その刹菜に

焼魚圭

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第二幕 ――パンドラ――

移動

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 暗転した視界の先には光は戻るものだろうか。他人という媒体が扱う能力による時間移動。果たしてその影響に命は保たれるのだろうか。機械の中でも死を引き金にした保険は動くのだろうか。不安が連なって更なる不安を引き寄せ、里香の心を更に深い暗黒の中へと手招きする。
 このまま見えてこないのだろうか、このまま永遠に抜け出すことが出来ないのだろうか。ネガティブな情に引きずり込まれては永遠に戻ることが出来ないのだろうか。
 暗々とした孤独の澱の中にて漂うことどれだけを経ただろう。ひとつの光をようやく見いだして、そこへと向かって歩き始めた。

 そうして開かれたのはきっと大きな瞳だろう。初めは薄らと開かれ光が鋭く切り込んできた。続いて大きく開かれて鋭かった光が鈍くなっていく。流れるように物の見方が変わって見ている時間までもが変わったこの時に朦朧と生きている目的の記憶を緩く結び付け、思考を鮮明に研ぎ澄ます。
――そうだ、今は楓の家に行かなきゃ
 楓の家になど行ったこともない彼女の中に如何なる策があるのだろうか。
「何をする気か知らないが、記憶が繋がってる以上は余計なことさせない」
 そうは告げるものの、覗き込みが明らかに不完全なことを里香はとっくに分かっていた。完全に覗き込むことが出来るのなら思考の隅々まで読み取ることが出来るはず。しかしながら彼女は思惑を明らかに見ていない。
――どの記憶が繋がってるんだろう、見てるものだけかな
 視覚が繋がっていることは間違いない。もしも敵が絵海だったら癖で行動の予測までつけられていたかも知れない。想うだけで鳥肌が立ってしまうものだった。
「楓の後をつけるよ」
「なるほど、学校の時間は大丈夫かな」
 時雨の言うとおり、今はきっと学校にて授業が行われていることだろう。この日はアイドルのライブの翌日なのだと言う。時雨の指定が無ければ確実に確認できないこの時勢。
「一応言っておこうかしら。何を見て何を聞いてるか、このふたつは把握しているの」
 飽くまでも視聴覚の記憶のみ。この事実が里香の脳裏に希望の雷を走らせた。
――つまり、何を考えても無敵
 恐らく持ち合わせている装置だけではそれが限界なのだろう。人物の完全把握は程遠い。
「全ての感覚を把握することが出来るなら対象者の感覚を完全に狂わせる実験も出来るというのにね」
 時雨の話によれば全ての人間を思い通りに扱い、全ての人物の器を特定の集団の身体に変えてしまうことで不死を仮実現させる計画までもが立ち上げられているのだという。
「そんなこと私に話してもいいの」
 里香の疑問が投じられると共に時雨は鋭い笑みを返して見せた。
「構わない、噂話レベルで広がってるもの」
 そこから更に言葉は繋がり里香の脳裏に更なる不安の影を持ち込んでいく。
「噂になればそれだけ認識を広げることが出来る。知っているだけでも感情、即ち脳の電気信号が現象を強く把握してくれるの」
 どういうことだろう、首を傾げる里香に対し、説明の雨は更に強く降り注いだ。
「電波や周波数を合わせやすくすることで乗り移りの波を人々が受け取りやすくなる」
 途端に寒気が走った。背筋を這いずる多足の寒気は氷のよう。そうした感情の知こそが彼らの計画の成功率を大幅に上げるのだと確かめて更におぞましい感情が走り続けた。
「ほら、向こうに見えるかしら」
 時雨の指す方、よく晴れた空、雲すら寄せ付けない清々しさの塊に目を向け里香は微笑んだ。
「綺麗な空、いつもそうだよね」
 呑気なことは良いことなのだろうか、少なくとも今の状況では良いこととは言い難かった。
「何も見えてないからそう言えるの、認識してごらん、そこにあるものを、黒山羊の角の生えた大きな山羊の混ざった女性の姿を」
 里香の微笑みは急速に凍り付いていく。言の葉は魔法なのだろうか、先ほどまで清々しかったはずの純粋な空、そこに大きな角の生えた女の姿をみた。
「確か向こうって牧場」
「そう、山羊と人間のふたつにかけた呪縛、認識や能力によって創られたそれは果たして何次元かしら」
 あまりにもおぞましい。今は静寂を保っている幻であるがために脅威たり得ないものの、もしも多感な時期にある人々を中心に噂が流れてしまったら。初めは霊感の強い人物、従来の現代人が感じ取る事の出来る波よりも更に広い範囲を視認する事の出来る人物たちがそこに脅威を見ることだろう。やがて中高生が面白がって年頃からして敏感な感覚を奮って確認するだろう。
 そうして広がり続けてやがてはローカル雑誌、地域新聞、下手すれば未確認生命物体として面白おかしく取り上げられる。
 無から命を生み出してしまうという現象の始まりをその目にしてしまった。
「今は何もないわ。だから今は次元の話を」
 完全にズレているとも言い難い、しかしながら今必要なことからは明らかに逸れてしまっていた。
「次元の話より先に今の次元の実験なんでしょ」
 里香の言葉にはっとしたのか、ようやく今を見つめ始めたようだった。
「ついつい喋りすぎたわ、じゃあ、楓の家の特定をどうぞ」
 告げられてからの行動はあまりにも素早かった。おおよその位置は既に把握済み、細かい場所に関しては足で突き止めるほか無い状況、里香は一定の範囲の家を見て回る。様々な漢字が家を囲む壁やポストなどに張り付けられていた。それをひとつひとつ確認していくという作業に時雨は呆れを覚えながら特に言葉にすらなっていない唸りを独り言として出し続けていた。
「はいはいそんな反応なんかしないで」
 そうは言われたものの時雨にとっては無駄の多すぎる時間、楓にこだわる必要性を感じられずにただただ不満を声にして言葉にならない音として零し続けるだけのことだった。
 やがてその無駄にも終止符が打たれることとなる。里香は目を輝かせながら福津と書かれた表札に目を当てている。その様はあまりにも無垢な乙女の色をしていた。そんな雰囲気が時雨を刺し続けているということを里香はまだ知らなかった。もしかしたら永遠に知らないのかも知れない。時雨は悟らせるつもりなど一切持ち合わせていなかった。
「じゃあ、中に侵入したいんだけど、出来ないかな」
「三次元……現・空間移動」
 告げると共に里香の目はこれまで見たことも無いような景色を捉える。壁は壁で何かが張られているわけでも掛けられているわけでもなく、これと言った飾りも見られない。そこは年頃の女子の部屋というにはあまりにも可愛らしさが無くて、しかしながらそんな楓の心の模様にますます惹かれてしまう里香の姿があった。
「これは良くないわね、まるで男の部屋みたいじゃない」
 そんな言葉にも否定出来ることが見当たらない。もう少しかわいらしくとは思ったものの、単純に金が無いのかも知れないとも考えていた。
 そんな勉強と就寝程度が関の山である楓の部屋のテーブルに置かれたラジオを手にして里香は次の指示を出す。
「これを昨日の夜に持っていくよ、持ち帰るのを忘れたっていう体で楓の机に置く」
「なるほど……日曜日に置いたということになるわ、おかしいんじゃないかしら」
 確かに時雨の言うとおり。そのまま置いて次の日に楓が目撃する光景は休日の昼以降にわざわざ学校へと侵入した形跡だろう。
「その方が不思議な感じが出ていいと思うの」
 飽くまでも感想、感情論。純粋に悪戯心で掲げたそんな想いもまた、時雨には無駄でしか無いという結論に至る。
「好きにすれば良いわ、少しくらいの無駄であなたが満足してくれるなら問題ないわ」
 それから執り行われる移動は時間と空間の両方。時雨の脳にはあまり負担がかからないものなのだろうか、疑問を口にすることすら叶わないままに移動は無事に行われた。

 続いての舞台は日曜日の夜。里香は消えゆく街灯の中にてひっそりと生き残る明るみに包まれながら紙に鉛筆で文字を書き込んでいく。
「よし、これで準備完了」
 里香はどこまでも愉快な表情をしていた。微かな明るみの中の大きな明るみ。里香は真夜中でも太陽のように明るい笑顔を咲かせていた。
「じゃあ、今から楓の机に置きにいくよ」
 告げられるままに移動を開始する。もはや時雨は里香に振り回されるのみ。都合に合わせて動く便利な足と化していた。
 楓の所属するクラス。それを一纏めに収納する教室。大きな生き物のように口を開けることもあるそれは今はしっかりと錠を施されていた。
「やっと着いたね、待ってたよ、楓」
「わざわざ楓に言うなんて、この場所にいたかしら」
 もしそうなら幻覚、彼女の言葉には里香との感情のズレが多々見られる。今もまさに大きなずれを感じざるを得ない時となっていた。
「無駄でも良いんだよ、あなたはもう少しそういうことも覚えるべきだよ」
「そういう事って」
 楓の机にメモ用紙とラジオを置いて、時雨の口から目から飛ばされる反応に耳を傾け里香はそのお堅い感情の持ち主の柔らかな頬を指で挟んで引っ張り上げる。
「せっかくカワイイ女の子に生まれたんだからもっと力抜いて『私はカワイイよ』って雰囲気出してかなきゃ」
 それはどこまで伝わっただろうか。きっとこの女ではある程度の理解を示すに留まることだろう。
 しかしながら里香は出来ることをやる、ただそれだけ。

 ひとつの実験を経て得られた結果を口にする。
「私の見立て通り、里香の記憶を持っていればそこに動くことも容易いわ」
「タイムスリップってそんなに確実なものが必要なの?」
 里香が呈した疑問に対して時雨は表情を変えることなく淡々と告げる。
「私の場合はタイムスリップにそれだけの事が必要なだけよ、出来る人は出来るらしいもの」
 これ以上の追求は避ける。恐らく脳の機能の適正だったり認知能力の差、異能への理解度といった単語がずらずらと並べられて里香の事を困らせるだけだろう。こうした説明や言葉だけでも理解出来る速さや飲み込める量が異なるのだ、異能に関しても人の頭で扱われている限りは同じ事なのだろう。
 難しく考えることなくただそっと仕舞っておくだけ。今の里香にとって最適な行動はそれひとつだった。
 実験のひとつは成功した、そう告げて時雨は次の実験へと取りかかろうとする。
「さて、続いての実験はね」
 次はどのようなことを試すのだろうか。里香には想像も付かない世界、なにやら難しいことを考えることを仕事としている人物が機械の外で必死になって考えたことだろう。そんな自分たちからかけ離れた世界に住まう者たちがいかにして理論や実験に求める行動を簡単に纏めたものだろうか、時雨は里香の顔を覗き込む。その瞳の力はいつでも同じ強さ、強まることも無ければ萎んでしまうことも無い。
 安定と言えば心地よいのかも知れないが実際のところは味気がない、と述べるのが適切だろう。
「あなたに認識を変えてもらうところから始まるわ」
 認識を変える、それは果たしてどのようなことなのだろうか。
「五つめの次元、それはね、パラレルワールドを見ると言うこと」
 飽くまでも観測までの権限を開くこと、それが五次元の領域なのだという。
「あなたは時間移動したわ。そして死の結末を避けて更には幸福を手繰り寄せた」
 そう、確かにこれまでの行動はそう。死から滑り落ちる能力、ネクロスリップの正しい使い方そのものだった。
「さっき言ったとパラレルワールド、それは様々な可能性が分岐した世界。想像力をもつ全ての生物が観測する可能性を持ってるものよ」
 そこまで言われて里香ははっとした。
 自らが動いて改変した結末たち、言い様によっては変える前の死の運命のことをパラレルワールドと呼ぶことも出来るのではないだろうか。
 時雨は里香の顔を見つめ続けたまま、口を動かし続ける。
「私が見てるのはあなたの記憶でその中の可能性の世界。実物を見ているわけではないの」
 つまり、記憶越しではない里香自身が見た世界をその目で観測したいのだと言うこと。
「あなたの死の結末の運命を見せて、そして飛ばせて、行くことが六次元の権限だから」
 それはつまるところ、里香の死の運命をもう一度味わえと言うことだろうか。
「お願い」
 もはや実験器具と変わりない、断ってしまいたかった。しかしここは敵地、抗うことがどのような結末を導くか想像の及ばない彼女ではなかった。
「分かった」
 それから想像するのは里香自身の苦痛の記憶、終わりそのものだった。
 あまり急がない方が良い、あまり急な死が訪れないものがいい。そう思いつつ選んだのは能力を一度も使った事のない場面。初回であれば動きさえしなければ運命を回避できる、そんな想いが無意識のうちに浮かんできてしまっていた。
「では、その記憶、パラレルワールドに飛ぶわ」
 そう告げてから寸でのこと、景色がかき混ぜられ始めた。グニャグニャと曲がり、あるところでは渦を巻き、またあるところは破れて見えなかったはずの景色と混ざり合う。
 これは果たして成功するのだろうか、不安が心を覆って影を作るものの、里香はただ信じることしか出来ない。信用するには人柄さえよくつかめていない彼女はあまりにも心細かった。
 それでも時が過ぎてしまえば普通に景色は整っていく。里香の視界をお出迎えしたものは、始まりの日の景色、あの日の校舎だった。
 灰色の髪をした女が通り過ぎていった後の時間。この後下校中にトラックが襲いかかってくるという段階。
「成功かな、こうした移動が出来たからこそ見えてくる他の可能性もあるの」
 次こそが真の異界、そう思わされるような言葉が突如現れた。
「機械世界の管理人かつ計算ツールの読み解きプログラム少女の月夜、彼女が弾き出した計算結果に不思議な世界の予測があった」
 曰く、ビッグバン以外で生まれた可能性の宇宙。他にも物理法則や下手すれば始まりの条件すら異なる宇宙があるのだという。
「月夜さんっていう人が私の記憶まで保存してるのかな」
「そういって差し支えないわよ」
 里香の疑問に手早く答えつつ、次の次元を切り開く鍵を探しているのだと告げた。
「これから探す次の次元はビッグバン以外の可能性。これはあなたは何もしなくていいわ」
 それは彼女なりの休憩時間の提示なのだろうか、とてもそうは思えない、やはり彼女たちの、実験者たちの都合だけで動かされているように感じられた。
「私は月夜の力を借りて七次元にアクセスする」
「その前に一回元の世界に帰った方が良いんじゃないかな」
 里香の言葉をどのように拾い上げたものだろうか。時雨は表情も変えないまま事実だけを告げる。
「別に戻らなくても動かなければ死にはしないわ」
「戻りたい」
 はっきりと告げなければ伝わらないのだろうか、疲れなのだろうか人柄なのだろうか。きっとそういう人物なのだろう。里香の中での時雨に対する印象は浅い触れ合いだけで無理やり塗り固められていた。
「分かったわ。一度戻りましょう」
 思い返せば戻らなくても月夜との通信は繋がるのか。機械との通信が別世界でも出来るのは素直に凄いと感心していた。
 再び世界はかき混ぜられる。元の場所が視界に収まっていくかのように、あの見慣れた景色が作り上げられていった。
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