黒恵の感覚

焼魚圭

文字の大きさ
上 下
5 / 12
黒恵の感覚編

異形の話

しおりを挟む
 朝日はかつて闇に閉ざされてふさぎ込んでいた空に表情の色を与えていた。爽やかな笑顔は、黒恵の寝不足の貌をますます鮮明に映していた。

――昨日は悪夢だった

 思い返すだけでも胸の底から湧き出る黒々とした闇のような忌々しい想いと形なき腕で魂をつかみ取る感触。ひんやりとした爽やかな空に溶かすのはあまりにも似合わない感情だった。

――あの子の魔女の部分だけ選び死を与えたけど、魔法使いのセカイじゃ生きて行けないかも知れないんじゃないかい

 あの少女、〈森の魔女〉雲仙 柚希は間違いなく魔法使いとして知られているだろう。彼女はこれから毎日のように追いかけられ、魔女のチカラも持たずただ逃げ惑って死する時まで安息は得られないだろう。

 怯え震え、既に決まり切った悲劇の結末が近づいて来るのを絶え間なくついて来る恐怖と共に待つことしか出来ない無力で哀れな少女。

 この世で最も強くて単純な最後の悲劇が首元に刃を当てるその時まで、ひたすら悲劇の役者と成り果て続ける。

――自分は必ず幸せになれる、誰を蹴落とし貶めても許されるなんて思うものじゃあないね

 青空はあまりにも優しすぎて、思い返すことを阻むこともなくただ見守るだけ。黒恵の想いはそこで切られることもなく、こう続けられた。


――この世界には、主役も脇役もない。分かり切った話だい


 互いに自分が主人公だと思い込む男子高校生たちを通り過ぎる際に一瞥し、歩き続ける。みんな揃って同じ風景を見ているのだろうか、見ている物の形は同じでも、色も質感も光の当たり方まで同じように見えていたとしてもそこに在る風景や物は同じなのだろうか。

 立派なドレスが飾られた店のガラス張りの壁に映る自身を目の端で捉える。歩き背景を流しながらもずっとついて来る自分自身の像、所詮は鏡映しの観測点でしかなかった。先ほどの男子高校生たちにとってはただの風景だったとしても、黒恵にとっては自分も人も、全てが馴染む世界に思えていた。

 この美しい世界の中に黒恵本人をも溶かし込むことで、薄暗い結末の考えを無理やり心の奥に押し込んで進み続けていた。

――今日は良い夢見られると良い、それだけ考えればいいんじゃないかい

 誰が何を思おうとも、誰が何事に何を想おうとも、時間は構うことなく進み続ける。人々は時間に依存し続け、振り回されて、疲れても尚それを軸にしてしがみつき引きずられながらどうにか歩んでいる。

 例え睡眠不足と能力の使用による疲れが溜まっていたとしても世界は個人の都合まで見てなどいない。

 疲れた身体を引き摺り学校へ、心だけは這いずるような想いをしつつ普通に歩いて校舎の口に吸い込まれて行く。周りには同じ色、揃いに揃った形をした服を着て、敢えて言うなればズボンとスカートの違い程度、見栄えだけは統一された人々によって作られた流れに沿って、それぞれの居場所で分岐して、定められた座席に腰かけた。

 黒恵は妙な配置をした机を見つめる。不規則を嫌う公的な場に一夜にして築き上げられたもの。昨夜の戦いの爪跡。あの戦いの後で教室を元に戻す気力や体力など残されてはいなかった。寧ろ残っているのならばどれだけありがたかっただろう、どれだけおめでたい相手だったのだろう。

 黒恵は座席に傷のひとつも大きなズレもありはしないことだけを確認し、ひとりこそりと微笑んだ。

――意識した甲斐があったってもんだい

 周囲の生徒たちが机の散乱具合いや椅子の脚の曲がりを見て叫ぶさまを窺いながら現行で走り続ける感情を抑え隠し通して眠気と戦い続けていた。

 それからチャイムが響いても尚落ち着きのない周囲がざわめき続ける様を教師が𠮟りつけているという状況の中で黒恵はとうとう眠気を抑えきれずに浅い眠りへと落ちて行く。

 頭は揺れて、感覚が気持ち悪くて。心の抵抗は空しく撥ね退けられて脳は眠れと言っていた。抗おうにも敵わない脅威、眠気が今の黒恵にとっての脅威となる理由など、外側にしかなかった。

「おい白水寝てんじゃねえ!」

 必要以上の怒号に静かな心は跳ね上がり、身体が一瞬激しく震えあがる。

「人が怒ってる時に居眠りかますなんざいい度胸してやがんな」

 見るからに不健康な生活を送っていることが見て取れる男性教師が顔をしわくちゃにして怒鳴り散らす姿は目覚めの景色として最悪だった。自身の身体はおろか行動すら見えていないのだろうか。不快で不潔の塊、ストレスの捌け口は発散した分を正直に身体に溜め込んでいたようだった。それでも出しきれない分を吐き散らす様はまさに無様。

――紅也には絶対ああなって欲しくない、あんなの醜さの塊じゃないかい

 生意気な子どものような顔立ちをした弟、どこか可愛らしく思える身内を想い、影ながら願いを注ぎ込む黒恵には教師の怒りの声など届いていなかった。

 ただの寝起きよりも考え込む人物の方が教師の目への映りは良くとも余程タチが悪いということを勝手に実感していた。

 それからどのように時間が過ぎて行ったのだろう。眠気と嫌悪感に挟まれていた黒恵には全てがどうでもよくなっていた。この空間に対する関心など初めから持ち合わせがなかった。

 ホームルームの時間を通り越して始まった授業も教師の話も、全てノートに書き留めて上辺だけの真面目さを塗り付ける。理解も努力も全てはテスト前の自分自身へと押し付けたのだった。

 真面目を演じることに失敗してうっかり眠ってしまい怒られつつ、授業の時間を生きてくぐり、待ちに待った昼休み。黒恵は風になるつもりで脚を素早く動かし駆け出した。過ぎ去る景色、共に流れて後ろへと去って行く人々。知らない、通り過ぎるだけのもの。見えていても視ていない。そんな状態で駆け抜けて風を切って、たどり着いたのは黒恵のオアシス。

――さて、今日はどれ頼もうか

 昼ごはんこそが最大の楽しみだった。

――今日はどうしようか、そうだね

 券売機に金を突っ込んで食券の発券ボタンに向けて指を伸ばした。今日の昼ごはんは、本日選ばれたそれは、世間では朝の定番として扱われているものだった。

――焼き鮭定食

 みそ汁とサラダ、ごはんのお供に納豆付き。黒恵にとっては百点満点の定食だった。

 食券を手に、調理担当の職員へと歩き寄る。

「お願いします!」

 食券を手渡す。言葉と軽いお辞儀を添えて、至高の時を、至福の感情の到来を待ち続けていた。

 すぐさま出て来たそれを見つめて得られた感情、それは早くも食べたい、今にも手が伸びそう、といったもの、黒恵にとっては想像通りにして回避不可能なものだった。分かっていても抑えることの出来ない欲に従って席に着き、箸に手を着けそうになるのを必死にこらえてまずは手を合わせた。

「いただきます」

 それはまさに決まりきった言葉、そこから端を手にしてサラダを口にする。野菜を噛み締める食感と、少しばかり青い香りを漂わせる葉とイタリアンドレッシングの爽やかな酸味が黒恵の心を落ち着かせながら沸き立たせるという不思議な味の音色を奏でていた。

 その味に対する感想は単純なものだった。簡単な言葉以外必要なかった。

「おいしい」

 下手に飾られた言葉など嘘になってしまう。飾りすぎたもの、纏めすぎたもの、そう言った解説は画面に度々映る人々の仕事。黒恵の感覚はただ正直でよかった。

 みそ汁を啜って赤みそのしょっぱさに身を浸して、納豆をかき混ぜる。先に混ぜてタレやしょうゆを、わざわざ言葉を重ねて説明する後輩が中学時代にいたのを思い出していた。巡る記憶の中では「分かってるけど面倒だい」という黒恵の言葉に対して「混ぜてから入れた方が美味しいから」と声を強めて返す後輩がいた。これもまた感覚や考え方の差なのだろう。

 相手は聞く耳を持つこともない自身の意見が全てと宣うタイプで手間も惜しまないという人物。黒恵は基本的に軽い手間のひとつでも面倒だと思えば常用はしない人物だった。

 しょうゆを注ぎ、緩い手ごたえに微笑みながらかき混ぜて行く。

 黒恵にとっては少しの味わいのために固くて重い粘りの糸との戦いや二度のかき混ぜの手間を毎日背負うことなど苦痛だった。また、人の話に対して同じことを繰り返して上から塗り付ける考え方も人柄が合わないと感じていた。それなりに親しく接している人物ひとりとってみても表層より奥に潜ってしまえば大して合わないということ。同じ人間でもここまで考えや感覚が違うのだ。別の種族、普通のヒトとは異なる『魔女』とは更に感覚が異なっていたのだろう。

 せっかくの食事時間を大切に、他の思考を投げ捨てて納豆を口へと運んで白米と共に噛み締めた。いつでも安心感を得られる白米の味に香り豊かな大豆としょうゆが織り成す美しい味模様、それを心ゆくまで堪能しながら鮭の塩焼きに箸を伸ばす。身をほぐし、表面の焦げ付いただいだい色と内側の桃色がかった身をつまんで味わい始める。塩の味がそこそこに乗った鮭の独特な味がとても美しくて、思わずため息が出てしまった。

――満足できた、今日は鮭で正解だったみたいだい

 その食事は、黒恵を落ち着きと安らぎの海へと誘っていた。抗おうという気持ちすら失せるほどに魅惑的な手が黒恵を招いていた。

――いつまでも授業が始まらなけりゃあいいんだけど

 しかし、授業を乗り越えなければ次の時間にまでたどり着くことも出来ない。どれほど言い訳や強く見えるだけの姿勢で訴えたところでそれは変えられないことだった。


 黒恵は存在が少しばかり普通の人と異なるだけの一般人だった。


 儚い食事時間を終えて、食器を返し、教室へと戻って行く。廊下では戦いに飢えてじゃれ合うように殴り合う男子生徒がいた。少しばかり目に痛い光景だった。

――はあ、ジャマなんだい!

 しかし、何を想おうとも言葉にしようとも無駄。いつまでも子どものような無邪気な男たちの横を通り過ぎていく。窓に映る景色をゆっくりと流して、男子たちの楽しそうな悲鳴を耳にして、不快感を胸に仕舞い込んで素早く教室へと戻って行った。

 ドアをくぐったそこで目にした光景は、男子たちの下らない戯れだった。筆箱を奪われて「返せ返せ」と訴えながら駆けるひとりと筆箱を投げながら決して渡さないようにと笑いながら回し合う四人。

――小学生かい

 不愉快な笑い声は耳を叩き続けていた。耳を裂くような下品な感情を含んだ笑い声とそれを発する口。感情の発生源のひとつである目もまたどことなく気味の悪さを感じていた。

――人として当然のことも解らないのかい、本能に身を任せるだけの猿め、いや、猿以下のヒトめ

 弱い者へ寄ってたかって貶めるだけの人という存在としての恥を死の右眼で睨みつけていた。顰めた顔は周囲にどう見えたのだろう。女子のひとりがスカートを揺らしながら歩み寄ってきた。

「大丈夫? 具合悪いなら保健室に」

 言葉をそこで切る。黒恵の表情が少女の心配を途切れさせていた。

「安心しな、私は普通だい。保健室に送りたいのが目の前に四人いるだけさ」

 女子が貌を曇らせたその時、チャイムが関りそのものを断ち切った。機嫌の悪さを抱きつつ迎えた退屈な授業。

 それは感情の波を抑えるためにはちょうどよい時間となったのだった。機嫌の冷却時間。授業の扱いがここまで酷いのは黒恵くらいのものだろう。

 そうして消え去った時間は戻ってくることもなく過去という世界の歩んだ時間のわだちの中に埋められてしまうのだろう。

 授業も掃除も帰りの挨拶も、全てが惰性で進められて全員鞄を手に立ち上がる。帰る者、部活へ向かう者、それぞれだった。黒恵の足は既に進み始めていた。家へと向かって歩み続けていた。

 朝とは逆流する景色は色を変えて出迎えていた。まだ明るくはありつつもどこか寂しく感じられる景色。そうした見え方も黒恵だけのものなのだろうか。同じ感情も異なる色彩で塗られたものなのだろうか。

 歩き続けて見えてきた歩道橋、そこから視線が注がれているのを目にした。視線同士は、交わってしまった。歩道橋の真ん中に立つ男、それは視える限りは普通の男のはず。しかし、どこかに、全てに、違和感の色を視ていた。

 男は黒恵を見つめながら手招きをしている。人の感情の色を持って呼んでいた。そこで違和感が消え去っていることにようやく気が付いた。


 先ほど黒恵に伝わっていたものは、ヒトの感情などではなかったのだ。


 しかしながら、感情という名を否定するにはあまりにも意識の色合いが強すぎたのだった。黒恵は立ち止まる。歩道橋を渡って会いに行くかどうか。確実に相手は黒恵に接触しようと思っているようで、魔法というモノを知る者に触れようとする存在に対しては素性が知れない以上、関わることが安全策と言えた。黒恵の感情など、何ひとつお構いなしだった。

 不審な人物、それはスーツを纏って髪を上げた人物。あまりにも普通過ぎる恰好をして普通でない目線。黒恵にとっては凄い魔法が扱える人物よりもよほど恐ろしかった。

 階段を上り、男の立つその場へと近づいて行って、向かい合う。

「訪れたな、白水 黒恵」

「フルネーム、やめてくれないかい? 気持ち悪く感じる」

「そうか、それは知らなかったすまない」

 男の言葉を聞いて黒恵はここでも感覚の違いに直面していた。

「俺はζ △z 禾と呼ばれしモノ」

 何を言っているのか聞き取れない部分、知っている発音に妙な雑音のようなものが織り交ぜられている部分、口は確かに動いているにもかかわらず声が聞こえない部分、色々あるものの黒恵は最大の問題に表情を曇らせていた。そもそもどう呼ぶのが正しいのか、ヒトの口で発音できるものなのか、分からなかった。というより言葉に出来る気がしなかった。

「私には解読不能だい。あなたって呼ばせてもらおうかな」

 男は頷いて、言葉を練り上げ始めた。

「そうだろうな、ヒトの聴覚でどう聞こえているのか分からないが、聞こえ方によって別の名にも感じられる物だろう」

 異邦の者ひとり取ってみても名前の聞き取りに差の出る生物、そう引きずり降ろされた言葉は黒恵に脳天を撃たれたような感覚をもたらした。彼の口ぶりからするとヒトですらないのかも知れなかった。

 そんな進みも理解も苦しみに充ちた手間のかかる関りの中、急に二羽のカラスが男へと襲いかかって来た。それは勢いよく迫り、男の方へ、突き進み、途中で動きを止めた。空中で急に何かにぶつかったように首を曲げる姿は窓ガラスにぶつかる鳩を思わせた。

「次元の違いでこの世界のモノには姿が捉えられない。故に相手が認識できる姿に見える波長を出していたがカラスには美味しそうにでも見えたのかも知れないな」

 その後、カラスの身体は頭から少しずつ見えなくなり、初めからいなかったかのような様を示した。

「安心しろ、過去からの進路をずらしただけだ。先ほどのようなことは起こらない」

「先ほど? 何かあったのかい?」

 黒恵の問い、先ほどのカラスの件など初めからなかったような振る舞い、そこまで味わってζ △z 禾は初めて理解した。

「そうか、過去を変えては人の記憶からも消えてしまう、いや、そもそもなかったことになってしまうのか」

 黒恵には男の言うことが理解できなかった。ヒトの聴覚ではどうだの言った直後に次元の違いでだのカラスにはだの言われて繋がりを感じることが出来ないでいた。

 ついて来るよう促されて、言われるがままに、男の歩みの道筋を追って行く。

「俺の真の姿はこの世界の住人には捉えられない」

 話によれば次元が異なるのだという。例えば三次元を二次元に落とし込むのならどうだろう。この世界の物質を奥行き無しで書き表わす。曲線や色付けのニュアンスがあれば三次元側の人であれば理解が出来るであろう。二次元側から三次元を覗き込むとすればいかがなものだろうか。平面の中で生きた人物たち。奥行きを視ることが叶わない彼らからすれば厚みのある三次元は理解できない。奥行きの距離感が分からずに気が付けば壁にぶつかり放題であろう。

 ヒトは、地球に住まう人物たちは三次元の住民。普通のチカラでは四次元のセカイである『時間』への制約のないアクセス権は得られない。つまり、過去に戻ることも未来へ先回りすることも叶わずに流されるまま。黒恵が実感している世界そのものだった。しかし住まう次元の異なる彼らは時への干渉が自由なのだという。

「ここで黒恵と関わるまでに幾度もやり直したものだ」

 そう語る彼は更なる事実を告げていた。

「この世界には時へのアクセス権は存在しない。しかし魔法と呼ばれるデタラメなチカラを使って自らの世界を守ると宣う人物が幾つかいるのだそうだ」

 超能力や魔法、ヒトの想像の産物が本来あり得ない動きを可能としているのだそう。

「出来れば止めてもらえないか? 世界の法則が乱れてるのだ」

 男の話によれば過去に触れることは出来るものの、どの過去に触れれば目的を達成できるのか分からないのだという。どこに触れても確実に時間に干渉してくるのだとか。

 言うけど朗報は保証できない。冷たい声で短い言葉を返して男の歩みの後を追う。

「これから知る高次元の存在を知っても尚同じことが言えるのだろうか」

 その問いは黒恵に対して強い抑止を要求している証となり得るのだろうか。ただ考えもせずについて行くだけの黒恵。そんな彼女の視界に変化が訪れたのは突然のことだった。

 急に襲い来る暗転。見通すことの出来ない深い闇。ヒトの死を宿した瞳程度の特異性では追いつくことの出来ない闇。

 男はその姿を保ったまま不可視の闇の中で立っていた。

「本当はどのような姿をしているのか分からないだろう」

 ヒトの感覚では決して把握できない姿なのだと男は語った。

 闇に閉ざされて見えないそこ、気配のひとつも感じ取ることが出来ない、存在の把握をその手に取ることが出来ないでいたものの、目の前にそれはいると男は語っているのだった。

 寒気や恐れで黒恵の気は遠く霞む。多く弾む。ヒトの持つ根源に近い感情が心情の確かな形を誓い、心の中で叫び喘ぎ続けていた。

 男の名を聞き取ることが出来なかったということ、過去が改変されたらしいということ。ふたつの事実を想い、危機感をひしひしと感じていた。今生きていられるのは気まぐれ。もしも機嫌を損ねてしまえば視ることはおろか認識すら出来ない身体に殺されてしまう。次元が異なるということは思考や感性が壁一枚隔てたような差がそこに立ちはだかっているということ。

 鼓動は加速する。手が付けられないと思わせてしまった場合そこで終わり。心臓の鼓動が一度強く打つ。相手の機嫌を取らなければすぐにでも無価値のものとして扱われてしまうかもしれない。鼓動は素早く身体を打って、命を激しく巡らせていた。

 男はそんな様子など知らないとでも言ったように話を進めた。

「さて、今俺の斜め前にχ縺 繧※◇が ・  ふ¬をしているのだが+¬ ◇mれるだろうか」

 黒恵にとっては半分以上が不明だった。『χ縺 繧※◇』とは何者なのだろう。『 ・  ふ¬』とはどのような行動なのだろう。『+¬ ◇m』とは一体どのような事を求められているのだろう。不明は積もるばかりではっきりとした事実は見えてこなかった。相変わらず雑音や聞き取ることの出来ない文字が混ざり合った理解の及ばない言語、もしかするとこの次元には存在しない発音や動詞なのかもしれない。代わりに扱うことの出来ない言葉であればそのまま言ってみせる他なかった。そもそもこの男の本当の名前が『ζ △z 禾』という時点で黒恵には素性の知りようのない相手だった。

 ヒトの過去を変えられない理由が見えて来た気がしていた。きっと彼らは人類とは感情の構造が異なるためであろう。

「三次元の視座では捉えることも叶わないか。+¬ ◇mはt j◇mという器官を使うことで出来る行動なのだが」

 仕方ない。そう言って、男は手を突き出した。そこから何が伸びているのだろうか。黒恵には見えなかったものの、何かが巻き付いていた。粘り気とさらさらとした感触が混ざり合った何か、それはザラザラとした心地とツルツルとしたものを同時に脳へと流し込んで行って、黒恵の感覚では理解できない。三次元の中で生きてきた生物では正しい感覚を得ることすら許されないようだった。

「感覚を共有することとしよう。安心しろ、脳が理解を超えて一時闇に閉ざさレる……ノミ。  連◇ωI  +¬ ◇mAα± χ縺 繧※◇」

 全てが相手の感覚に飲まれて行く。黒恵の脳では追いつくことが出来ずに頭痛という危機を警告を、ヒトが持っている反応という形で示して行って、思わず目をしかめ、頭を押さえようとするも身体は既に許容外の感覚に囚われて動くことが出来なかった。

 やがて男の姿は崩れて、黒恵は意識を闇の中に落としてしまった。正気を失うその瞬間、一瞬だけ許された情報の取得。


 黒恵は確かに目の前で体の一部を黒恵に接続しているζ △z 禾と ・  ふ¬をしているχ縺 繧※◇を+¬ ◇mしていた。
しおりを挟む

処理中です...