黒恵の感覚

焼魚圭

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黒恵の感覚編

悪魔の文字

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 黒恵の目の前に広がる景色はもう見飽きたと嘆いても仕方のないいつものものだった。変わり映えという言葉を知らないのか、いつでも迎える姿が同じ黒板と教壇。規則的に並んだ席は死した瞳からすれば愛しき日常、生ける瞳から見て感じ取れるものは面白みの欠片もない生活。

 いつものように入って来る教員の口からいつものように作り上げられた豪快な声で出て来た挨拶。

――退屈

 黒恵の瞳に陰をもたらす存在、教師の不快な顔つきは生徒全員の目の中にまで行き届く。いつものこととは言えどもいつまでも慣れないのは授業が退屈なことも相まってだろうか。

 教師の話は黒恵の耳を通って抜けて残ることもない。

 そうした必要も感じられないホームルームが終わってからの授業手前五分間。

 黒恵は廊下に出て窓を開いて風を感じていた。外に広がる景色。車は絶え間なく走り抜けて人々は急ぎ足で行くべき場所へと向かっていて、鳥は可愛らしい鳴き声を上げながら飛んで葉は風になびいて美しき衣の切れ端を飛ばしていた。


 まさに世界は生きていた。


 教室の空気を全て吐き出して窓に見える分だけでは収まり切れない広大な世界の空気を大きく吸い上げて、空気と気分を入れ替えて。そうして黒恵は教室へと戻った。授業という退屈だがこの世界でよりよく生きるためには決して捨てられないもの、仕事とは全く関係のないかもしれないもの。

 授業を欠伸混じりに聞いて、教師の声を心の中で踏みつけて、黒板の内容だけをノートの中へと拾い上げる。

――ああ、退屈だい

 ただ必要だからこなすだけ、その行為に魂など籠ってはいなかった。機械に任せたような作業もやがては終わりを告げる。

 数学、物理。

 複雑怪奇な数字や記号の羅列を並べてこねくり回す学問。そこに使われているものはもはやひとつの言語のようだった。

――だとしたら、私の理解なんてとっくに超えているみたいだい

 それで良いはずがないのだが、それで留まっているのが黒恵という少女だった。

 学校の成績などきっと芳しくはないであろう。次のテストもその次も、更にその次も。如何にして赤点を回避するか、黒恵の思考能力にギリギリで認められるだけの点数を獲得するか、考えられることは程度の低いことばかり。一度落ちぶれてしまえば這い上がることの難しい深い枯れ井戸を這い上ろうとするようなもの。

 少女に求められるものは意識をひっくり返すことだった。

 それから国語と美術の授業を健やかに過ごして、ようやく訪れた黒恵の最大の楽しみ、昼休憩の昼ごはん。


 待ってたよ、待っていたんだ。


 心は跳ね上がり、足取りは軽く今にも吹き飛ばされてしまいそうな様をしていた。

 胸の高鳴りに合わせて足を速めて教室を出て階段を下りて、その先に待つのは食堂だった。

――さあて、今日は何食べようか、決めきれないもんだね

 かつ丼、うどん、ラーメン、カレー。世間の人気メニューを集めたようなラインナップはいつでも黒恵を満足させてくれた。


――人気って思っていても、勘違いのこともあるかも知れない


 ふと思ったこと。もしも価値観のズレを認識していない人物がメニューを決めていたらどのようなものが並ぶだろうか。想像するだけで寒気が背筋をイヤらしい手つきで撫でてきた。

 普遍を知っていること、当たり前だが重要なこと。

 当たり前を知っている人物に感謝を込めながらチキン南蛮定食を注文したのだった。

 それからカウンター越しに手渡されるまでに経過した時間はあまりにも少量で、休憩のために与えられた時間が限られている生徒の一員である黒恵にとってはとてもありがたいことだった。

――さあて、チキン南蛮は私の好物、変な話で台無しにすることはクラスメイトでも許せないものだね

 昼食にかける情の強さを忘れないまま、様々な命や料理人に感謝の気持ちを込めて、言葉にした。

「いただきます」

 割り箸を手にチキンを口に。衣をふやけさせるほどの存在感を示した甘酢の酸味が肉に絡み付いて、タルタルソースの酸味の効いたマヨネーズの味が混ざり合って口から喉を通って幸せが身体全体に行き渡り染み入って、黒恵の身体を抱き締めるように包み込む。

 これこそが黒恵の心の支えだった。


 そうした時を飲み込んで、時間を確認して焦り気味の速足で教室へと戻って行く。

 ドアを開けて席についてそこで気が付いた。

 机の上に置かれたオリーブ色の表紙のノート。

 勉強が嫌いにも程がある黒恵、そんな彼女が用意するノートはもっと簡素で安価なものだけだった。家庭科の柔らかな印象の女性教師と現社の面白い男性教師、そしてサバサバとした印象の保健体育の女性教師が好きなため、それらの単元のノートの表紙に下手ながら絵を描いてお気に入りのマークとしていた。

 誰が間違えて黒恵の机に置いて行ったのだろう、訊ねて周ろうと話を振った一人目が既に完璧な回答を持っていた。

「それ、くーちゃんの弟くんの友だちがくーちゃんにって」

 いかなる事情か、判断も付かないままに黒恵はノートを机の中に仕舞って授業の準備を始めた。

――紅也の友だちかい

 ロクでもない話、恐らく本人にとっては人生を揺るがす重要な話なのだろう。幼い顔立ちに軽く生意気の感情の気配を飾り付けた貌をした紅也、その姉にして細かいことをあまり気にしないように思える態度が顔に現れている黒恵。この組み合わせが黒恵を大人びて見せているのだろう。

――ラブレターかい?

 思うだけでそれを口にする癖がないこと、それが周りからの印象と自身の本質の認識の差なのかも知れない。とはいえども深いことを考えないことには大きな差は生じることもないのだが。

――後で読んで供養としようか

 読むまでもなく勝手に恋文だと判断を下す、そうした様が現状の元凶なのだろうか、黒恵には見当もつかなかった。

 やがてチャイムが学校中に鳴り響いて黒恵の大嫌いな数学の授業が始まったのだった。



  ☆



 本日執り行われる単元は全て過去へと流れてさようなら。黒恵は不自由から解放されて緩んだ笑みを浮かべていつも通りに歩き出す。

 本来であれば部活動があるはずだが、今の黒恵には参加する気など起こりえなかった。文芸部、部活動として目を通すにはこれから読むものはあまりにも不釣り合いに感じられた。

――ひと様の書いた恋文を部活動の読み物なんて通るのかい?

 自問自答の流れにはもはや起承転結の美しき流れなど一切なくて、起きてから即座に結末を辿ろうとしていた。

 やることなどひとつ、読んで断ること。

 いつもと同じこと、単純なこと。読んで心に仕舞って奥まで入れ込んで永遠に掘り返さないように蓋をして忘れるだけのこと。

 黒恵はノートを開き目を通し始めてすぐに目を見開き驚愕を露わにしていた。

「な、なんだい……この文字は」

 そこに書かれていた文字はこの世に存在するどのようなものとも異なる不気味なもので、見たこともないにも関わらず読めてしまう、否、読むことが出来ているわけではなかった。内容が頭の中に直接流れ込んでくるような代物で、頭は理解を拒んで嫌悪感の警告を示しているにもかかわらず書かれている文字の意味することを理解できてしまうのだった。

 しかも不思議でかつ悪質なことに黒恵の瞳はその文字から目を離すことが出来ずに書き連ねられた文字列、詩という概念を知らないただの説明を陳列しただけの簡素な文章如きに囚われてしまっていた。



【黒恵へ、この文章を読んだのならばあなたは自身の状態に自覚をもってしまうでしょう】


【矛盾を孕んだその姿こそが本当の姿です】


【あなたの瞳から分かる通りあなたは既に死んでいます】


【死んでいるのに生きている、矛盾していますね】


【その矛盾に気が付いたのなら私の元へ】


【来てください。場所は】


【あなたの在籍しているクラスの教室】


【時間は午前零時です、いい】


【お返事お待ちしております】



 黒恵はそこでどうにかノートから目を離し、嫌悪感に打ちひしがれながらもどうにか冷静であり続けていた。

――不思議なものだね

 このノートを読み通すことで黒恵の価値観は大きく傾けられていた。

――数学や物理みたいに読めるのに理解できない文字もあるってのに

 そう、黒恵は計算を用いる単元に関しては大層成績が悪い。底抜けの底に立つほどに低質だった。それを想いながらだと余計手元のノートへの不思議は大きくなるばかりだった。

――読めないのに理解できる文字もあるんだ

 それから不気味の塊とも思えてくるこのノートを鞄に仕舞って人の流れ続けるこの街の中を再び歩き出した。
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