黒恵の感覚

焼魚圭

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黒恵の感覚編

友だち

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 十数分前に取り戻した当たり前をありがたがって噛み締める。当たり前というものが当たり前でなくなった時、人々はかつてあった当たり前だったはずの景色をどのように視るのだろう。

 黒恵のように常にズレるかズレないかの曖昧な境界線に据えられた理想郷と思い渇望を続けるのか、過去の栄光だと目を背けるのか、古い価値観と言って捨て去るのか、つまらない存在と言ってそこにある『今』を謳歌し続けるのか。

 認識はひとの想いによって異なるものだろう。

 黒恵は家に戻り、真っ先に食卓へと向かう。そこに待ち構えていた美味、その姿その形、細いキャベツのみずみずしい線の上に敷かれたそれは粉の衣を纏った細長いもの、先から出た固そうな赤はまさにエビの尻尾。

――来た、エビフライ! 私の好き好きセレクション上位に君臨するステキ料理だい

 油の熱湯風呂に浸けられて体の芯まで温められて熱されて、皿の上に上げられた瞬間により強く漂う香りに思わず見とれてしまう。

 ついでのジャガイモのコロッケと春巻きを揚げるその音が心地よくて、黒恵の心に高揚の音色として刻み込まれるほどだった。

――春巻き、今夜の待ち合わせ前にも食べたいものさ

 恐らくふたつほど取って持って行ってしまうだろう。勉強の夜食というメニューを装ったそれは、大事な話の前に美味を奏でるグルメという実態を持っていた。

――最後の晩餐にはさせない、春巻きに失礼だと思わないかい

 心の中で呟いて夕飯の後、心に誓っていた持ち出しを見事に実行してみせた。

 それから少しの間の勉強、最低限赤点さえ免れることが出来ればそれでいい、夢も希望もない人生の中を緩やかに歩き進むつもりでいた。

――どうにか生きてけると思うんだい

 それから楽しさの分からない勉学に打ち込んでいた。

 二時間という苦行の後、春巻きをひとつ口に放り込んでもうひとつを皿代わりに敷いていたラップに包んで外の闇の中へと飛び込んだ。

 心地よい涼しさに打たれ包まれて、虫の鳴き声を耳にして微笑んで歩く。隣の家の夕飯は魚の煮つけだったのだろうか、漂う香りから人々の日常を思い浮かべるのは嫌いではなかった。

 少し歩いて、いくつもの家を通り抜けて遭遇した立派な一軒家。その二階の窓から落ち着きを与えてくれる普段通りの色の明かりが漏れていた。きっと宿題や勉強に打ち込んでいるのだろう。勉強と言われてただひたすらイヤだと思う黒恵がいる一方でクラスメイトの中には勉強を楽しいという人物もいた。そうした人物の気持ちなど黒恵には理解も及ばなかったものの、きっとそうした人物にしか視ることのできない深いセカイがあるのだろう。

 普通の人の見ている景色に加えて死を視ることのできる黒恵と彼女が持ち合わせていない視点で勉学の深みに嵌るクラスメイト。認識は人によって変わってくるものだった。その差は理解不能で視合い不要。割り切って日常の中に潜む非日常という黒恵の日常。科学によって表向きは存在が否定されている魔法という人類の幻想と呼ばれし現実の中に生きていた。

 ベッドタウン特有の明るい闇の中を歩き続けている。目の前に広がる暗闇は景色を見通せる程に明るくてしかしそのどこに誰が潜んでいるのかそれすら見通せなくて不安は止まらない。

 誰かに狙われるほど顔が整っているわけではない、そう自覚してはいるもののたまに後輩から想いを寄せられるという事実、この時間この闇に潜みし不審な者は外見などあまり見ていないという意見。油断も安心もできないでいた。

――早く着いてくれないかい?

 着いたところで真の恐怖に襲われるかもしれない。不穏な文字とそれによるメッセージははっきりと示していた。

 黒恵が向かっている先は、闇の世界の中、自らおぞましいセカイへと飛び込んでいるのだということを。

 様々な想い、闇と同化してしまうような暗い想いとともに歩き続け、ようやく目にした校舎。黒々とした景色はまるで生徒の感情で塗りつぶしたような色。姿形だけ立派な夜の校舎の壮大な姿は背伸びをしているようにも見えた。強がるハリボテは黒恵の瞳にどのように映ったのだろう。少女は『負の想いの収容所』という単語を想わされていた。どこからか編み上げて取り出した言葉は現代社会の問題の一角の姿そのもので、黒恵の口からため息を引きずり出すには充分すぎた。

――みんな私くらい分かりやすければ良いってのに、何考えてんだい?

 人々の心を覗くことは叶わない、目の前でいつも通りに締まっているドアの向こうを覗くことすら叶わない。人々の心の壁はそこにそびえる立派な壁よりも分厚くて、なにより朧げな殻すら見せてはくれない。

 必要のない考え事を続けながら足を進める思考と歩行の並行を闇の中に置き去りにして校舎の中へと入り込む。その直後に不自然なことをようやく見いだした。そのドアにはカギがかけられていないということ。

 更に進み続けて行く。足音を聞く者などいたとしてひとりかふたり、自身と約束の相手に限られた話。普段は生も感じさせない程に静かな足音だったが、闇に包まれたこの校舎の中では最もうるさかった。

 足音を、月光に溶かしながら歩み続け、階段を上って教室を目指す。黒恵のクラスの教室は三階の右から三番目。

 黒恵は三という数字に不吉な予感を嗅ぎ取って身を震わせていた。心臓の鼓動と息遣いは乱れて背筋が凍りつく。あのノートに書かれたおぞましい文字、あの街の中で出会った恐ろしい獣。

 これからどのようなモノを視て、どのような恐怖の色彩を奏でるのだろう。

 暗い廊下、夜の学校という恐怖の象徴のひとつ、その中を進める足は遅く感じられた。急ごうにも鼓動と意識の速さに身体は追いつかない。

 スローモーションの映像は現実の『時間』という存在がいかに曖昧で不確かなものなのか、針の動きひとつで定めるそれは何様のつもりなのか、黒恵は人の定める基準から外れていた。

 のろのろと進みてドアを開く。出迎えた暗闇は窓からすり抜け差し込む月明かりによって微かに照らされた光景と完全な暗闇によって不思議な模様を描いていた。自然が描く不自然は教室の中という狭い世界の中で広がっていた。

 かすかな光の陰で妖しい笑みを見せつける者がいた。幼い雰囲気をおもむろに見せている女の子、恐らくは窓際の机の上に座るその女の子が件の少女なのだろう。少女は微かな音で多大に不快な笑い声を上げた。耳を切るような音、耳障りが過ぎるあまりに堪忍袋の緒が切れてしまいそうな声は頭にこびりついて離れない。

「おつかれさま。今日は来た」

 日付けは変わったのだろう。黒恵の思う『今日』は過去の物となって新しい〈今日〉が訪れた。少女は黒恵の顔を見つめながら声をひねり出す。

「久しぶりね、黒恵。そしてごめんなさい」

 謝られるようなことなどされただろうか、想いを巡らすよりもはるか前に思ったことを吐きつけた。

「全くだい! 日付け変わる時間に呼び出しなんかして」

 家族や部活の友だち以外の人物との久々の意識した会話。反射のような返事や言葉とは違った意思を持って撃つ言葉によるやり取りはやはり質の良いものだと感じさせる。

 黒恵の問いに対して少女はまたしても謝って、更なる言葉を加え始めた。

「時間もそう、でもね。謝りたいのはそっちじゃないのよ」

 それから続けられた言葉に黒恵は思わず顔を伏せて表情を隠していた。

「実は同じ高三なのに嘘ついて高二の弟ちゃんの同級生って言っちゃった」

 続け続けに放つ言葉はまだ繋がれる。

「同級生って言っても絶対信じてもらえないから、許して」

 少女は反省の気持ちなど見せず、代わりに右手にリンゴを握っていた。

「お願いがあるの」

 ここから出される願いとはいったいどのようなものだろう。黒恵はイヤな予感しか見つけられないでいた。

「その左目、生の目で死者を生き返らせて、私のお母さんがいないの」

 その願いは黒恵の耳により聞き届けられ、変わらぬ態度という形で破棄された。それに気が付くこともなく、女は要求だけを続けていた。

「お願いだから、昔、貴方本人の死を止めたように」

 黒恵の生の瞳に驚愕の想いが乗っかった。過去を知る者、その具体的なことなど一部の人間にしか話していない。ましてや同級生と来たならば、相手の正体は白よりも明白だった。

「まさか、私を殺そうとした」

「ごめん、知らなかったから」

 視線は既に目の前の女、黒恵を死に至らせようとした魔女を殺していた。

 一方で魔女は、〈森の魔女〉は、その手に収まるリンゴを一口かじって黒恵に向けて放り投げた。赤い身体を黒々とした闇の中に隠しながら放物線を描く球体は時たま月の光を跳ね返してうっすらと輝くところもあった。

 飛んで来るリンゴを目で捉えて黒恵は右目に収まる死を世界へと侵食させる。左肩からは存在が曖昧な死の翼が噴き出すように世界に食らいついていた。いつの間にやら右手に握り締められていた鎌を構えて向かって来るリンゴを左目で、生者の瞳で追い続ける。

 やがて迫り来るリンゴは口を開いて闇の霧を吐きながら鋭い声を上げて噛み付きにかかって来た。

 精一杯開いた口に鎌の刃を当て、ひと言呟いた。

〈死を与える〉

 それだけ、ただそれだけのことでリンゴの姿をした何者かは命を絶たれて勢い任せに地へと叩き落された。

「いいね、そのチカラでさ、『私のお母さんの死という概念に死を与えて』見せてよ」

 少女、名すら思い出すことの出来ない明らかな敵は欲しいことだけを求めていて、そうした態度が黒恵のため息を引き出して行った。

「確かにできるけどさ、そうやって生き返った〈お母さん〉が『お母さん』のままで生き返るとは限らないの、分からないのかい?」

 そこから更に言葉を重ねて行く。

「分からない、それならいいんだい。生き返らせることは容易でも、理想の生き返りは困難なん分かってる?」

 説教は事実を以て。目の前の相手からは嘘で隠すような言葉を与える必要すら感じなかった。黒恵は重ねて、想い続けていたことを静寂の闇を裂いて吐き出した。

「そもそも名前も言わぬまま助けてなんて、人を馬鹿にするのも大概にしな」

 そう、過去に仲の良かったあの子とはもはや別人。時間の隔たりは関係性すら隔ててしまっていた。

「馬鹿になんてしてないよ? 私〈森の魔女〉なのよね」

 〈森の魔女〉という名を聞いて反射を思わせる時間感覚、考える間すらない即答での反応。黒恵は気が付いた時には鼻で笑い飛ばしていた。

 動物や植物に意思や知性を与えているからこそ与えられた名だと少女は言ったものの、実態を知っている、身をもって教え込まれた黒恵からすれば実に滑稽な呼び名だった。

「闇や死を寄生させて思うがままに操る。与えるどころか奪って支配するチカラをそう呼ぶなんて」

 乾いた笑いは夜の闇によく似合っていて、黒恵を暗闇のセカイの主演へと仕立て上げていた。月明かり差し込む教室の中、魔女は響く笑いに嗤いを織り交ぜて。

「いいや、欲しいのはあなたじゃなくて能力。私の魔法であなたを乗っ取れば解決」

 陰に隠された本性はついに明るみに出てしまった。

――ああ、やっぱりそうなのかい

 そこに友情などもう残されてなどいなかった。

 黒恵は鎌を振うには窮屈だと感じさせるような広くありながらも狭く感じさせる世界、机や椅子によって思い切り戦うことを封じられた教室の中でもどかしさを感じている一方で、魔女は指を鳴らして唾を吐き、ハーブをかじる。それだけで武器を生産していた。吐き捨てた唾が染み込んだ床は膨れて周りの床面を抉りながら起き上がり壁となって黒恵に倒れ掛かる。ハーブはそのまま大きくなって鋭い刃を持つ生き物となって一つの目を開いていた。

 両方の処理、それは今の黒恵にとっては異様に難しいことのように思えた。

「どうやって処理しろって言うんだい」

 壁を押さえようにもその身体は重力任せで黒恵を容赦なく潰そうとしていた。容赦など初めから知らないと言った様子だった。

 ハーブの姿をした悪魔も自身の持つ死を滾らせて黒恵の命を断ち切ろうとしていた。

「潰れても、身体だけ遺ればいいんだ! 大人しく私のために、友の私の願いのために、死・ん・で」

 語尾にハートマークでもつけていそうな甘ったるい声で頼んでいた。少女は自身に酔いしれていた。声に顔に心に存在に、己の全てに酔って、黒恵の身体を奪おうとしていた。

 黒恵はその様子に、美しく気取ったように口元に手の甲を寄せている仕草に、嫌悪の情を見ていた。みるみるうちに湧いてきて自身を充たしては更に強く刻まれて行った。

 おまけにその嫌悪感の源泉は、目の前にはっきりと写されていたのだ。かつて黒恵に死を与えた者、これから黒恵に死を与える者。黙ってなどいられなかった。

「ふざけてんな! だれがひと様のためなんかに命なんか捨てるって言うんだい!」

 黒くて棘のある感情、闇を思わせる深い怒りがふつふつと這い上がっては蒸気のように膨らんで、それはもはや黒恵のセカイだけに留まることは出来なかった。

 右眼、死したそこからにじみ出る死はよりはっきりとその概念を示し出していた。

 左肩から噴き出す死の翼が死という形を実態に変えて大きく広がる。翼で倒れ込む壁を殺し受け止めて、鎌を机に置いてハーブを睨みつけた。その行為ひとつで目の前の物言わぬ草は震え上がって縮こまってしまう。蒸気を吹き出しながら縮んで、元の姿へと戻ってしまう。

 眼で殺す、まさにその通りとしか言いようのない技だった。

 立ち塞がる者のいなくなった黒恵は一歩、また一歩、魔女へと向かって足を進める。少しずつ、確実に大きくなっているように感じられた。

 魔女は目を肩を心を震わせ怯え切った様で冷えに切り裂かれて上手く出てこない声を世にひねり出す。

「ごめんなさい、もうしないから、許して」

 しかし、黒恵は止まることなく、口も開くことなく歩み寄っていた。

「お願い許して、友だちだから」

 友だち、その言葉を耳に入れると共に立ち止まる。そこから感情を排した声で述べていった。

「ここまで人を利用しようとして殺そうとして手中に収めようなんて目論んで、それでもまだ友だちって言ってくれて」

 黒恵は再び歩き始めた。先ほどよりも素早く生を感じさせる足取りで。

「知らなかったよ」

 魔女の前で立ち止まり、左の目に宿る感情を向け、言葉を届けてみせた。

「友だちって、そんなにも軽い言葉だったのかい」

 生の瞳に宿る感情は死していた。水底のように暗くて見通すことも許さない。そんな冷たさを灰色の瞳から放ち、世界の色をこの上ない無機で塗りつぶしていた。
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