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退魔師『雨空 天音』の欲望 2

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 夕方の草原、その言葉の持つイメージはあまりにも美しすぎてついつい口に出してしまいたくなってしまう。
 しかし、目の前に広がるそれ、現実はそう美しいものなどではなかった。
 薄暗い空は心なしか濁っているように見えてキレイなどとは口が裂けても言えなかった。
「きれいな空だね、天音」
「どこがさ。アンタの瞳はきれいであれども……もしやしてアンタの目のきれいさは外の景色のフィルターにでもなってんのかい?」
 ふたりきりのランニング、ただその事実だけですべてが輝いて見えた晴香に対して天音は晴香だけが美しくきらめいていた。走ることで流れ去る景色の全ては味がなくて面白みを感じられなくて、天音は盛大なため息をついていた。その様子をしっかりと見ていた少女は頬を膨らませた。
「私とじゃ不満?」
 途端、天音の背筋がここ数か月の記録を超えるほどに伸びた。
「不満さ。アンタを前にしては如何な景色を用意せども霞んでしまうのだから」
 走りながらの会話の中、晴香は走ることで感じていた熱以上の火照りに顔が茹で上がりそうだった。
「あ、あああ天音」
 緊張を感じさせる声で呼びかけられて曇りひとつない笑みを浮かべる。あまりにも晴れ渡った笑みは大人の女が浮かべたとは思えない純粋なみなもの上に佇む澄んだ泡のようだった。
 天音の言葉に惑わされかき乱されて必要以上に息の苦しいランニング、その途中に通りかかった小さな祠を目の端に天音は言った。
「あのたぬき地蔵、可愛らしいと思わないかい?」
 愛想笑いの進呈とともに同意を示したところ続きが即座に飛んできた。
「キヌもあんな感じの可愛さなら、幾たび来るたび思ったものさ」
「キヌさん可愛いじゃん」
「あれは晴香より目立つから罪人」
 あまりにも辛辣な言葉を耳にして哀れに思いつつ、後ろへ向こうへと距離を開け続けるたぬき地蔵に目を向けて前を向いて。やがて見えなくなっていた。


  ☆


 星空は暗い世界を照らすにはあまりにも弱くて頼りない。届かない、見えない。愛しい人は隣りにいて、しかしすべてを塗りつぶしてしまうこの世界の闇に飲み込まれたままでは愛らしい顔を拝むことなど叶わない。
 見えない分、晴香の声を堪能しようと声をかけ始めた。
「晴香、受験勉強ははかどっているかい?」
 しかし、思惑はうまく形を成さない。愛しいあの子はただ黙っているだけでしかなかった。
「世間様とやらは心が狭いからねえ、数字や記録、世間から求められる役の演技のうまさでしか人を測ってくれやしないものさ」
 それこそが真理、社会が求めた色の内から選び抜いた色で塗ることだけが社会にとっての正義。それだけのことだった。
 社会が図るものでもない価値、それが感情なのだろうか。
「それにしてもあのたぬき地蔵、なんであんなになるまで放っておいたものかねえ」
 話を変えた天音の言葉、その内容はいまいちつかめないものでしかなくて、訊ねて確かめることにした。
「天音が可愛いって言ってたあの地蔵がどうかしたの?」
 いや、別に。それだけつぶやきつつも、視線は地蔵の方を向いていた。いくら見えないとは言えども、慣れた目を相手にしては輪郭は隠しきれなくて気が付いているのは間違いないだろう。
「そっか」
 深いところまで訊くわけでもなく、ただそこで止まってしまう晴香に対する想いは天音の中で相反する極端な音色を奏でていた。
 晴香を巻き込むようなことにならなくてよかった、そう思う一方で真実を話さなかったことへの罪悪感が内側から削りにかかる。
 しかし、それは本当に悪いと思ってのことなどではなくてこの事実を共有したかったという身勝手な欲と話すことができなかったという意味しか持たない独りよがりな名残惜しさのふたつが織りなす自分勝手の最果てなのだろう。
――晴香は知りたがってはいるけれども、知らせない方が安全かも分からないね
 ただ仕舞い込んで晴香をこのことからできる限り隔離する。

 その最果ては、きれいなものだとは言い難かった。


  ☆


 夕日は見えず、気が付けば夜が来る。絵画や映画のような美しいだいだい色などそう簡単に拝むことのできるものでもなかった。
 薄暗い空を背景に今日もまた走るふたりの女。普段は和服を着ている茶髪の女はジャージを着ていた。隣りにいる少女はジャージを着て走る女を見つめる。和服を着ている時には目立たない身体に着いただらしない肉の存在を知った。
「天音もまだまだ痩せられないね」
 天音、27歳になったこの女は息を深く吸って晴香に目を向け言った。
「アンタは少しずつ痩せてきたみたいで羨ましい限りだね」
 夕方のランニングという習慣は天音の口から始められたものだった。恐らくは受験勉強に追い回される晴香への息抜きと何より天音が晴香に会いたいという最大の本音からの提案なのだろう。
 晴香はお腹に手を当てて表情に陰を纏わせる。
「もともと太りすぎだから」
「そうかねえ、アタシみたいなだらしない肉の着き方じゃあるまいし、あんまし気にしなくてもいいと思うのだけど」
 天音はひとり言で言葉を繋ぐ。
「少ないくせにだらしなくたるんで……どうにかなりゃしないものかな」
 晴香の前では出来る限り美人でいたい、ランニング四日目に天音はそう言った。お化けネコの依頼の時の行動や日中寝転がっている態度を見ている限りは本気というものを感じ取ることが出来ないでいたが、確実に酒瓶の入れ替わりの頻度が落ちているということを知ってようやく本気なのだと悟っていた。
 宇歌は元気だとか世話してみれば案外かわいいものだとか、妖の類いを祓うはずの天音の口から出てくる言葉に対して大した違和感を抱きつつも微笑ましく思えていた。
 息を吸って吐いて、走って進んで景色は流れて。空を吸い込む勢いで息を肺へと流し込んだ。運動というものは勉強に追われる晴香の心に新鮮な嬉しさを、活きのいい安らぎを与えてくれた。いつも決まった時間にいつもふたりで走る習慣、ふたりでならばどこまでも走って行けそうな、どこまで大きな夢でも追いかけられそうな気がしていた。
「なんだいそんなにニヤついて。アタシの走る姿にでも惚れてしまったかい?」
 天音の声は心地よく響いてきた。薄暗い空によく似合う昏めの声は一日の時間が過ぎ去るほどに愛おしい彩りとなって晴香の身体を震わせるのだ。
「何でもない。天音は今日も元気だねって思っただけだよ」
 弱々しい鈴のような声で答える晴香の貌を窺って大きなため息をついた。
「アンタの言葉じゃあ世の中の歩き方の若葉マークは外せないようだね、まだまだ未来のお話かねえ」
 そうした言葉のやり取りの中にも愛おしさや優しさが隠されていて、それが晴香にとって美味な気持ちをもたらす。
 やがて、天音はその目に昨日と同じ可愛らしさを、たぬき地蔵を目にした。晴香もまた、それを目にする。そこで感じた違和感、それを口に出さずにはいられなかった。
「ねえ、これ、動いてない?」
 晴香の語る通り、たぬき地蔵は震えていた。まるで動くことなくじっと耐えてました、もう限界ですと言わんばかりに震え続けていた。
「ああ今日も可愛いじゃあないか。ヒトの姿なんかよりそうやって永遠に籠って居座る御姿こそが様になっていやしないかねえ」
 途端に晴香は目を見開き、そこに映るすべてを疑った。目の前のたぬき地蔵はかたかたと音を立てながら闇に収められた静寂を打ち破って小さな御堂、祠と呼ぶのが正しいのだろうか、そうした曖昧な神の居座る場所から身体がはみ出し始めた。小さく出てきていただけの身体は次第に全体を祠というひとつの境界線を跨いで世俗へと身を乗り出した。
「ほうら、妖怪化けダヌキの来訪ってワケさ」
 天音の言葉がふたりのセカイに遍くのを待ってましたと言わんばかりの勢いで煙をまき散らした。
 晴香は覚えていた、しっかりと記憶の表層のページに書き込んでいた。この煙が消える頃にはあの女が待ち受けているのだということを。
「はーい、昨日も今日も明日も明後日も、二十四時間三百六十五日年中無休の年中無給であなたの心にお邪魔します、スーパー美少女の場岳 キヌでーす」
 登場の言葉は顔に似合わず若々しかった。晴香はキヌの身体の線を視線でなぞっては胸の中に渦巻く黒々とした感情を回し続けていた。整った身体つきに大人らしさを備えつつもほんのりと柔らかな可愛らしさを保ち、明るい茶色の髪に葉っぱをかたどったヘアピン。
 かわいい子は何をしても似合うものだと晴香の嫉妬心は叫び騒ぎ声を心に刻んで音の爪痕を残して余韻を滲ませていた。
 晴香が口も開かない間に天音とキヌの会話はその道を開かれ続けていた。
「はい、タオル」
「気が利くじゃあないか、もしやして妖怪というモノから溶解していなくなって下さるか」
 口と共に手を動かしていた。顔を拭いたその時、天音はタオルの感触に違和感を抱き始めた。触れているような触れていないような、そこに在るような無いような。覚束ない感覚というものは非日常のモノでありすぐさま気づきを与えてくれた。
「こ、ここここれ、妖怪じゃあないかい」
 天音はその手に垂れたタオルを手放し宙に落とした。ひらりひらりと舞う関係の落ち葉となってしっかりと地面を捉えて。
 顔を上げると共にそれは晴香の方へと鋭い視線を向け始めた。
「うう、一反木綿」
「きゃはは、イタズラ成功」
 それから変わり果てる天音の貌、その表情を真正面から見ることは晴香には到底できなかったのだという。
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