が話を聞きだすのが下手だからなのか。
 答えの出ない自問自答をくり返す間に、車はほとんど泊まらず目的地へ到着した。
 滑るように走っていた車が止まったのは、高級そうなホテルの車止めだった。
 すぐにボーイがかけつけてドアを開けてくれる。
 俺たちを降ろすと車は静かに走り去った。
「連絡をすれば迎えに来てくれるから。そんなに心細い顔をしないでおくれよ」
「……してません」
 車を見送っていた俺に、アレクが忍び笑いをしながら声をかけてきた。
 どうやら機嫌が悪いわけではないらしい。
 ホテルに入る手前で招待状の提示を求められた。当然のようにアレクが手渡す背後にいる俺を、強面の男性が招待状を確認しながらじろりと睨んでくる。
「彼は?」
「友人だ」
 短い問答の後は招待状をさっと眺めるだけでチェックが終わり、中に入ることができた。
「はぁ……生きた心地がしなかった」
「大げさな。大丈夫さ、自分の銀行口座に百万ドルが入っているのだと思い込めばいい」
「……できるわけないだろ」
 自慢じゃないが家計を預かり、やりくりするために口座を作ったけれど、中身はいつもぎりぎりの額しかなく、給料日前には数円しか残らないことも多かったのだ。
(振り込まれたお金で、いかに家族全員がたくさん食べられるか。毎月そればっかり考えていたんだよな……百万ドルの預金があったら、そんなこと考えなくても生活できそう)
 非現実的すぎる金額に、庶民な俺はそんな風にしか考えられない。
 ホテルのロビーにも、そしてパーティが行われている大ホールにも、裕福そうな身なりの大人たちがたくさんいた。
 仕立てのいいスーツに磨き上げられた革靴、ダイヤが輝く腕時計。
 女性もドレスアップした胸元や耳、手首などに煌びやかなアクセサリーをつけている。
 シンプルな中に品があって、派手さはなくとも彼らが身につけているものが高級だとわかる。
(ふぇ~こんなところに俺を連れてきて、アレクは何をしようって言うんだ?)
 場違いも甚だしい。
 いますぐ回れ右して帰りたい気分だった。
「アレク……」
 先を歩くアレクの袖を掴んで、軽く引っ張るとアレクが振り向いた。
「心配いらない。彼らもだれも、君を食べようと襲いかかってくることはしない」
「いや、そう言うことじゃなくて……」
 人の間を器用にすり抜けて歩くアレクが、朗らかに笑って逆に俺の手を掴んでしまう。
 逃げられなくなって、仕方なくついて歩く。
「君に会わせたい人がここに来ているんだ」
「……会わせたい人?」
「そう。君も会いたいと思っているはずだよ」
 もう一度振り向いて、意味深に笑うアレクがホールの端まで歩いて行く。
 壁際に横長のテーブルが並んで、美味しそうな料理がきれいに並べられていた。
 ところどころシェフが自ら切り分けたり、最終調理をしてお客に差し出している。
 その一番端。取り皿が積まれた辺りにふたりの青年が立っていた。
「……あ……」
 ひとりは細身でプラチナブロンドの青年、俺たちに背中を向けて立っている。
 彼と向かい合って立つもうひとりの青年は、波打つ金髪を首の後ろでゆるく束ねていた。
 彼の姿に俺は動揺してしまい、つまづいて転びかけた。
「いたね。さぁ、ご挨拶といきましょうか」
「ちょ……アレクっ!」
 一旦は立ち止まっていたアレクが、俺の手を掴んだまま彼らに向けて歩き出してしまう。
 引き摺られるように歩きながら、俺はアレクに止まってくれと訴え続けた。
「そのお願いは聞けない。君はちゃんと彼と話をするべきだと思うからね」
「は、話って……別に何も……」
 アレクが顔だけ振り向けて、軽く睨んできた。
「僕には簡単に答えを出してみせたくせに、彼には答えを出せないのかい?」
「……だから、違うって……」
「今晩はこのために来たんだ。彼に会わずして帰れるものか。あきらめなさい」
 アレクが言い終わって、俺を前に突き出したところが、ちょうど向かい合って立っていた青年たちの目の前だった。
 背中を押されて、たたらを踏む俺を彼らが気づいて見下ろす。
 緑色の目と、明るい青色の目が俺を映す。
「……えっと……こ、こんばんは」
 体勢を立て直し、笑顔を心がけながら挨拶をした。
(絶対に顔、引きつってる……)
 頬が痙攣しているのがわかる。心臓がばくばく鳴り響いて、周囲の喧騒が遠くなった。
 俺を見たふたりの反応は、面白いほどに二分した。
 プラチナブロンドと緑色の目をした青年は、細い眉を寄せてしわを作る。
 波打つ金髪と青い目の青年は、驚いた様子で目を丸くした。
「は、じめまして。カタヒラ・ヒビキです。あの……あなたの歌声、本当に素晴らしいと思います」
 渋面をしたままの青年はアレクが見せてくれた動画に映っていた、ユリエル・ターナーその人だった。
 つっかえながら自己紹介をすると、頭からつま先まで冷めた目でユリエルが観察をする。
「ふぅん……きみが……なるほどね」
 何がなるほどなんでしょう、と聞く勇気もないまま、もうひとりの青年へ視線を向けた。
 驚いた後は思いつめたような表情になったアレンさんは、俺から少し視線を外した。
「もう……調子は良くなったの?」
「え、……はい……」
「そう……よかった」
 なぜアレンさんが俺の体調不良を知っているんだろう。
 慌てて追いかけても、結局追いつけなかったはずなのに。
 たくさんの人が歓談する中で、俺たち四人の間にだけ冷ややかな空気が漂う。
 それきり言葉を続けられなくなった俺たちを見かねて、アレクが声を発した。
「すみませんが、部屋までお越し願えますか?」
「……部屋?」
 アレンさんがアレクの方を向いて、不思議そうな顔をした。
 腕組みをしたままアレクが指先を天井に向ける。
「上に部屋をとりました。あなたたちに聞きたいことがあるので、じっくりと話ができるように。ヒビキ、君も来るんだよ」
「……わかった」
 何を言っても逃げることは出来ないようだ。
 あきらめて場所を変える一行について行く。
 俺とアレク、そしてアレンさんがエレベーターに乗り込むと、最後にユリエルまでが乗り込んできた。
「ボクも入れてよ」
「なぜあんたが……?」
 挑戦的な目で俺を睨んでから、疑問の声を発したアレクをユリエルが睨みつけた。
「アレンはボクのものだから。ボクのいないところで、だれにも話をさせない」
「……ボクのもの……?」
 思わずアレンさんを見上げると、俺の視線を避けるようにアレンさんは反対側を向いてしまった。
 エレベーターの扉が閉まる。
 俺たちの他にも初老の夫婦が乗っていたから、それ以上は何も聞けずに静かに上昇していく感覚に意識を向けた。
 アレクが目指す階に到着して、夫婦を残し俺たちはエレベーターを降りる。
 高級そうな幅広の廊下を無言で歩いて、奥の部屋に辿りつく。アレクがカードキーで中に入ると、夜景がパノラマで眺められるリビングへ一行を導いた。
「ここなら思うがまま話が出来るだろう。さぁ、しっかり話をするといい」
 そう言い残して、アレクはバーカウンターの方へ歩いて行った。
 ソファセットが用意されているリビングで、俺とアレンさん、ユリエルが取り残される。
「…………」
 アレンさんは表情を曇らせたまま、カーペットへ視線を落として何も話さない。
 そんなアレンさんに俺も何を言うべきかわからなくて、同じように柔らかそうなカーペットを意味もなく見つめていた。
 するとさっさとソファに座って足を組んだユリエルが、不愉快さを露骨に見せてきた。
「きみ、どういうつもりなの? そこのホスト男とキスしてる場面をアレンに見せつけておきながら、その男を連れてわざわざパーティにまで押しかけてきて」
「ホスト男とは僕のことかい?」
 カウンターの向こうで笑顔を引きつらせ、アレクがぼそっと呟く。
「他にだれかいるの? 傷口に塩を塗るような真似をして、楽しい?」
 美しいユリエルの口から、次々と鋭利な言葉が吐き出される。
「ち、違います! あれは俺が望んだことではありません! それに……」
「はっ……望んでなかったことだから、なかったことにしてくれって? ずいぶんと自分勝手な言い分だこと」
 冷笑を浴びせられて、俺の手が震えた。
「きみはアレンの気持ちを知っているんでしょう? アレンは一途だからね。好きだと思った相手をずっと待ち続ける。それが愉快なんじゃないの? 思わせぶりな態度をとって、注意を引きつけておきたいんでしょう。好意を寄せられるのは気持ちいいものね?」
 ソファの肘置きに腕を組み、あごを乗せたユリエルが首を傾けて妖艶に笑う。
「そして残酷な裏切りを見せつける……ねぇ、いまきみはどんな気持ちを感じてるの? 何の恨みがあってアレンにこんな仕打ちをしてみせるの?」
「……恨みなんて、何もありません。それに……裏切っていません」
「言葉では何とでも言えるよ」
 ユリエルは目を閉じて言い放った。
 そこへアレクが割り込んできた。
「あんた、少し口を閉じていろよ。第三者のくせに口を挟みすぎだ」
「……ぼくに指図するつもり?」
 じろりとアレクを睨むユリエルの周囲で、空気が少し冷えた気がした。
 負けじとアレクもユリエルを冷たい目で睨みつける。
 部屋に入ってから一言も発していなかったアレンさんが、その時ようやく声を出した。
「響くん」
 たった一言、俺を呼んだだけなのに、部屋の空気がぴりっと研ぎ澄まされた。
 ユリエルもアレクも、じっと俺とアレンさんを向いて次の発言を待っている。
「ここに何をしに来たの」
「…………」
 出会った時から、いつも笑顔でいてくれる人だった。
 少し垂れた目尻が優しそうで、年長だからと言うこともあって、すごく頼りがいのある人だと思っていた。
 実際に苦しんでいた時に救われて、情けない姿ばかり見せていたのに告白された時は、申し訳なさを感じた。
 それがいまはとても遠い。
 優しそうな顔立ちはいまも同じ。
 だけど切なげな表情に、ぬくもりは感じられなかった。
 心が、遠い。
 俺がアレンさんにそんな表情をさせてしまったのかと思うと、息苦しさを感じる。
 俺にそんな価値はないとわかっているのに、もう一度笑いかけて欲しいと願ってしまう。
 水が高い場所から低い方へ流れ落ちるように、自然に動いてしまう心の行く先で、また嘲る声が聞こえている。
 一度目を閉じて、幻の声を振り払った。
「……アレンさんに伝えたいことが」
「何を?」
 問い返す声が短い。
 震えだす手を握りしめ、逃げ出しそうな自分自身を叱りつける。
「俺は……日本に帰って、またみんなと歌いたい。それだけを考えています。他には何も……あなたが考えているようなことは、何もないんです」
 アレクにキスをされたけど、だからアレクと付き合っているわけではない。
 そうしたいとも思っていないんだって、どう言ったら伝わるんだろう。
 もどかしさを胸の中で噛みしめていると、アレンさんが目を細めて問いかけてきた。
「……なぜ彼と踊っていたの?」
 ダンス大会で女装していたところを目撃されたんだった、と思い出す。
 いまも思い出すと恥ずかしさがこみあげてきて、顔が赤くなってきた。
「あれ、は頼まれて……富岡さんも許可したんです。俺に必要だからって」
「……口を挟んで申し訳ない。それに関しては僕が証言するよ。ヒビキは僕が立ち直るために手を貸してくれただけだ」
 そっとアレクが挙手をしながら発言をした。
 まるで裁判中に証人として話をしているみたいだ。
 アレンさんはちらっと横目でアレクを見ると、すぐに俺へ視線を戻す。
「俺が表現者として未熟だってことを、自覚させるためだったんです。富岡さんの友人のジュノさんが、俺に歌の指導をする前にそうするべきだって……大会に出て、少しそれがわかった気がしています」
 慌てて言い募ると、アレンさんはしばらく無言で俺を見ていた。
 やがてゆっくりとアレンさんが目を閉じて、少しずつ息を吐き出した。
 その口が動きだす様子を見つめていた俺の耳に、ユリエルの声が突き刺さった。
「ウソつき! アレン、騙されるな。いままでのことを思い出してみなよ。みんなアレンを裏切ったじゃないか。ひとりでもアレンの気持ちを受け止めた奴がいたか?」
 立ち上がり、叫びだしたユリエルにアレクが冷ややかな目を向ける。
「これまでの奴と、ヒビキが同じである根拠がないじゃないかい」
 強い視線でユリエルがアレクを睨みつける。
「口を挟まないでくれる?」
「あんたこそ、ふたりの邪魔をするな」
「おまえ何様のつもり?」
「僕はいつだって僕様さ」
 冷やかに睨み合うユリエルとアレク。
 俺とアレンさんはお互いに顔を見合わせ、どちらともなく吹きだした。
「な、何を笑っているの……」
 ユリエルが顔を引きつらせ、抗議してくる。
「いや……子供みたいだと思って」
 アレンさんが口元を手で隠し、笑いをこらえながらユリエルに説明した。
 するとユリエルが口を尖らせる。
(……何だか、神音に似てる……)
 反応の仕方が片割れに似ていると気づいて、いままでユリエルに感じていた緊張感が緩んだ。
「問題を複雑にしたのはおまえだろ!」
 アレクまで笑いだしたので、ユリエルは眉を上げてアレクを指さす。
「まぁ、恋心と言うものは自分自身でさえ制御できないものだろう?」
 アレクはひょいっと肩をすくめて、自分で作ったカクテルを飲んだ。
「言っておくけどね、色男さん。ヒビキは僕にはっきりと断ってくれたよ。おかげで僕はあんたを平常心で見ていられない。責任をとってくれるかい?」
 酒を飲み干し、グラスをカウンターに置きながらアレクが低い声で言い放つ。
 少し和んだ部屋の空気が、またピンと張りつめる。
 アレンさんはゆっくりと振り向いて、アレクと視線を合わせると微笑んだ。
「それは奇遇だね。オレもきみを好きにはなれそうにない」
 穏やかな声だったけど、その分凄みがあるアレンさんの声だった。
 思わず強張った俺の背中を、ポンと叩くのはユリエルだ。
「あんたに……あんないい男ふたりも惑わす魅力があるとは思えないんだけど?」
「……俺もそう思います」
 間近に顔を寄せて、冷笑を浮かべるユリエルに俺はてらいもなく苦笑で答えることができた。
 だって俺自身がだれよりもそう思っていたから。
「……天然なのか、馬鹿なのか……」
 ユリエルはエメラルドの瞳で俺を正面から睨みつけてきた後で、不意に天井を向いた。
「ジュノに何か言われたらしいね……すると、ボクとあんたは同じ師についた仲になるわけ?」
 天井を向いたまま考えながら話す様子のユリエルに向けて、俺は頷いた。
「はい。未熟者ですが、よろしくお願いします」
「そう……なら、ちょうどいい」
 くるり、とユリエルが顔を戻し俺を見る。
 並んで立つとほんの少しだけユリエルの背が高いことがわかった。
「ジュノが時々歌うことは知っている? あの店で、ボクとあんたで勝負しよう。アレンを賭けて」
 抗議の声をまっさきに上げたのは、何とアレクだった。
「何でだい? これはそこの色男とヒビキの問題だろう。どうしておまえがしゃしゃり出てくるんだい」
「うるさいよ。ボクはこいつを認めていないわけ。アレンを渡してはやらない。それを歌でも思い知らせてやる。ボクには歌でも敵わないと絶望させて、夢も希望も全部こいつから取り上げる。ひとり惨めに日本に叩き返してやるの」
 ユリエルの主張を聞いたアレクが、肩を落として呆れ果てたように力なく呟く。
「……餓鬼」
 美しい顔をぴくり、と揺らしてユリエルが怒りを爆発させる。
 その寸前で、アレンさんがユリエルに近づいてその手を握った。
「リィ……やめなさい」
 手を掴まれたユリエルは、それまでの尖った空気を一変させて、甘えた顔でアレンさんに訴える。
「ボクの正直な気持ちだよ。アレンを想う心は、こいつにだって負けない。見せてあげる」
「そんなことをする必要はないよ」
「嫌だよ、ボクはもう決めたの」
 くるりと俺に向き直って、ユリエルが指を突きつけてきた。
「一週間後、ジュノが通うパブのステージで、お互いの出身国の歌を歌うこと。ボクは日本の、あんたはイギリスの歌を歌う。ボクは素顔を晒さない。これでイーブンだよね?」
 プロのアーティストとして実績も経験もあるユリエル相手に、まだデビューもしていない俺がそれくらいのハンデで平等になるものか。
 そう思ったけど、似たような性格の神音と暮らした経験上、何を言っても無駄だろうなとわかっていたから頷いた。
「いいよ。それで俺が勝ったなら、アレンさんを連れて日本に戻っても文句は言わない?」
「あぁ、笑顔で見送ってあげるよ。ユリエル・ターナーの名にかけて」
 十字を切ってみせるユリエルのとなりで、複雑そうな顔をしているのはアレンさんだ。
「……そんなことしなくても、オレは日本に帰るつもりだから。断っていいんだよ、響くん」
「僕も悔しいが同意見だ。ガキの遊びに付き合う必要はないんじゃないかい?」
 カウンターに頬杖をついて成り行きを見守っていたアレクが同意してきた。
 彼らに向けて俺は微笑んでみせた。
「いいえ。受けて立ちます」


 ホテルからアパートに戻り、着なれないスーツを脱いでハンガーに元通りにかけておいた。手入れは明日やろう。
 さっそくアレクから借りたままのスマフォにイヤホンをつけて、曲を再生させようとするとドアをノックする音がそれを止めた。
「どうぞ」
 まだ着替えていないアレクがためらいながら部屋に入ってきた。
「どうしたの、まだ着替えてなかったんだ」
「あぁ……君に謝るべきかと思って。奴のところへ連れて行ったことを後悔しているんだよ」
「え、何で急に……?」
 問い返すと、アレクは意味もなく部屋の中を見回して、言葉を探す様子になった。
「……体調が完全に良くなってはいないだろう? それなのに新しい難題を抱えることになってしまった。僕が強引に連れて行ったせいで」
 アレンさんと話をして、俺を落ち着かせるつもりだったのに、とアレクが悔しそうに歯がみをする。
 俺は小さく笑った。
「アレクには感謝してる。強引に連れ出されなかったら、俺はずっとアレンさんと向き合えなかったと思うから。それにこうなったこと、本音を言うとすごく楽しい」
「楽しい……?」
 意外そうに目を丸くするアレクに、大きく頷いて見せた。
「答えの出ないこと考えなくて済むし、素直にすごいと思った人の歌を直に聞ける機会がもらえたんだ。楽しみだよ」
「……負けたら彼とは活動できなくなるんじゃないのかい?」
「うん。そうかもしれないし、違うかもしれない」
 曖昧な返事をしたら、アレクがわからないと言いたげに首を傾けた。
「アレンさんがあの時言っていた通り、自分自身の考えで行動すると思う。俺が負けても、日本に帰るんじゃない? ユリエルはアレンさん自身が日本に帰ること、アレンさんが音楽活動をだれと続けるのかについては、何も言っていなかった。つまり日本でまたアレンさんに会えると思うし、一緒に活動できるかもしれない」
 俺が勝ったらふたり揃って帰れるけど、負けたとしても結果的には日本で会えるのだ。
 アレクはしばらく俺を見つめて、何とも言えない顔をしていた。
「……僕は君をもっと知る必要があるみたいだよ」
「え……何?」
 小声で呟いたアレクの声を聞き逃して、問い返したけど首を横に振っただけだった。
「僕に協力できることがあったら、いつでも言いなさい。あいつの歌は好きだが、本人は嫌いだ。負けて悔しがる姿をぜひとも見てみたいからね」
 ぜひとも、の部分を強調して去っていくアレクにお礼を言いながら見送り、俺はそっと笑った。
 とにかく目的ができたから、よく思い出せない暗い影と男の夢に悩まずに済む。
 たとえまた夢を見たとしても、ユリエルとの勝負のことに意識を向ければいい。
(……アレンさんの誤解は、ちゃんと解けたのかな……)
 スマフォに入れてもらった曲の中から勝負曲を選ぶつもりで聞き流していると、不意に疑問が浮かんできた。
 最後には微笑んで見送ってくれたけれど、同じ部屋に住んでいることがわかったら、また誤解を深めてしまうかもしれない。
(……やっぱりモーチンさんの部屋に戻った方がいいかも)
 明日練習を終えて、アレクが帰ってきたら相談してみよう。
 決意して曲に意識を集中する。
 ユリエルの曲に切り替わり、厳かな歌声を聞いていると、また別の疑問が浮かんできた。
(……アレンさんとユリエルの関係って何だろう……?)
 俺やアレクに対しては、毛を逆立てた猫のように反応していたユリエルが、アレンさんにはずいぶんと心を開いている様子だった。
 やっぱりアレクが昔見た、ユリエルの部屋に通う男性はアレンさんで、ふたりはいまもそう言う関係でいるのだろうか。
(……面白くない、けど……)
 ベッドの上で膝を抱えて、目を閉じる。
(俺は……手を伸ばしちゃいけないんだ)
 ただ近い場所にいて、頼りにしていた人だったから、こんな気持ちになるだけだ。
 ユリエルの声を聞きながら、何度も何度も自分に言い聞かせた。
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