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退魔師『雨空 天音』の欲望 1

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 ひとつの大きなテーブルがあり、周囲には大量の酒瓶が立てられていた。ビル群のようにも見えるそこは、ある退魔師の家。
 いつもの通りに寝転がっていた昼前のこと。テーブルの上に紙を広げて頭が痛くなってしまいそうな難しい文字の集合体と向き合う少女と頭を押さえて唸る女がいた。
 女は真っ白な和服を身にまとっていて明るい茶髪がよく映えた。
 一方で少女は黒い髪を紫色のリボンでくくっていた。その姿は蝶を思わせる美しさで茶髪の女、天音にとっては眩しすぎた。
 愛おしい少女をひたすら眺めていた天音は電話が部屋中に音を鳴らして着信を知らせ始めるとともに気怠さのあまりふらつく身体を無理やり動かしてよろめきつつ受話器を手に取った。
 それからの反応それは百点満点の、まさに人のお手本のような最上の笑顔だった。
「晴香、勉強のために動かしているその手をとめな。仕事が入ったよ、軽い息抜きってやつさ」
 軽い息抜き、聞こえはいいが実際に行われることを晴香はしっかりと理解していた。
「ああ、助手ね。私のことこき使うんだね」
 少々機嫌の悪さを感じる棘の生えた声に天音は両手を合わせて頼み込む。
「ほら、この通りさ、二週間も離れ離れで寂しかった中でこんな話はよろしくないかも分からないけどもさ、お願い申し上げるってとこさ」
 その様子を片目で眺め、その目を閉じる。
「いいよ。でもね、これだけは誓って」
 続けられた言葉に天音の顔はみるみる赤くなって熱を帯び、内側の何かが騒ぎ始めた。つまり冷静ではいられなかった。

 二週間後、私と水族館いこうね

 その言葉は何よりも熱くて甘い不思議な呪文。天音に激しい誘惑を魅せつける。抗う術など何一つ持ち合わせていなくて、抗う意志など微塵にも湧いてこない、存在しない。
 如何に退魔師として活動してきた経験と記憶を巡らせたところで敵うものではなかった。


  ☆


 受験勉強を中断した晴香と二日酔いに頭を揺らされている天音、ふたりが向かった先は一軒の白い家。立派な佇まいは一目で金の匂いを味わうことができた。
「お金持ちかな」
「成金だったら面白いものだけどどうかねえ」
 家の前で呼び鈴を鳴らす前に天音はひとつの本音を重ね続けていた。
「酒来い酒飲ませておくれ酒を寄越しな酒が報酬酒で依頼こなす」
 一つの口、一つの意思を幾たびもの言葉の積み重ねによって放ち続けていた。
「天音お酒のことばっかりじゃん」
 晴香の言葉にはしっかりと反応を示した。
「アタシはお酒が常備薬なのさ。あれがなけりゃ生きていけやしない」
 依存している、隣りの退魔師の事実に晴香は怯えつつ呼び鈴を鳴らす。
 いちにのさんのしのごのろく、いくつ数えただろう、しばらく待っていたふたりを出迎えるべくドアが開いたのはそう言いたくなるほどの時間の経過ののちのこと。
 一体どのような職に従事する人物なのだろう。現れたのはスーツを纏った若い男だった。
「退魔師さまでございましょうか」
「退魔師雨空 天音、酒……霊の匂いを嗅ぎつけてただいま参上」
 本音が漏れかけていて惨状は一寸先といったところだろうか。晴香の耳打ち、優しい囁きによって欲望丸出しの姿勢を咎められて天音は一度、大きな咳払いをして言葉を続けた。
「さて、ちとばかしアンタの家に憑いてらっしゃるお化けでも見てみるとしようか」
 男に招かれた部屋、天音のものと比べるとあまりにも大きな違いに潰れるほどの衝撃の圧がのしかかってくる。白い天井は常に美しく保たれていて、壁には茶色と黄色で組み合わされた地味ながらも高級感のある模様が並び、清潔なキッチンに収まって眩しい輝きを持つ流し台。
 晴香は感激を覚えつつ天音の方へと含みのある視線を向けていた。
「なんだい? こっちなんか見て、アタシを愛の熱と照れで照り焼きにでもなさるおつもりかい」
 目は逸らされた。天音のみすぼらしい部屋と今ここに、目の前に広がる豪華な部屋。どうしても見比べてしまっていた。
 白くて単純な和服を纏った女は手帳と黒光りする万年筆を取り出し男に問いをぶつけてみる。
「はて、如何ような悩みをお持ちなのやら。アンタの悩み、アタシに聞かせな」
 訊ねられて何を思い出したのだろう。苦い表情を浮かべながら男は語る。
「実は、幽霊が出てだな」
「ほうほうそれで?」
 男は肩を大きく震わせていた。落ち着きがなくて感情の乱れが丸見えで。そんな男は息を大きく吸って静かに吐く。覚悟を決めたようで重い口をようやく開いた。
「水の入ったペットボトルが倒れてたり鮭が出たら半分くらい減ってんだ。まるで昔の飼いネコが食べたみたいにな」
 そのような会話が進んでいる内に晴香は宙に浮いているネコとじゃれ合っていた。そんな彼女の行動など見てもいないのだろうか、一対一の会話は続けられてゆく。
「ふうん、そりゃあ……酒呑童子のイタズラだね。鮭はおつまみ水は割るため。グルメな酒飲み小僧め、大層ハイカラなものだねえ」
 男は天音に疑惑の視線を向け始めていた。
「昔の飼いネコと同じつってんだろ、詐欺師め」
 事実を確認しないまま真実を叫ぶ男に対して余裕の笑みを浮かべつつネコのお化けとじゃれ合う愛おしい少女という破壊力抜群の可愛さを誇る光景を目の端に捉えながら意見を述べる。
「関係ありゃしないよ。確かにアンタの中で昔のことと今が結び付けられてそう見えるかも分からないけど」
 それから付け加えられる天音の言葉は欲を示していた。
「酒飲み小僧をおびき寄せるためさ。酒を寄越しな」
 霊が見えないこの男には天音の言葉を信じる以外の道が示されていなかった。そうしたやり取りの傍らで晴香は正座をしてネコのお化けを寝かしつけようとしていた。
「宴会さ開けば出てくるんじゃないかい? 小僧のくせしていっちょ前に酒なんか飲んでんのさ。とにかく酒を寄越しな」
 またしてもこの女の口から酒という言葉が出た。それだけはしっかりと押さえていた。
「酒のことしか頭にねえのかよ」
 途端に天音の眼は鋭く尖り、男を突き刺し始めた。
「彼奴らはみんなそんなものさ、天狗とか化け狸とか」
――うわあ、天音お酒の話しかしてないよ
 強烈な意見と晴香の呆れが混ざり合って奏でられる空間の香りは何とも言えないものだった。
「酒割り用の水とつまみ、なら酒自体は自前かも分かんないねえ、ひとまず宴会開きな。イマドキのアルコールの洗礼を浴びせて祓おうって作戦さ」
 そうして幕を開けたふたりの飲み会。それを見つめる晴香とネコのお化け。ネコのお化けを撫でながら疑問を頭に思い浮かべていた。この件をどのように閉じようというのか。
 飲んで食べて爽やかな笑顔を輝かせながら雑談で場をきらめかせる。そんな姿を晴香はネコのお化けを撫でながら見守るように、そしてどこか寂しさを感じながら眺めていた。晴香を置いてけぼりにして振りまかれる明るい雰囲気に嫉妬していた。
 想像つかせぬ終わりは突如訪れた。話の流れが遅くなり、天音の口は会話を繋ぐことをやめて立ち上がる。
「さあてと、お出ましのようだね、酒飲み小僧」
 堂々たる姿勢で向けた視線の先にあるのはただの空気、晴香の眼にはなにも映らない。霊感では見ることも叶わない。つまるところそれは天音が作り出した架空の酒呑童子。
「この扇子が目に入らぬかってね。一瞬でおかえり頂こうほらほら回れ右」
 扇子を開いて現れた濃い青の端から爽やかな青、空の色を経て白へと根本へと進むごとに色素を失うデザインのそれ。青の色彩を世界へと広げるように扇いで追い出すようなしぐさと迫真の瞳を見せていた。
 それから十分近くが経ったであろうか。天音は男の方へと向き直って不自然な笑顔を向けた。
「これでもう大丈夫、酒飲み坊やはもう永遠におねんねのお時間さ」
 そう語る女の詐欺退魔業務は幕を閉じようとしていた。
「待った天音。ダメだよ、この子もどうにかしなきゃ」
 そう告げる晴香の手に収まる可愛い生き物を見つめ、引き取ることにした。


  ☆


 男の家を後にして詐欺行為を一時間に渡って咎めた。勿論男に対しては『お代は千円で』と告げたうえでのこと。
「それだと相場の半額以下にしかなりゃしないのだけどもどうしてくれるんだい?」
「特別割です」
 ただ単に酒の値段が分からなかった、それだけの事実も告げられずに過ごした煙のようにすっきりしない時間ののち、天音の家にたどり着いて中へと入り込む。
「はい、宇歌ちゃんここが新しいおうちだよ」
 聞いていなかった話、想定外の出来事に天音は慌てふためく。
「ちょっ、待ちな。アンタこの子をアタシに飼わせるおつもりかい? しかもよりにもよって『うか』なんてやめな」
「いやです」
 かつて稲荷様、宇迦之御霊神に無償依頼をこなすように向けられた天音としては決して聞きたくない音そのものだった。
「はい、雨空 宇歌ちゃん。ごはんだよ」
 晴香の屈託のない笑み、それに対して返す言葉のひとつも思いつかない天音だった。
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