黒恵の感覚

焼魚圭

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黒恵の認識編

人形

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 見えている世界は人によって異なる。例えば石、ただのピンクがかったオレンジ色の石にしか見えないが人によってはサーモンのようだと思うかも知れない、黒恵の小学生時代の話だった。それに対して知識がある人物であればもしかするとどのようにして出来上がった石なのか、そうした想像を巡らせる人物もいるかも知れない。
 もっと分かりやすく手短な例を挙げるなら、梅と桜と桃。見分け方や時期の分からない人物であればどれも同じように映るものとしては有名なほどに似ている。言われなければ勘違いを抱いたままにひとつの種を語るのみかも知れない。しかし、違いが分かる人物であればどうだろう。花弁の数や形、枝についた萼の数や伸び方にめしべ。知っていることで見方が変わるそのさまはまさにだまし絵のよう。

 それこそ、身近な認識のズレが産んだ幻覚とも言えるのではないだろうか。

 黒恵はそんな認識のズレによる幻覚を見ていた。
 これはそんな事実に気が付くまでのひとつの話。


  ☆


 景色にかかる熱波は季節外れが重ねられて黒恵の肌に付き纏う。流れる汗が衣服をつかんで放さない。張り付いた服は肌に湿り気と共に嫌悪感を浸透させて来る。
 実に厄介、そう思いながら目の前にて繰り広げられる生の人間ドラマに鬱陶しさを感じていた。
 そこにいるのは若い男女。とはいえ黒恵より幾つ年上なのだろう。社会の経験があれば世間を知っていれば会話の隅から聞こえる会社関係の単語と思しき音から推測できるのかも知れないが、あいにく高校生の身分。
 そのような常識の認識の素材を持ってなどいなかった。
 気温よりも暑く熱く景色よりも厚い色、そこにいい気はしない。それが黒恵の想いだった。
 歩いても歩いても、自分の前を歩き続けるその姿は邪魔者以外の何者とも現しがたい。
 場を選びもしないまま本音をぶつけ合う彼らにはいなくなって欲しいのが本音、黒恵の音色はひたすら苦痛を奏で続けていた。
――惨め
 心の中で言葉になった感情はただひと言。彼らの声に鬱陶しさを感じるあまり、言葉よりも感情が先に出て来てしまう有り様だった。
 喧嘩、吠え合い、そのようなものどこかの誰かの敷地内で交わし合えばいいのだ。
 どうにか想いを心に仕舞って進み続ける。
 いつもの街路樹の導きと惰性の重奏に従う道のりから外れてどこかへと向かう。セメントやコンクリートで固められた壁に貼り付けられた小さなプレートに塗り付けられた番地を確認して進む。目印は犬の置物だと言われたものの、そこまでたどり着くまでにも苦労がひとつ二つ三つに四つ。今にも顔にシワが刻まれてしまいそうだった。
 教師の手によって託された紙、宿題。しばらく休みをいただいているという女の、同級生の手に渡すために黒恵を使っているのだという。
――郵便みたいなことやってんの、料金寄越せ、なあんて
 確実に受け入れられない、完全にボランティア。仲間のためだという言葉が正義だと主張している教師。そうした言葉で糸を引くことが当然。信仰は時に人の想いをも踏みにじる。
――あの教師本人が持ってけばいいって御話だい
 黒恵には教員という職業が如何に忙しくて賃金でさえも割に合わない少なさなのか、分かっていなかった。彼らの振る舞いを見ているとどうしても金持ちに見えてしまうのだ。
 そんな認識のズレがより一層大きな不満を呼び起こしていく。
 しかしそんな想いは心の懐に仕舞っておいて、角を曲がる。黒恵が比較的近くに住んでいる、そう語る男の面を殴りつけたい衝動に駆られたものの、表には出さない。叫んでしまえばそれこそ身勝手な教員や先ほどの喧嘩に夢中になり霧中の関係と成り果てた彼らと変わりない。
 再び角を曲がり、家が建ち並ぶだけの風景を見つめ続ける。番地は正確だろうか、そもそも目的地の市内なのだろうか。分からない知らない。
 黒恵としては屋根の色を市や番地に応じて分けて欲しい程だった。そこまでのストレスを注ぎ込まれていた。
 やがて犬の置物が目に入ってきたのを確認して安心感を得る。
 そのまま敷地に入り込み、呼び鈴を鳴らす。静寂に優しい電子音が心地よく響いて一瞬。その程度の時間でふたりの少女が出て来た。
「ああ、白黒さん持ってきてくれたのね」
 ひとりは目的の人物でもうひとりは遊びにでも来ているのだろうか。セーラー服を身につけている以上、その人物は異なる学校に通っている。分かることはそれだけだった。
 目的の人物は黒恵のことを再び白黒さんと呼ぶ。白水黒恵、確かに白黒だった。
「そろそろごはんだから、一緒に上がってどうぞ」
 つまるところ、今日の夕飯は報酬の代わり。黒恵にとっては大好きなこと。これまでの黒々とした想いや脳内に蔓延る不快感は綺麗さっぱり消え去っていた。
「お言葉に甘えて、だね」
 きっと黒恵の心を充たすものはいつでもこれだろう。食以上の娯楽を彼女は知らなかった。
 そんな黒恵を家にあげて、少女は告げる。
「最近お母さん、寝たきりだから話してあげるの」
 目の前の少女は健康そのものにしか見えない。休んでいる理由など知らなかったものの、もしかすると母の容態が悪化しているがために看病しているのかも知れない。
 だとしたら、そう思うだけで今までの黒恵自身の考えが申し訳なく見えてきた。あまりにも冷たくて酷い。教師自身にも用事があったのかも知れないのだから部活さえ休んでしまえば暇という時間にぶら下がるだけの黒恵が持って行くことが当たり前だと定めて見つめて間違いは無いだろう。
 少女が愛している母の顔を一度その目に収めよう。彼女の看病をしっかりと見届けて大変さを心に刻みつけよう。
 考えを巡らせながらドアの向こうへと足を踏み入れて、靴を脱ぐ。
 玄関にはミントの香りが漂っていて、そのまま廊下へと導かれる。少女が案内するままに従って歩みを進めてその先に待ち受けていた光景に目を見開いた。
 そこに、食卓に座っていたのは彼女の母の姿だっただろうか、否、それは。
――マネキンなんか置いて、どういたしたものか
 無機質な固さを持つ身体、触れればきっとつるつると滑るような滑らかさを持っているだろう。瞳から弾かれたような光沢は、瞳に入り馴染んでいく質感は、人と呼ぶにはあまりにも生気が足りない。
「こちらが母よ、よろしく」
 黒恵に告げながら、マネキンに向けて丁寧な口調で言って聞かせる。
「同じクラスの黒恵ちゃんが来てくれたの、笑ってあげて」
 黒恵には表情のひとつも読み取れない、それもそのはず、マネキンなどに意思が宿るはずもなかったのだから。
「よかった、お母さん喜んでるって」
「そっか、それは良かった」
 言葉と共に送る乾いた笑顔は愛想笑いというものだろうか。これが黒恵の表情の偽装なのだろう。
 マネキンにひたすら話しかける少女の姿は不気味だったものの、あまりにも可哀想に思えていた。
 きっと母を亡くした為に深く傷付いて未だに立ち直ることが出来ないのだろう。
 このまま平穏の蓋を被せてやり過ごそう。誓いを立てていた。こればかりは黒恵の手に負えることではなかった。あまりにも重たくて見ていられない事実が大きな山を思わせる姿で立ちはだかっていたのだから。
 やがて夕飯のスープをマネキンに流し込む。
「どう、美味しいかな、良かった」
 その微笑みはあまりにも純粋で、何処までも不気味だった。事実に気が付いた時、どのような表情をしてしまうのだろう。彼女は何を考えながら今の幻覚へとたどり着いてしまったものだろうか。
「美味しいって言ってくれて嬉しいよ」
 ベーコンとレタスの醤油炒め、それもまたマネキンへと放り込まれる。
 そんな恐怖の姿と向き合いながら黒恵は箸を持ち、出されたみそ汁を啜る。
「確かに美味しい、お店出せるんじゃないかい」
 お世辞に聞こえてしまいかねない言葉をこの場所に向けて綴る。
 少女はみそ汁を流し込み、笑顔を見せて。
 どこまでも儚くて優しい笑顔。
 その影に隠れた違和感を上手く読み解くことが出来なかった。いつもならきっとすぐに気が付いただろう、そんな気持ちに揺られていながらも気が付かないという事実と向き合っていた。
――私でも気が付くはずって本気でそうお思いかい
 訊ねてみる。誰にともなくどうともなくただ自分の中で空回りする疑問と心情。噛み合わない、どこか噛み合わない。
「白黒が来てくれて嬉しいってさ」
 少女が呟く。隣に立つ女は声もなく黒恵に視線を向けるのみ。その目は睨み付けるように鋭くて居場所を奪われた憎悪に似たものを感じさせた。
――そう言えば、そこのは何も喋ってないね
 自ら声を掛けることは果たして正解だろうか。そうとは思えず動くことすら叶わない。向こうから差し込んでくる視線の色は何処までも煮えたぎる冷たさを持っていた。メラメラと燃え上がる氷結、そう言い表したくなるような気配にたじろぐ。
 きっとあの女は黒恵の事を敵視しているのだろう。痛くて鋭くて、そんな空気を吸い込んだ肺にチクチクと刺さっては嫌な心地を与えられ続ける。
 そんな彼女のことなど放っておくこととして、視線を少女に移す。その少女を映す目が捉えた姿、少女が冷蔵庫からガラスの容器に入った牛乳寒天を取り出して先ほどと同じように、過去に倣ってマネキンに飲み込ませる行動。その中でようやく違和感の正体を見破った。

 果たして、マネキンに口などあるだろうか。あったとして、中はひとつの素材で埋められている。
 にもかかわらず、そこに食材がこぼれ落ちた様子など無かったのだ。

 途端に黒恵は右目に意識を集中させる。もしかすると真実は人とは異なるところに意図せず隠されているのかも知れない。
 本人ですら気が付かない意識の裏に。
 その右目、死の目が正直に捉えた景色に思わず足が竦んでしまった。口が開いて塞がらない。気が付いてしまえばどう足掻いてもそこにはいられない。
 辺り一面に散らかされて腐り果てた料理の成れの果て、辺りに充満したにおいは入り口で嗅ぎ取ったミントからはあまりにもかけ離れた腐臭。
 マネキンだと思っていたそれは、骨によって形作られたヒトのカタチ。
「お母さま」
 黒恵が告げるとともに女は鋭い声を差し込んだ。
「何言ってるの、この子はお姉ちゃんでしょう」
 あの女は何を言っているのだろう。
 少女は薄らと暗い空間に滲む笑いを浮かべる。
「違うよ……だよ」
 聞き取ることが出来ない。なぜだろう、どうしてだろう。それは人の喉が発して良い音の領域を超えていた。
 少女のしっとりとした笑顔と落ち着いた声、そして認識すら出来ない単語。その全てが薄気味悪く思えて仕方がなかった。
 黒恵を案内する時には母と言っていたはず。少女の隣に立つ女にはそのまま姉と聞こえていたのだろうか。
 震えが止まらない。身体は心なしか後ろを向きたがっているように思えた。
「そっか、看病しっかりとね、お大事に」
 声はこの上なく震えていて、怪しさ全開。しかし、誰も気が付いていないのだろうか。少女は微笑んで控えめな仕草で手を振る。
「うん、じゃあね」
 家を後にして、一度外の空気を思い切り吸い込む。そこに居座る花を見て、ピンク色の花を心にも咲かせようと意識しつつも出来ないまま。
 ツツジの花、どこまでも愛おしく思えてしかしながら今はどこまでも恐ろしく思えた。

 自身が今ここで見ている世界、それさえ疑わしく思えていた。この目に映るものがホンモノだという保証などどこにも無くて、何がニセモノなのかそれさえ分からない。
 日頃から見ている景色のひとつひとつ、それさえもが自らの認識が生み出した幻なのでは無いだろうか。
 そんな疑いを震える指で包み、再び歩き出した。
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