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第二章
我恋歌、君へ。第二部 9:恋夜
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大会前日は練習も何もない、完全なフリーの一日だった。
直前はなるべく別のことを考えていた方がいいとロベルトとアレクが口を揃えて言うので、俺は久しぶりにモーチンさんと暮らした部屋に戻り料理を作り置きしておいた。
自分で作ることも久しぶりだったから鼻歌が飛びだすほど楽しんで料理をし、終わってみるとかなりの量が出来ていた。
「……俺は主婦か?」
冷めた料理からテキパキと冷凍していきながら、我ながら家庭的すぎないかと苦笑する。
長年染み付いた習慣が無意識に働いたんだろう。家事を担うようになって以来、わずかな時間を見つけては作り置きを量産してきた。
それが異国に渡ってまで発動するとは。
「ま、いいか。俺はこのために雇われた身だったんだから」
ずいぶんとサボらせてもらったけど、契約違反になってやしないかと今さらながら不安になった。
ロベルトに借りた鍵でモーチンさんの部屋を閉めて、アレクの部屋に戻ったところで出掛ける様子のアレクに鉢合わせした。
「出掛けるの?」
「ちょうどよかった。呼びに行こうとしていたところだったんだよ」
「俺を?」
アレクはシャツの上からグレーのジャケットを羽織った姿で、いいからついておいでと手招きしながら部屋を出る。
慌てて廊下に飛び出した俺を待って、鍵を閉めたアレクと並んで町へくりだした。
雨が降りそうな薄曇りの天気が朝から続いていた空は、ずいぶんと薄暗くなっていた。
まだ夜には遠い時刻。すれ違う人たちの中には、幼い子供たちも多くいる。
「どこに行くの」
半歩先を行くアレクに追いついて、横に並びながら聞いてみた。
「いいところさ」
肩をすくめてそれきりだ。
釈然としないままついて行くと、やがてどこかで見た町並みに辿りついた。
「今晩はここで夕食にしよう」
やがて見たことのある店の前で立ち止まり、アレクが晴れやかな笑顔で店を指差した。
ジュノさんを迎えに来たパブ「にんじん亭」だった。
お酒を飲むには少し早くないかと思いながら、アレクが押し開いた扉から続いて入店してみると、すでに席の半分は埋まっている。
「先にそこの席で座って待っていて」
「え……ちょ、」
俺はまだ成人してない、と言おうとしたけどアレクの方が早かった。
さっさとカウンターへ行ってしまう。
その背中を目で追うと、店内の様子も視界に入って興味を引かれた。
前回来た時は営業を終えた時だったからか、今よりずっと寂しい感じがしていたけれど、今夜は人気もオレンジ色の灯りも多くて、落ち着いた雰囲気ながら活気のある店内だった。
店内の一番奥に小さなステージがあって、小さめのピアノと照明もスタンバイしてある。
カウンター席はステージの横。ステージ前に二列テーブル席が並んでいる。
俺たちが座ったのは壁沿いの列、ステージ近くのテーブル席だ。ステージ側の席よりもわずかに高くなっている。
各テーブルの上にほのかなピーチオレンジ色の光を放つアンティーク調のランプが置かれていて、壁についている照明も抑えた色合いだった。
どこかしっとりと艶めいた雰囲気に落ち着かず、視線を彷徨わせていたら、ステージ前の席にいた女性三人のお客さんたちと目が合った。若い彼女たちハァイと手をひらひらさせてにっこり笑う。
どうしていいのか戸惑う俺の様子に、彼女たちが一斉に笑い声を上げたところでアレクが戻ってきた。
ビールらしき発泡する液体の入ったグラスを両手に持っている。
ひとつを俺の前に置いて、席へ座った。
「ありがとう……でも俺はまだ成人していないんだけど」
「へぇ? 君って本当は何歳なんだい」
「十八」
「それでも日本はまだ未成年なのかい? 驚いたね……こちらでは十分成人している。さ、かたいこと言わず、楽しみなさい。今晩は前夜祭だよ」
「前夜祭?」
答える前にグラスを俺に強引に握らせて、アレクが自分のグラスを持ち上げた。
「泣こうが笑おうが明日がいよいよ最終決戦。悔いのない踊りをしよう。そして今日までたどりついたことに乾杯」
「……うん、乾杯」
グラスを合わせ、中身を一口飲んでみた。
料理酒を除いて人生初の酒だった。
アルコールの弱いものを選んでくれたのか、するりと喉を通り抜けていく。飲みやすくて美味しい。
それからはアレクが適当に選んだ軽食やつまみを食べながら、グラスを傾けて他愛もない話をした。
「君はまだ十八なのかい……うらやましいね」
「アレクはいくつなの」
「……君より数年早くこの世に飛び出しているよ。あぁ、そうか……ちょうど君と同じ頃だったかな。とある大会に出た時さ。ジャンプを飛んで着地も完璧に決まったのに、衣装がね……裏切ってくれたことがある」
「?」
フィッシュフライを指につまんだまま、先端を俺に向けてアレクがじとっと睨みつけてくる。
「想像してごらん。まだ十代の若者は多感な時期だ。ジャンプを成功させてよしっ、と思ったとたんにズボンがパックリ裂けた悲劇を」
笑っちゃいけない。そう思っても口元は震えてしまい、慌てて手で覆って隠した。
「まだ着られるからと前年と同じ衣装を着たのがいけなかったのだね。裂けたのは後ろの方で前ではなかったことが唯一の救いだったよ。曲の終盤だったから、そのまますべりきったけれどね。恥ずかしすぎてその時のことはほとんど覚えていないよ」
「それは……『ご愁傷さまです』」
「ん? それは日本語かい?」
「うん。よくがんばったね、と言うか……災難だったねと言うような意味で」
「なるほど。まさに明日の君にぴったりじゃないかい、そのコトバ」
「確かに」
アレクと目が合って、ふたり同時に声を上げて笑った。
するとピアノの音がポロン、と鳴った。
ステージを見るとだれかが上がって中央へ歩いていくところだった。
「目当ての人が来たよ」
「?」
アレクがにやりと笑いながら小声で囁く。
首を傾げながらステージに視線を戻すと、照明がちょうど当たる場所にその人が立った。
「あっ」
光を浴びながらステージ上の片すみに置いてあった椅子を引き寄せて、腰かけたその人はジュノさんだった。
薄い色のサングラスをかけていて、櫛でといたらしく、いつもよりは落ち着いた髪と洗いたてのシャツ姿で、一瞬だれかと思ったけど。
アコースティックギターを抱えて座ったジュノさんが、弦を適当に弾いて音を出す。
しだいにほどよく騒がしかった店内が静まりかえっていく。
ひとしきり指を動かして納得したのか、スタンドマイクの角度を調節して話し出した。
「最愛なる魂に捧げる」
目を伏せてギターを鳴らす。
客席の照明がさらに絞られて、ステージ上だけが光に照らされる店内にギターの音色が流れていく。
やがてジュノさんが歌いはじめた。
ぞわっと全身の肌が総毛立つ。
(何これ……すごいっ)
声量が豊かなわけでもない。特徴的な声でもない。ステージ上で派手なパフォーマンスをしているわけでもない。
それなのに体が震えて止まらない。
(技術とかの問題じゃなくて、歌っている人の心が全部見えるような声。うわ……どうしよう……ぞくぞくする)
声に同調した感情が体の底から浮かび上がって、体を乗っ取ってしまったみたい。
引きずり出された感情が強すぎて、寒気にも似た細かい震えになって体を揺らす。
アレクが俺の様子をちらっと見たけど、特に何も言わなかった。
俺はステージ上のジュノさんに釘付けだった。
いつもの冴えない風貌からは想像もつかない。
ぶっきらぼうな言葉で俺を切り捨ててくれた。いつの間にかダンスの練習を見物に来て、人の傷口に塩を塗るようなことを言った人でもあるのに。
どこにそんな繊細な心を隠していたんだろう。そしてどれだけ深くその人を想い続けているんだろう。
人の心の深さに、恐ろしささえ感じるほどだった。
切ない歌詞とメロディがジュノさんの声を後押しして、気がつくと俺の目から涙が溢れだしていた。
アレクが手を伸ばして、それを拭き取ってくれる。
そちらを見ると目が合ったとたん、何とも言えない表情で笑われた。呆れているのとも違う、優しげででも苦しそうな笑顔だ。
その表情に何か言ってあげたい気がして、でも何と言えばいいのかわからない。
「……恋って……怖いね」
言えたのはそんな言葉だった。
特に何を言うでもなく、もう一度深く笑うとアレクの視線がステージに戻った。
俺も興奮とは違う熱さを抱える胸を手で押さえながら、ジュノさんが歌い終わるまでステージを見つめ続けた。
最後の音を弾いたジュノさんが、余韻が消えると同時に椅子から立ち上がる。
そのとたんに客席から盛大な拍手が上がった。
前列に座る三人の女性たちも例外じゃない。立ち上がってまで拍手を送る女性もいた。
「ジュノが歌う日は、この店は恋人のための夜と銘打って営業しているんだよ。いま恋人がいる客はもちろん、恋人の気分を忘れないために夫婦で通う客もいる。そこの彼女たちのようにまだ見ぬ恋人を思う客も。そして毎回とんでもなく盛り上がるんだ。ただジュノはこの後、朝までとなりの席に話しかけながら飲み続けて酔いつぶれるけれどね」
鳴り止まない拍手に負けないように、顔を近づけてアレクが説明してくれる。
「となり……?」
ステージを下りたジュノさんが向かった先はカウンター席だ。一番端の席を残して、その隣に座る。
空の席には空のグラスが置いてあった。
「天国へ戻った妻の魂が、今夜だけはそこに戻っている。ジュノはそう思っているんだそうだよ」
やがて落ち着きを取り戻した店内に、奇異の目でジュノさんを見る人はいなかった。
ふたりをそっとしておこう、と労わりのこもった視線でジュノさんを見る人ばかりだ。
「あの姿を見ているとね。うらやましいなと思えるよ。死に別れてもお互いを離さない恋。だからこそ通う客が多いんだろうね……だれしもが心のどこかで、それほどまでの恋をしてみたいと少しでも思っているからね」
頷きながら、考えてしまう。
(こんなにだれかひとりのことを想い続けていられるなんて……俺にはわからない)
生まれてはじめて好きになった人には、ただ好きだと伝わればそれでいいと思えた。
その気持ちは伝えることができた今も変わらない。清々しさだけが胸に残っている。
背中を丸めてグラスを揺らすジュノさんの後ろ姿をぼんやり眺めていたら、ふいに頭の片すみに面影が浮かんできた。
好きだと言ってくれた人はいたけれど、俺は同じ想いにはなれないままだ。
(樫部への想いとは違う。でも他の人とも違う気もする……よくわからないけど)
その人のことを思うと、胸の中がもやっとする。こんなことだれかに感じたことなんてなかったのに。
ジュノさんの時間を邪魔しないように、控え目なピアノの演奏がはじまった。
思考がその音色に中断されたところで、アレクが手を差し出した。
「踊っていただけませんか?」
「え……お、俺は男ですけどっ」
「いまさら何を」
くつくつ笑いながら強引に手をひっぱられて、ステージ前のわずかな空間にアレクが俺を連れ出した。
いつものように俺を抱き寄せる。
「僕の肩に頭をつけて」
前列の席にいた女性たちに見られている気がして、アレクの言葉に従って顔を隠した。
今日はダンスをはじめる前に着ていた、大きめのシャツとパンツ姿だから女性のようには見えないはずなんだ。
「……すごく、恥ずかしいよ」
ゆっくり揺れながら、少しずつ足をずらすように踊る。
「これくらいで何を言っているんだい? 明日はもっと多くの人の前で踊るんだよ?」
「……うん」
楽しかった時間と、ジュノさんの歌ですっかり遠ざかっていた現実が、一気に戻ってきた気分だった。
「……もっと僕に体を預けて。リラックスしなさい」
「うん……」
「……そう、上手だよ」
それきり会話は途切れ、大人びたピアノの音色に合わせて踊りながら、お互いの鼓動を感じていた。
「……君は、恋をしたことはないのかい?」
曲が変わったところで、アレクが静かに切り出した。
どう答えるべきか迷い、少し考えてから答えた。
「一度だけ。でも一方的な好意で……手放すための恋みたいな……自己満足の恋だった」
「そう。僕としてはうれしいね」
「……え?」
予想外の切り返しに顔を上げて、アレクの表情を見上げた。
ほのかな明かりの中で、半分陰に隠れたアレクの表情ははっきりとは見えなかった。
「君はまだ本当の恋は知らないってことさ」
「それは……そうかも、しれないけど」
だからってなぜアレクの得になるのか。
照明を背にしたアレクの表情が見えないことが、なぜか気になって仕方がない。
ゆったりと揺れるリズムがもどかしい。
わざと立ち位置を入れ替えてやれないか、と考えながら体を揺らす。
「……僕のことは、好きではない?」
「……え?」
少しずつ回転するように踊るから、ふたりの立ち位置が変わっていく。
アレクの表情が少し見えてくる。
「僕たちは殴り合った仲だろう。君はまだ僕を嫌っているかい?」
「……だとしたら、こんなことしてないよ」
彫りの深い顔立ちに陰を背負いながら、まっすぐに見下ろしてくるアレクの視線は想像していたよりも強くて、見えない手で体を押されたみたいにアレクから体が離れた。
その隙間を許さないとでも言うように、アレクがすぐに体を抱き直す。
「君、すごく顔が赤いよ。もしかして酒に弱い?」
「……ち、違う。平気だから」
答えながらも再び密着した胸の音が、アレクに聞こえてしまわないかと不安になった。
なぜだかアレクの視線に気づいたとたんに、鼓動が強く鳴っていく一方だったんだ。
アレクに指摘された通り、顔が熱くてたぶん赤くなっている。
酒をはじめて飲むからわからないけど、俺はあまり強くないのかもしれない。
「……もしも俺が本当の女性だったなら……たぶんアレクを好きになってたと思うよ」
俯いたまま、もごもごと打ち明ける。
はじめは気に食わない相手だった。
なぜか顔を見るとむしゃくしゃして、素直になれない相手だった。
無理やり一緒に踊ることになって、冗談じゃないと心底思ったけれど。
いつの間にか心が解れて、お互いに距離が縮まっていった。
「……それはいまの僕では望みがない?」
「……ごめん、何だって?」
ちょうどすぐそばの席から歓声が上がって、アレクの声が聞き取れなかった。
聞き返した俺を見下ろした後、アレクは急に屈んで耳にキスをしてきた。
(へっ?)
呆気に取られて立ち止まった俺を、アレクが複雑そうな笑顔で見つめてくる。
「気持ち悪かったかい?」
「……それは、ない、けど……何で?」
アレクが俺の手を引いて客席に戻りながら、肩をすくめた。
「言っただろう。人が人を好きになる。観客だろうと恋人だろうと、人ならば魅了される心は同じ……」
席に戻って俺を座らせた後、両手を握ってアレクが真剣なまなざしで言う。
「君は魅力的だよ、ヒビキ」
また鼓動が変な拍を打った。
(はじめて……名前を呼ばれた気がする。しかもちゃんと呼んでくれた)
アレクにとっては慣れない日本語読みだろうに。だけどそれに動揺している自分が一番よくわからない。
(やっぱり酔っちゃったんだ……)
さっきから顔の熱がぜんぜん引いてくれない。きっとみっともないくらいに赤くなっているだろう。
「……返事をすぐには求めない。君が帰る時まで待つよ。だから……明日僕と踊って下さい」
「…………」
俺は何も言えず、ただ頷いた。
それからお互いに会話はほとんどしないまま、アレクがそろそろ帰ろうかと切り出すまで、ゆったりと奏でられるピアノを聞いていた。
心はずっと上の空で、聞いているようでほとんど聞こえていなかったけど。
家に帰って、お互いの部屋に入る。
ひとりになったとたん、鼓動が爆発したように鳴りだした。
(な、何だったんだ、さっきの……っ!)
頭の中で体を揺らしながら聞いたアレクの声が、何度も何度もリプレイされる。
だけど思考はぜんぜん働かなくて、言われたことの半分も理解できない。
(えっと、恋について話してて……殴り合ったことになって……それで、えっと……)
耳にキスされた時の感触とかすかな音がやけに鮮明に思い出されて、ぼふっと顔の熱が急上昇する。
(ど、どど、どうして、あんなことっ)
ただ数カ月の間だけ、しかも二曲だけのパートナーじゃないか。
終わってしまえばアレクはアレクの、俺は俺の生活に戻っていく。
きっとアレクは立ち直って、動きだすことができる。
俺ももう一度ジュノさんと話し合い、日本に戻るまで有意義に過ごしたいと思っている。
それなのに返事を待つとはどう言うこと、とベッドの上で呆然としたまま、甘く痺れるような胸の痛みを感じていた。
直前はなるべく別のことを考えていた方がいいとロベルトとアレクが口を揃えて言うので、俺は久しぶりにモーチンさんと暮らした部屋に戻り料理を作り置きしておいた。
自分で作ることも久しぶりだったから鼻歌が飛びだすほど楽しんで料理をし、終わってみるとかなりの量が出来ていた。
「……俺は主婦か?」
冷めた料理からテキパキと冷凍していきながら、我ながら家庭的すぎないかと苦笑する。
長年染み付いた習慣が無意識に働いたんだろう。家事を担うようになって以来、わずかな時間を見つけては作り置きを量産してきた。
それが異国に渡ってまで発動するとは。
「ま、いいか。俺はこのために雇われた身だったんだから」
ずいぶんとサボらせてもらったけど、契約違反になってやしないかと今さらながら不安になった。
ロベルトに借りた鍵でモーチンさんの部屋を閉めて、アレクの部屋に戻ったところで出掛ける様子のアレクに鉢合わせした。
「出掛けるの?」
「ちょうどよかった。呼びに行こうとしていたところだったんだよ」
「俺を?」
アレクはシャツの上からグレーのジャケットを羽織った姿で、いいからついておいでと手招きしながら部屋を出る。
慌てて廊下に飛び出した俺を待って、鍵を閉めたアレクと並んで町へくりだした。
雨が降りそうな薄曇りの天気が朝から続いていた空は、ずいぶんと薄暗くなっていた。
まだ夜には遠い時刻。すれ違う人たちの中には、幼い子供たちも多くいる。
「どこに行くの」
半歩先を行くアレクに追いついて、横に並びながら聞いてみた。
「いいところさ」
肩をすくめてそれきりだ。
釈然としないままついて行くと、やがてどこかで見た町並みに辿りついた。
「今晩はここで夕食にしよう」
やがて見たことのある店の前で立ち止まり、アレクが晴れやかな笑顔で店を指差した。
ジュノさんを迎えに来たパブ「にんじん亭」だった。
お酒を飲むには少し早くないかと思いながら、アレクが押し開いた扉から続いて入店してみると、すでに席の半分は埋まっている。
「先にそこの席で座って待っていて」
「え……ちょ、」
俺はまだ成人してない、と言おうとしたけどアレクの方が早かった。
さっさとカウンターへ行ってしまう。
その背中を目で追うと、店内の様子も視界に入って興味を引かれた。
前回来た時は営業を終えた時だったからか、今よりずっと寂しい感じがしていたけれど、今夜は人気もオレンジ色の灯りも多くて、落ち着いた雰囲気ながら活気のある店内だった。
店内の一番奥に小さなステージがあって、小さめのピアノと照明もスタンバイしてある。
カウンター席はステージの横。ステージ前に二列テーブル席が並んでいる。
俺たちが座ったのは壁沿いの列、ステージ近くのテーブル席だ。ステージ側の席よりもわずかに高くなっている。
各テーブルの上にほのかなピーチオレンジ色の光を放つアンティーク調のランプが置かれていて、壁についている照明も抑えた色合いだった。
どこかしっとりと艶めいた雰囲気に落ち着かず、視線を彷徨わせていたら、ステージ前の席にいた女性三人のお客さんたちと目が合った。若い彼女たちハァイと手をひらひらさせてにっこり笑う。
どうしていいのか戸惑う俺の様子に、彼女たちが一斉に笑い声を上げたところでアレクが戻ってきた。
ビールらしき発泡する液体の入ったグラスを両手に持っている。
ひとつを俺の前に置いて、席へ座った。
「ありがとう……でも俺はまだ成人していないんだけど」
「へぇ? 君って本当は何歳なんだい」
「十八」
「それでも日本はまだ未成年なのかい? 驚いたね……こちらでは十分成人している。さ、かたいこと言わず、楽しみなさい。今晩は前夜祭だよ」
「前夜祭?」
答える前にグラスを俺に強引に握らせて、アレクが自分のグラスを持ち上げた。
「泣こうが笑おうが明日がいよいよ最終決戦。悔いのない踊りをしよう。そして今日までたどりついたことに乾杯」
「……うん、乾杯」
グラスを合わせ、中身を一口飲んでみた。
料理酒を除いて人生初の酒だった。
アルコールの弱いものを選んでくれたのか、するりと喉を通り抜けていく。飲みやすくて美味しい。
それからはアレクが適当に選んだ軽食やつまみを食べながら、グラスを傾けて他愛もない話をした。
「君はまだ十八なのかい……うらやましいね」
「アレクはいくつなの」
「……君より数年早くこの世に飛び出しているよ。あぁ、そうか……ちょうど君と同じ頃だったかな。とある大会に出た時さ。ジャンプを飛んで着地も完璧に決まったのに、衣装がね……裏切ってくれたことがある」
「?」
フィッシュフライを指につまんだまま、先端を俺に向けてアレクがじとっと睨みつけてくる。
「想像してごらん。まだ十代の若者は多感な時期だ。ジャンプを成功させてよしっ、と思ったとたんにズボンがパックリ裂けた悲劇を」
笑っちゃいけない。そう思っても口元は震えてしまい、慌てて手で覆って隠した。
「まだ着られるからと前年と同じ衣装を着たのがいけなかったのだね。裂けたのは後ろの方で前ではなかったことが唯一の救いだったよ。曲の終盤だったから、そのまますべりきったけれどね。恥ずかしすぎてその時のことはほとんど覚えていないよ」
「それは……『ご愁傷さまです』」
「ん? それは日本語かい?」
「うん。よくがんばったね、と言うか……災難だったねと言うような意味で」
「なるほど。まさに明日の君にぴったりじゃないかい、そのコトバ」
「確かに」
アレクと目が合って、ふたり同時に声を上げて笑った。
するとピアノの音がポロン、と鳴った。
ステージを見るとだれかが上がって中央へ歩いていくところだった。
「目当ての人が来たよ」
「?」
アレクがにやりと笑いながら小声で囁く。
首を傾げながらステージに視線を戻すと、照明がちょうど当たる場所にその人が立った。
「あっ」
光を浴びながらステージ上の片すみに置いてあった椅子を引き寄せて、腰かけたその人はジュノさんだった。
薄い色のサングラスをかけていて、櫛でといたらしく、いつもよりは落ち着いた髪と洗いたてのシャツ姿で、一瞬だれかと思ったけど。
アコースティックギターを抱えて座ったジュノさんが、弦を適当に弾いて音を出す。
しだいにほどよく騒がしかった店内が静まりかえっていく。
ひとしきり指を動かして納得したのか、スタンドマイクの角度を調節して話し出した。
「最愛なる魂に捧げる」
目を伏せてギターを鳴らす。
客席の照明がさらに絞られて、ステージ上だけが光に照らされる店内にギターの音色が流れていく。
やがてジュノさんが歌いはじめた。
ぞわっと全身の肌が総毛立つ。
(何これ……すごいっ)
声量が豊かなわけでもない。特徴的な声でもない。ステージ上で派手なパフォーマンスをしているわけでもない。
それなのに体が震えて止まらない。
(技術とかの問題じゃなくて、歌っている人の心が全部見えるような声。うわ……どうしよう……ぞくぞくする)
声に同調した感情が体の底から浮かび上がって、体を乗っ取ってしまったみたい。
引きずり出された感情が強すぎて、寒気にも似た細かい震えになって体を揺らす。
アレクが俺の様子をちらっと見たけど、特に何も言わなかった。
俺はステージ上のジュノさんに釘付けだった。
いつもの冴えない風貌からは想像もつかない。
ぶっきらぼうな言葉で俺を切り捨ててくれた。いつの間にかダンスの練習を見物に来て、人の傷口に塩を塗るようなことを言った人でもあるのに。
どこにそんな繊細な心を隠していたんだろう。そしてどれだけ深くその人を想い続けているんだろう。
人の心の深さに、恐ろしささえ感じるほどだった。
切ない歌詞とメロディがジュノさんの声を後押しして、気がつくと俺の目から涙が溢れだしていた。
アレクが手を伸ばして、それを拭き取ってくれる。
そちらを見ると目が合ったとたん、何とも言えない表情で笑われた。呆れているのとも違う、優しげででも苦しそうな笑顔だ。
その表情に何か言ってあげたい気がして、でも何と言えばいいのかわからない。
「……恋って……怖いね」
言えたのはそんな言葉だった。
特に何を言うでもなく、もう一度深く笑うとアレクの視線がステージに戻った。
俺も興奮とは違う熱さを抱える胸を手で押さえながら、ジュノさんが歌い終わるまでステージを見つめ続けた。
最後の音を弾いたジュノさんが、余韻が消えると同時に椅子から立ち上がる。
そのとたんに客席から盛大な拍手が上がった。
前列に座る三人の女性たちも例外じゃない。立ち上がってまで拍手を送る女性もいた。
「ジュノが歌う日は、この店は恋人のための夜と銘打って営業しているんだよ。いま恋人がいる客はもちろん、恋人の気分を忘れないために夫婦で通う客もいる。そこの彼女たちのようにまだ見ぬ恋人を思う客も。そして毎回とんでもなく盛り上がるんだ。ただジュノはこの後、朝までとなりの席に話しかけながら飲み続けて酔いつぶれるけれどね」
鳴り止まない拍手に負けないように、顔を近づけてアレクが説明してくれる。
「となり……?」
ステージを下りたジュノさんが向かった先はカウンター席だ。一番端の席を残して、その隣に座る。
空の席には空のグラスが置いてあった。
「天国へ戻った妻の魂が、今夜だけはそこに戻っている。ジュノはそう思っているんだそうだよ」
やがて落ち着きを取り戻した店内に、奇異の目でジュノさんを見る人はいなかった。
ふたりをそっとしておこう、と労わりのこもった視線でジュノさんを見る人ばかりだ。
「あの姿を見ているとね。うらやましいなと思えるよ。死に別れてもお互いを離さない恋。だからこそ通う客が多いんだろうね……だれしもが心のどこかで、それほどまでの恋をしてみたいと少しでも思っているからね」
頷きながら、考えてしまう。
(こんなにだれかひとりのことを想い続けていられるなんて……俺にはわからない)
生まれてはじめて好きになった人には、ただ好きだと伝わればそれでいいと思えた。
その気持ちは伝えることができた今も変わらない。清々しさだけが胸に残っている。
背中を丸めてグラスを揺らすジュノさんの後ろ姿をぼんやり眺めていたら、ふいに頭の片すみに面影が浮かんできた。
好きだと言ってくれた人はいたけれど、俺は同じ想いにはなれないままだ。
(樫部への想いとは違う。でも他の人とも違う気もする……よくわからないけど)
その人のことを思うと、胸の中がもやっとする。こんなことだれかに感じたことなんてなかったのに。
ジュノさんの時間を邪魔しないように、控え目なピアノの演奏がはじまった。
思考がその音色に中断されたところで、アレクが手を差し出した。
「踊っていただけませんか?」
「え……お、俺は男ですけどっ」
「いまさら何を」
くつくつ笑いながら強引に手をひっぱられて、ステージ前のわずかな空間にアレクが俺を連れ出した。
いつものように俺を抱き寄せる。
「僕の肩に頭をつけて」
前列の席にいた女性たちに見られている気がして、アレクの言葉に従って顔を隠した。
今日はダンスをはじめる前に着ていた、大きめのシャツとパンツ姿だから女性のようには見えないはずなんだ。
「……すごく、恥ずかしいよ」
ゆっくり揺れながら、少しずつ足をずらすように踊る。
「これくらいで何を言っているんだい? 明日はもっと多くの人の前で踊るんだよ?」
「……うん」
楽しかった時間と、ジュノさんの歌ですっかり遠ざかっていた現実が、一気に戻ってきた気分だった。
「……もっと僕に体を預けて。リラックスしなさい」
「うん……」
「……そう、上手だよ」
それきり会話は途切れ、大人びたピアノの音色に合わせて踊りながら、お互いの鼓動を感じていた。
「……君は、恋をしたことはないのかい?」
曲が変わったところで、アレクが静かに切り出した。
どう答えるべきか迷い、少し考えてから答えた。
「一度だけ。でも一方的な好意で……手放すための恋みたいな……自己満足の恋だった」
「そう。僕としてはうれしいね」
「……え?」
予想外の切り返しに顔を上げて、アレクの表情を見上げた。
ほのかな明かりの中で、半分陰に隠れたアレクの表情ははっきりとは見えなかった。
「君はまだ本当の恋は知らないってことさ」
「それは……そうかも、しれないけど」
だからってなぜアレクの得になるのか。
照明を背にしたアレクの表情が見えないことが、なぜか気になって仕方がない。
ゆったりと揺れるリズムがもどかしい。
わざと立ち位置を入れ替えてやれないか、と考えながら体を揺らす。
「……僕のことは、好きではない?」
「……え?」
少しずつ回転するように踊るから、ふたりの立ち位置が変わっていく。
アレクの表情が少し見えてくる。
「僕たちは殴り合った仲だろう。君はまだ僕を嫌っているかい?」
「……だとしたら、こんなことしてないよ」
彫りの深い顔立ちに陰を背負いながら、まっすぐに見下ろしてくるアレクの視線は想像していたよりも強くて、見えない手で体を押されたみたいにアレクから体が離れた。
その隙間を許さないとでも言うように、アレクがすぐに体を抱き直す。
「君、すごく顔が赤いよ。もしかして酒に弱い?」
「……ち、違う。平気だから」
答えながらも再び密着した胸の音が、アレクに聞こえてしまわないかと不安になった。
なぜだかアレクの視線に気づいたとたんに、鼓動が強く鳴っていく一方だったんだ。
アレクに指摘された通り、顔が熱くてたぶん赤くなっている。
酒をはじめて飲むからわからないけど、俺はあまり強くないのかもしれない。
「……もしも俺が本当の女性だったなら……たぶんアレクを好きになってたと思うよ」
俯いたまま、もごもごと打ち明ける。
はじめは気に食わない相手だった。
なぜか顔を見るとむしゃくしゃして、素直になれない相手だった。
無理やり一緒に踊ることになって、冗談じゃないと心底思ったけれど。
いつの間にか心が解れて、お互いに距離が縮まっていった。
「……それはいまの僕では望みがない?」
「……ごめん、何だって?」
ちょうどすぐそばの席から歓声が上がって、アレクの声が聞き取れなかった。
聞き返した俺を見下ろした後、アレクは急に屈んで耳にキスをしてきた。
(へっ?)
呆気に取られて立ち止まった俺を、アレクが複雑そうな笑顔で見つめてくる。
「気持ち悪かったかい?」
「……それは、ない、けど……何で?」
アレクが俺の手を引いて客席に戻りながら、肩をすくめた。
「言っただろう。人が人を好きになる。観客だろうと恋人だろうと、人ならば魅了される心は同じ……」
席に戻って俺を座らせた後、両手を握ってアレクが真剣なまなざしで言う。
「君は魅力的だよ、ヒビキ」
また鼓動が変な拍を打った。
(はじめて……名前を呼ばれた気がする。しかもちゃんと呼んでくれた)
アレクにとっては慣れない日本語読みだろうに。だけどそれに動揺している自分が一番よくわからない。
(やっぱり酔っちゃったんだ……)
さっきから顔の熱がぜんぜん引いてくれない。きっとみっともないくらいに赤くなっているだろう。
「……返事をすぐには求めない。君が帰る時まで待つよ。だから……明日僕と踊って下さい」
「…………」
俺は何も言えず、ただ頷いた。
それからお互いに会話はほとんどしないまま、アレクがそろそろ帰ろうかと切り出すまで、ゆったりと奏でられるピアノを聞いていた。
心はずっと上の空で、聞いているようでほとんど聞こえていなかったけど。
家に帰って、お互いの部屋に入る。
ひとりになったとたん、鼓動が爆発したように鳴りだした。
(な、何だったんだ、さっきの……っ!)
頭の中で体を揺らしながら聞いたアレクの声が、何度も何度もリプレイされる。
だけど思考はぜんぜん働かなくて、言われたことの半分も理解できない。
(えっと、恋について話してて……殴り合ったことになって……それで、えっと……)
耳にキスされた時の感触とかすかな音がやけに鮮明に思い出されて、ぼふっと顔の熱が急上昇する。
(ど、どど、どうして、あんなことっ)
ただ数カ月の間だけ、しかも二曲だけのパートナーじゃないか。
終わってしまえばアレクはアレクの、俺は俺の生活に戻っていく。
きっとアレクは立ち直って、動きだすことができる。
俺ももう一度ジュノさんと話し合い、日本に戻るまで有意義に過ごしたいと思っている。
それなのに返事を待つとはどう言うこと、とベッドの上で呆然としたまま、甘く痺れるような胸の痛みを感じていた。
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