断末魔の残り香

焼魚圭

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断末魔の残り香 霧(第四シリーズ)

会社内の公衆電話

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 朝日を感じさせない青くて爽やかな朝、吹いて通り過ぎるそよ風は春斗の短い前髪を微かに揺らす。今日もまた、春斗は勤務先のスーパーマーケットへと一歩、また一歩、重々しい歩みをどうにか進めていた。
 商品を補充するとき、お客様がいらっしゃったが為にリストの順番と異なる順に補充しただけで怒鳴り散らす上司、逆に遠慮しなかった事で怒る同一人物。掃除を終えた直後に見渡して埃の一つでも見付けるだけで大きなため息をついてジュースを奢るように、全員への詫びだと脅してはその身を肥やし続ける先輩。そしてそのような連中に屈して頭を下げて全てが言いなり、糸を引かれて動くだけの自分自身。
 皆違って皆惨めであった。
 全てが醜い。そんな人間模様の一角が垣間見えるありふれた職場の内の一つ、たかだかありふれた一つによって身も心も滅ぼされようとしていた。
 己は特別でも何でもなく、ただ単にどこにでもありふれた悲劇の日常に飼われただけの肉塊であるという自覚はあった。しかし、変わろうという気が無いというのもまた事実。そこを指摘されると耳が痛くなってしまう程度には自覚していた。
 現実そのものがどこまでも果てしなく奇妙で溢れ返っている。
 それは二十七年間の人生を無駄に過ごした事で悟っていた。大人になって立派に働き、素敵な出会いに巡り合った先に教会の光に照らされて永遠の愛を誓い合い、やがて産まれてくる子育てる。そんな普通と名付けられた人生も手繰り寄せる事すら叶わない永遠の幻想、溢れ返る程の奇妙な運命の一つ。果てしなく遠い世界の出来事に感じられた。
 今では会社という名の檻閉じ込められて飼われた会社の家畜の一頭に過ぎない。


  ☆


 今日もまた在り来りであってはならない在り来りが火を噴き始めた。
「おいてめえ」
 最早名前で呼ばれることすら稀で、既に自分の名前を失いかけている。名前を奪う老婆が出て来るアニメが妙に身近に感じられてしまうような環境。
「あと一つカップ麺入るだろ。十年近く働いてそんな事も分からないなら辞めてしまえ、辞表書けよ」
 今日の上司は何であれ一つでも多くお客様の手に取っていただきたいと思っているようで、入るか入らないか、場合によっては一番奥の商品が傷付いてしまう程にまで補充する事を強いる。といって別の日には別の上司がわざわざ文句を付ける為だけにここまで来て確認を取る。
 そして顔を赤くして人と向き合う職業であることを忘れてしまったような表情を作り上げる。
「詰めすぎ。もっと余裕を持たせなきゃカップ麺でもお菓子でも崩れて状態が悪くなるぞ」
 そこに間違いはないと確信は持てたものの、どのような行動を取っても必ず誤りだと指摘を行なう人物がいる。つまり、春斗が取る行動の全てが否定されてしまうという事。
「不良品を作るような営業妨害社員は要らない。そんな奴はタイムカードでなく辞職表と向き合ってろ」
 結局のところ、それぞれの価値観の押し付け合いでしかなかった。春斗は己の本業が頭を下げる事であるかのようにすら思えた。それならば縁起物である赤べこの方が余程役に立つ。春斗の存在意義などストレスのはけ口、ゴミ箱のような物に過ぎなかった。
 そんな重苦しい仕事の中でも平等に訪れる昼のひと時、弁当を頬張る春斗に四十歳前後と思しき非常によく肥えた男が意地の悪い笑顔を浮かべる。
「愛妻弁当か」
 そう告げて一瞬の沈黙が流れる。その沈黙は痛々しく沈み込むようで、居心地が悪いことこの上ない。
「そんなわけないか」
 表情を動かす度に醜い脂が震えながら動いて表情を避けるように脇へと逸れて行くようだ。
「コイツ妻が出来るんだったら俺には三人くらい子供を育てているはずだからな」
 その男は一人の息子を溺愛しているのだと言う。相手にしても仕方のない男からの圧を受けながら春斗は黙って昼食を済ませる。
 突如、耳障りな音が空気を裂いて室内に響き渡る。
「くそ、またかよ」
 男の叫び声には性格が滲んでいるようで、全てを威圧しているような響きを持っていた。細く情けない目が向けられた先にあったものはピンク色の公衆電話。ダイヤル式の物で、それなりの年代のもののよう。
「誰かこれの電話番号でも調べてイタズラでもしてるのか」
 その古びた公衆電話はたまにベルを鳴らす。一体誰がその電話のベルを鳴らしているのか。検討も付かない不気味な悪戯は徒に社員たちのストレスを溜め続ける。
 突如、ベルは鳴りやんだ。社員たちは電話から伸びるコードの先にある受話器を持つ春斗の姿を確認した。
「もしもし、もしもし」
 繰り返される言葉に対する返答は沈黙の二文字。所詮はいたずら電話でしかないのだろう。
「もしもし」
 受話器の向こうからは何一つとして言葉が返って来る事は無かった。
 やがて呆れ果てた春斗は受話器を置いて、先ほど電話に漂っていた気配の後味を噛み締める。見えるようで嗅いでいるようで、それでありながら触れているようで聞こえているようでもある不思議で不気味な感覚。
 仲の良かった女性が断末魔の残り香と呼んだのは果たしていつの事だっただろう。
 あの感覚を久々に感じ取っていた。


  ☆


 午後からも上司や先輩のご機嫌を伺いながら続けた仕事は、心に怒声の残響と激しい疲れを残して終えた。日々の爪跡が深く刺さっていつでも薄暗い感情を呼び出す。しかしながら春斗は耐える他なかった。これ以上の仕事に就くことは出来ないのだと過去に綴った履歴書の数々が訴えていたのだから。
 深く青く暗い夕刻の道を歩んで家に辿り着き、唐揚げと枝豆を頬張りながら缶ビールを二本飲み干して、シャワーを浴びてベッドへと潜り込んだ。
 また明日、お辞儀と怒声の入り乱れる重苦しい職場に、上司たちからの攻撃という名の業務の刺激を耐え抜くために。


  ☆


 浅い眠り、支離滅裂な光景を繰り広げる夢から一気に現実へと引き戻された。電話の呼び出し音に叩き起された。電話機の画面に灯る光以外は全てが闇に包まれていて、次の日が仕事だと考えると明らかに起きているべき時間ではないと手に取るように分かってしまう。
 春斗は電話の画面だけが輝く大きな闇の中を泳ぐように進み、受話器を手に取る。
「もしもし」
 しかし、その返答は静寂。
「もしもし」
 沈黙の闇に、その平面に波紋を立てるのは春斗の声、唯一つ。
「もしもし、聞こえてますか、返事を下さい」
 どれだけ声を上げたところで独り言にしかなっていなかった状況に変化が訪れた。
 どこか狭い隙間から通り抜けるような様を思わせる絞られた風の吹く音を耳に入れ、不気味の文字が脳裏を走り出した。
 それは明らかに異常な出来事。
 春斗は急いで受話器を置いて布団に包まるように怯えながら無理矢理眠りにつこうと必死に丸まっていた。


  ☆


 気怠さと頭の痛みに打ちのめされながらも働き、家へと戻る。夕飯は相変わらずのもので春斗はビールの缶を三本空ける。昨日の奇妙な出来事を思い出しては現実だと勘違いした幻想。悪い夢の出来事だと言い聞かせる。夢と夢の隙間に挟み込まれた意識が見せたものはあまりにも救いが無くて、懐かしさを覚えてしまうもの。
 彼女もいなければこれと言った趣味もなく、友だちとも長い間会うことすら出来ていない。長い孤独に希望すら薄れて儚く脆い層へと、淡い泡のような姿へと変貌を遂げ、弾けようとしていた。
 そんな春斗の頭を睡魔が揺さぶり夢の世界へと手招きしていた。無駄にしてしまった時間の数は計り知れないものの、今を変える活力は手の中に残っていない。
 そんな無気力を緩やかに握り込む指に絡めてシャワーすらも浴びずに寝ようとした春斗。しかし、疲れに身を任せて寝転んだその瞬間、電話の呼び鈴が春斗を呼び出す。
 風の吹くような音を思い出してしまう。恐怖を想うのか、恐怖は無意識から湧いて来るものなのか。春斗は男である己を鼓舞して昨日置いた受話器を再び手に取る。
 耳を当てた受話器の向こう側からの言の葉を受け取る。音を届ける器の向こうからは昨日と同じ、苦しそうな風の音が吹き込んでいる。喉から吸えぬ息を無理矢理吸い込み吐き出す時に漏れた音、そんな心地のもの。
 それに加えて泡の吹くような音が、続いて泡の弾ける音が流れ込んで来る。耳を支配する一連の音は非日常を奏でては感情を意図した方向へと流そうとしていた。
 そんな音に染み付いた恐怖の色に気持ち悪さを感じた。受話器越しの怨念がどのような最期を迎えたのかを語っているよう。怪現象の主の最期はある程度想像がついていた。
「もしかして、首吊り自殺の霊か」
 妖気と狂気が入り乱れ絡み合う世界、昔からある程度触れて来たと言ったところでいつまで経っても慣れない薄暗い無念の塊との繋がりを断ち切ってしまいたかった春斗は素早く受話器を置く。
 何故電話を掛ける怪の主は自殺をしたのか。何故この会社の公衆電話にかけ続けていたのか。
 その答えを想像して春斗は恐怖に打ち震えていた。その経緯を想像して春斗は怒りで脳を煮やす。己の勤める会社での酷い仕打ちとその果てに待っているものは生という存在の否定、まさに選び抜いた敗北。
 死者は生きていたい者からすればあまりにも単純な最後の悲劇を自ら選んだという事。あまりにも救いの無い話。
 在り来りな悲劇、かつてはそう思っていた己にすらも憎悪の想いを抱いてしまう。それは、在り来りな悲劇などでは無く単純に許されてはならない罪、美しさで覆って飾る事など許してはならないものだった。
 辞表を提出しよう。誓いを立てて布団に身を包んだ。すぐ傍にあるはずの希望を手に入れるために。


  ☆



 再び電話の音に叩き起される。
 迷惑を極めた音は部屋中を覆い尽くして闇の静寂を打ち破り、夢の世界をも打ち壊してしまった。
 響き続けるそれを無視して再び眠りに入ろうと試みる。如何に粘り強い怨念であっても聞かなければ見なければ解放される。それは一本のしつこい迷惑電話として片を付けることが出来る。
 そう思っていた。
 春斗の想像に反して非日常は踏み込んで来た。喉から無理矢理絞り出された風の吹く音と泡が噴き出ては弾ける嫌悪に充ちた音が聞こえてきた。
 電話は手に取っていない、そのはずなのに。
 春斗は目を閉じ続ける。その先の光景を想像した春斗は目など開きたくもなかった。
 しかしながら向こうはお構いなし、否応なく流れて来る風と泡の音とそれに混じって別の音が聞こえてきた。それでも春斗は目を閉じている。
 逃れようと足掻いたところで余計にくっきりと聞こえてしまう苦しそうな呻き声。それは発音を変えながら春斗の耳へと何かを伝え続ける。脳はその忌々しい音の意味を嫌々ながらも理解してしまった。脳にまで届いてしまった。

 オマエモ……コイ

 仕事の先輩になっていたかも知れない何者か、最後の悲劇を受け入れる事を選んだ者。死ぬことの先輩になどついて行くまいと必死に気を保ち続ける。

 ハヤ……ク……コイ

 繰り返し出される指示に従うことなく目を見開き、鋭い目線を向ける。
 夜に蔓延る闇と言う名のカーテンを揺らしながらただ揺れる、そんなおぞましき人物の姿を目にして意識は失われた。
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