その刹菜に

焼魚圭

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第一幕 ――未来改変編――

過去閲覧:時の針

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 鳩の羽ばたきが、自然界に住まう優しい音が現実に引き戻した。意識を失っていたのだろうか。そうでない事などとっくの昔に理解していた。意識を引き戻された瞬間、学校の廊下に立っていたのだから。里香は虚空の心で景色を見つめていた。その事実だけを受け止めて辺りを見回した。
 幾つもの木の板を張り付けて造られた床や見るからに固そうな白い壁、外の景色を見せるように穴を開けるようにはめ込まれた窓。
 見るからに学校の廊下。明らかに平和な景色そのものだった。
 里香は首を傾げながら己に訊ねる。
「さっきまでの、夢だったのかな。それとも今が夢? それか走馬灯か天国かな」
 里香の脳にはしっかりと刻み込まれていた。あの日あの時の光景が再び流れ出す。

 歩いていた時のこと、目の前をゆっくりと歩く灰色の髪をした背の低い少女と擦れ違う時に彼女は言っていた。
「……異能力者か」
 その時も同じように首を傾げていた、当然のように分からないもので、大きな仕草で沈黙の疑問を投げかけてはみたものの、その少女は既に里香の顔すら見ていなかった。
 不思議な出会いがあってからというもの、それから不思議なことはそう起こらない、今日の中でも最もおかしな瞬間だと思いながら足を踏み出し学校を出ながら歩き続けては十年以上見続けて見飽きてしまった日常風景に目を通し、角を曲がる。その瞬間の出来事だった。
 けたたましく響くタイヤのスリップ音に耳を叩くクラクション、更には大きな体が迫ってきているという事実。それらが迫り来て里香の脚は棒のように固まってしまっていた。動くことが叶わなかった。

 そうして意識を取り戻したそこは何故か学校。
 里香は自分の身に今起きていることについてどうにも正しい言葉を当てはめることが出来なかった。
 里香は間違いなく一度死んでいた。
 廊下を歩き、一本の通路は枝分かれして。里香は右へと曲がりながらあの少女に会いたい、そう思っていた。
 先ほどよりも少しだけ進んだところだろうか。灰色の髪の少女はその小さな身体で歩みを進めていた。揺れる紺色のスカートの方が少女本人よりも派手に見えてしまう、セーラー服が不自然に膨らんで見えるのは大きめのサイズを着ているからだろうか。
 歩みを進めて里香は少女とすれ違う。その時、待っていたと言わんばかりに、決められたセリフと言いたげに呟くのだった。
「……異能力者か」
 少女の低い声は空気をも冷やすほどの落ち着いた響き、というよりは沈み切った響きをしていた。
「あのすみません、私、この景色とその言葉、知ってるんです」
 不思議な言葉に対して放つべきものは不思議な言葉。少女は里香の顔を横目で覗き込む。目の下には濃いくまが刻み込まれていて永遠に取れそうにもない。そんな日頃の疲れを知らせるくまと宝石のように透き通った紫色の瞳が里香の心をつかみ取った。
「予知能力か、曖昧なモノまで含めたら一番多い」
 夢を見て、ふとしたところで予感よりも強い予感のような何かを感じ取って遭遇しては思い出す。弱い予知能力の流れは基本的にそうなのだという。
 里香は口に含み待機させていた反論を一度少女の言葉を飲み込むことでようやく吐き出した。
「違うの、私のは。予知じゃない」
 少女は固い顔に似合わない柔らかな笑いを浮かべながら答えを返してみせた。
「分かってる。微弱な予知なら私が気付くわけないしあなたの反応も予知をしてきたわけじゃなさそうだ」
 予知の経験者であればこの程度の言葉では動じないだろう、それが少女の出した結論だった。そこに更なる言葉が、全く異なる言葉が挟み込まれる。
「私は福津 楓。五つの異能力を使いこなす世にも珍しい複合能力者だそうだ」
「私は朝倉 里香。さっき死にました。転生先は同じ世界の死亡ちょっと前」
 途端、楓は目を見開いた。紫色の目は里香をしっかりと捉えたまま目の下のくまは張り付いたように目の下をなぞり続ける。
「タイムスリップの派生……きっと死が決定されるのが発動条件のタイムスリップ、ネクロスリップとでも呼ぼうか」
 死から滑る時間のチカラ。本来遡ることも許されない時間というものを、変えることの出来ない運命というものを変える能力ということだった。
 とにかくだ、そう付け加えて楓は里香に無気力気味な微笑みを投げかけた。
「生きてるだけおめでとさん。帰りは気を付けて」
 そうして学校という場所をひとり去ろうとする楓。しかしそれは叶うこともない話。手を握りしめ引き留める少女の姿がそこに在ったのだから。
「私と一緒に帰って。少し怖いから」
「私の顔は怖くはないんだな」
 冗談めかした発言は遠回しに早く帰らせてと言っているように聞こえたものの、ここで引き下がってしまうわけにはいかない、何故だかそう思っていた。胸騒ぎが絶え間なく押し寄せて来るのだった。
「怖く……ないよ。そもそも暗い顔してるだけじゃん、カッコいい顔してるからって陰鬱纏っても冷静装っても誰が怖いって言っても私はお見通し」
 人差し指を突き出す仕草から星が散るような可愛らしい印象を抱かせる。それが里香という女だった。
「で、私にそこまで話すってことは……死んだんだな」
 楓の問いに頷く他ない、そう、先ほどトラックに轢き殺された。それを伝えるとともに楓の表情に更に大きく深く濃く苦しい影が纏わりつく。
「そうか、じゃあもうそこは通らないように」
 楓の忠告は何処までも単純な方向を示していた。一直線だった。実際里香も次はそうするべきだと結論を出すはずだった。
「いや、もしかすると私と話した時点でトラックは通り過ぎてるだろう。ならいつも通りで問題ないか」
 訂正された言葉、それこそが最も単純。もしかするとこの少女と話すこと、死の回避に取る行動はそれだけでいいのかも知れない。先ほどの死の前では知らなかったはずの自身の能力に加えて他の能力者の存在、更にその能力者と仲良くなったということ。
 既に、運命は大幅に道筋を変えてしまっていた。
 ゆっくりゆったりと歩いて行く内にたどり着くは下駄箱。そこで当然のようにローファーに履き替えて、里香に目を向けた。紫色の瞳は堂々としていながらも奥の方から滲み出るか弱さが隠しきれずに溢れ出ていた。目の下のくまが更にそれを強調していておまけに背が低くて身体全体がほっそりとしているというさま。
 まさに弱々しさのバーゲンセールとでも言い表すことが出来るだろうか。そんな楓のやつれを思わせる立ち姿に心を掴まれ手を掴む。
「そうだせっかく名前まで知った仲になったんだし一緒に帰ろうよ」
 里香の言葉は楓の心をどう揺らしたものだろう。一度大きなため息をついて盛り上がりを見せない冷め切った響きを持つ声で答えてみせる。
「名前知った仲って、クラスメイト全員と帰るつもりなのか」
 開かれた口から飛び出した極論は里香の笑顔を崩すことなく飲み込まれてしまった。里香は楓の手を両手で挟みながら更に会話を繋ぎ続ける。
「いいじゃんいいじゃん楓だけ特別ってことだよ私たちの仲だよ」
「待てまだ会って一時間も経ってない」
 里香の態度と温度について行けない、手の柔らかな感触とひんやりとした温度は確かな優しさを運び込むものの、仲良くなることに対して積極的なことも理解できてはいるものの、どうにも心の歩幅も速さも違い過ぎるように想えて仕方がなかった。
 そんな楓の気持ちなど確実に知らないまま里香は感情を振り絞り続けていく。
「あんまりそういうこと言わないで深く気にしないで、友達同士なんだから頭ぱっぱらぱーで行っちゃおうよ」
 言の葉に引かれるように手を引かれ、里香の胸の大きさとふっくらしつつも形が過剰なまでに整った身体に惹かれて子どものように可愛らしい顔に魅かれて遂には表情の明るみにまで強く引き付けられて。
 悪意のない、妖気もない、そんな陽気に魅入られてしまっていた。
――はあ、惚れるの早すぎだろ私、しかもオンナノコ同士
 心の中で吐いた悪態に同性同士の煌めき。どちらも心の中に閉じ込めて今は目の前の景色を紫色の瞳で追いかけ続けて全身で想いの向こう側へと前進して、しばらく歩いてたどり着いた曲がり角。
 突然、楓の耳は轟音に襲われた。
 右から迫り来る音は果たして何者か、刻まれた鼓動、地を殴りつけるように叩き込まれた音がさらに大きくなり行く。
「まさか」
 楓は途端に里香の腕を引いて抱き締めて、目の前を切り開く道路を横切るトラック、暴走しながら狭い路地を左へ突き進むその姿を目に収めながら崩れるように地にへたり込む里香の支えとなる。
 里香は目を思い切り見開いていた。力なく開かれた口から声すら零れることなく、弱った喉は空気を吐き出す音に震えていた。
 里香が腕を引かれていなければ、里香はあれに轢かれていた。
 運命は里香をつけ狙っていたのか。
 楓はトラックを睨み付けて、その光景を目の当たりにして右手を思い切り突き出した。
「出て来い、異能力者」
 トラックの窓ガラスに突き刺さっている黒い針のようなもの、それが何を意味するものか、針を引き抜こうと思うものの警戒の糸を緩めることが許されない、うかつに動くこともままならない。警戒はどこまで意味を成しただろう。里香は楓を見上げ、声を上げた。
「危ない、上」
 警戒心が役に立ったとは到底思えなかった。焦りを見せつつも楓は空を仰いだ。その視界を埋め尽くすものは茶色。それは大きくなる、大きくなる速度を上げながら、空気のすり抜ける音を微かに上げながら、確実に近づいて来る。
 そうして落ちて来るものを見つめ、楓は思い切り睨み付けた。
 その瞬間のことだった。大きくなるそれ、落ちて来るものは動きを止めた。重力に身を任せていたそれを楓は手元に引き寄せて確かめる。茶色の物体、中には黒々としつつも少しだけ茶色がかったものが詰められていてそこから可愛らしい黄色の花が咲いていた。
「植木鉢」
 言葉にして確かめて、観察を続ける。植木鉢の茶色から突き出たものは同じく黒い針。楓は針を引き抜いてその目に厳しい感情を、乾いた警戒網を張りながら観察を続けた。針だったものはいつの間にかその鋭さを失い艶やかなものへと、正体を知ると共に楓の心の底に深い不快感と黒々とした嫌悪感を挿し込み産み落とす。
「髪の毛」
 見知らぬ人物の髪、得体の知れない存在の残し物、もはや触れていたくなどなかったものの、手がかりになるかも知れないそれを手放すことなど出来なかった。辺りを見回しながら小さくありながらも強張った身体を震わせ強い声で吠えて辺りを震わせた。
「どこだ、何処に居る、里香を狙うやつ、どこだ」
 呪文のように唱えながら目を凝らし、必死に探し続けて更に言葉を零して落として里香の心にまで刻み付ける空気の震えと変えて行った。
「教え込んでやる、人を殺すことが他の何人もの人を不幸に陥れるってことを。今まさに私を不幸にしようとしたってな、痛い目見せてやる、怒りの炎で怒りの雷を」
 声に滲む棘が怒りのカタチ、言葉に表されたものこそが怒りの箱。開けてはならないものを開けてしまった敵は今どこでどのような想いをしているものだろう。
 見渡す。全ての意識を研ぎ澄ませ、周囲を見つめ続け、漂う音のひとつひとつを聞き分けて敵を探る。動きのひとつ、足音から息づかいから服の擦れ合う音まで、敵が残すであろう痕跡は何ひとつ逃すつもりはなかった。
――さあどこだ、見つけたら五つの能力のどれで片を付けるか、選択さえ反射反応の範囲内
 楓は能力を一切止めない、頭の中で能力の放出の動きが常に空回りしていた。能力に関する脳の動きは能力の数だけで大きな負担となる。切り替えもひねり出しもこの世に現わす現わさない、選択を問わず能力を動かすさなかの時を除いては絶え間なく切り替えられる。計り知れない負担の大きさに意識をすり潰されてしまうその時は開戦から七分間。一度能力を発動してしまえば戦闘終了まで能力を待機状態にするのが楓のやり方だった。その都度能力を閉じて開いてなどと無駄な行動を挟むと余計にエネルギーを消費してしまう、電化製品の電源の起動に電力がかかることと同じもの。
 集中力が一度息切れを起こす。楓が息を思い切り吐いて大きく吸ったその瞬間の出来事だった。右から瓦が飛来してきた。明らかに狙ったように右から左へと、まるで吸い寄せられるように。
 楓の意識は途端に研ぎ澄まされて左腕が突き出された。飛んで来る、近付いて来る、みるみるうちに傍へと身体にのめり込もうと素早く手早く恐ろしく。無機物などと一体化することなど楓は御免だった。
 近付き更に近づき近く近く空気が肌を撫でる程の距離感で、瓦は突如動きを止めた。
――テレキネシス
 楓の能力の内のひとつ、物体そのものに働きかけて触れることなく動かす能力。飛んで来た瓦を肉体で受け止めることなく止めるだけの力をしっかりと持ち合わせた能力。動きを止めた瓦、そこに今までと同じ尖った髪の存在を認めてそのまま飛んできた方へと返却するように飛ばしてみせた。
「なるほど、きっと向こう側か」
 推測を頭の中で重ねてひとつの回答を導き出す。繋ぎ合わせた想像は果たして正しい電気の流れとなって正解の灯りを灯すことが出来るものだろうか。
 楓は自身の予想を胸に広がる現実を目に感覚任せに歩き始めた。
「待って楓」
 しっかりと後ろをついて来る里香。それでいい、着いて来なければいつ狙われてしまうものかそれすら分からない。言葉にしてみただけで里香の貌は輝きに満ちて行った。
「大丈夫、どんなことがあってもきっと私の能力なら」
 里香の言葉、それはきっと苦しみ悲しみ待ち受ける終焉という名の通過点の全てを見つめた上での覚悟が込められたひと言だろう。しかしながらそれは途中で切り落とされた。
「ダメだ。これ以上里香は死なせないし私も死なない。ふたりとも満足な状態で」
 命の重みを知っている、例え里香には次があったとしても楓には次はない。里香が向かった先に待っているのは楓と同じ姿同じ心同じ名同じ存在、何もかもが同じ別の人でしかないのだから。
 気を引き締めて向かう。一秒の時の刻みでさえもが大きく貴重なもの、楓の戦闘継続時間はあまりにも短すぎた。
 ただ立っているように見えるちょっとした時間のひとつの内に息切れを起こしてしまう程に危険なもの、命を削られて行く感触に蝕まれていた。
 汗が止まらない、常に張り詰めた意識の中、身体も心も初めから終わりまで悲鳴を上げていた。そうした想いを無理やり押し込めて戦う姿、その真相を決して里香に明かしてはならないと誓っていた。
 トラックの向かう方向、瓦が飛んできた方向、能力の許す範囲は分からない、分からなかったものの、ふたつの飛来物の出発点の中間地点へと向かう。
 曲がり角に立つ、そこに立つカーブミラーを通した向こうの世界、そこで見た光景、ここに映されし景色、何処にも違和感はなかった。そこには楓の予想に従うように少女が立っていたのだから。
 突っ走ろう、即決、それを目指して駆けろ、里香をその場に留めて身体に命令を叩き込み足を踏み出して。楓は己の身体に鞭を打ちつつ動き始める。曲がった途端、少女は嗤った。
 少女の表情の変化、それを合図に楓を囲むように一斉に飛んできた。勢いに身を任せて全員で襲いかかってくるそれ。赤くてすべすべとしたひび割れから黒い尖りを生やしたレンガ、植物と共に針を育てるように刺さる植木鉢、変哲もないはずの園芸用の石にコンクリートブロック。何もかもが少女の意のままに楓を潰し殺してしまおうと企み向かってきた。
 楓は咄嗟にカーブミラーを見つめた。橙色の柱は細くありながらもしっかりと地に掴まれて強さを示しながら立っていた。そんな無機質の柱が震えながら揺れ始める。捻じれ曲がりそこから想いのままにねじ切れて、楓を軸に捉えるイメージで大きな弧を描く。残像を残しながら突き進むそれは襲いかかって来るもの全てを薙ぎ払って地へと叩きつける。
 その様を確認した上でようやく口を開く楓。目の前に立つ少女を睨み付けては火花を散らしていた。飛び出してきた声は灼熱の響きに染め上げられて空気を叩く。
「お前か」
「正解、生活の足しに出来る簡単な依頼だと思ったんだけどね」
 背中まで伸びた髪、それはあまりにも滑らかで美しい。楓を見つめる瞳は目尻が妙に下がっていて黒い瞳には嬉々とした桃色の雰囲気が宿っていた。
 頬を緩ませながら少女はハサミを取り出して鈴のような声を髪とともに風になびかせた。
「大人しく死んでくれればすぐさま四百万だったのに」
「人の命はプライスレス、人の命を奪う仕事もまたプライスレス……その価値は正反対だがな」
 そうした仕事、人殺しに値段を付けることさえ許さずに楓は先ほど地に叩きつけられた植木鉢の破片を手に取り再び駆け始める。
 一歩で少女はハサミを細い指で優雅に動かし、自身の髪を切り、異能力を発動してみせた。その直後、指に挟まれた髪は背筋を伸ばし固くなる。そんな人の態度を思わせる勢いで張り詰めて棘となる。
「髪の毛が刺されば私の物、所有物にはやっぱり名前書かなきゃ」
 語りながら投げられた黒い針、それこそが彼女の能力なのだろう。髪を針に変え、それを刺して物を飛ばす能力、針が刺さったものはあの少女の意のままに糸を引かれる操り人形。
 楓は針を植木鉢の破片で振り払ってすぐさま放り投げる。
 更に駆けるも、距離は詰められるものの、少女の余裕は崩れない。表情を崩し浮かべたいやらしい笑みは、勝利の貌だった。
「もらった」
 少女の目は楓の後ろを向いていた。視線に誘導されて楓は振り返る。その目を出迎えたものは迫り来る破片だった。先ほど楓の防具として使ったそれが敵の武器へと色合いを変えていたのだ。
 迫る迫る迫り来る。灰色の壁に、住宅たちを囲む壁に挟まれた空間の中、破片は楓の紅を求めて身を砕かれても構わないといった様子で勢いよく飛んで来る。
 距離を詰めて目にも止まらぬ速さを保ったまま確実に楓を狙って。
 やがてそれは標的を突き刺そう、そういった時のことだった。
 標的はその姿を消した。
「は?」
 素っ頓狂な声を浮かべて優雅の欠片も残さない表情をその目が叫び散らす。
 何処に居るのだろう。
 少女は嫌な予感で心臓の鼓動を激しく叩き鳴らしながら後ろを振り返る。
 そこに立っていた。小さな少女が立っていた。怒りと憎しみを滾らせ揺れながら睨み付けて来る紫色の瞳は少女にとっては死神のよう。心にまで入り込み噛み砕いてしまいそうな勢いを持っていた。
 鬼の表情を挿し込む楓に怯えを見せてしまう。身体は自然と震え上がり、ついつい恐怖に身を委ねてしまう。そんな中での行動、手に隠し持っていた針を金切り声とともに放り投げる。
「死ね死ね死ね死ねしねしねシネシネシネシネシネ」
 少女の狙い通りに針は楓の右手に刺さる。テレキネシスとテレポート、ふたつもの能力を見せた女とは言えども刺さってしまえば抗いようもない、少女の瞳には飾り付けと自信と煌めく笑みが帰って来ていた。
 楓の右手は針に導かれるままに後ろへと引かれる。途端に楓の顔に浮かべられたもの、それは勝利を掴み取った者の輝きだった。
 表情の変化と共に状況の変化もまた訪れる。手に刺さった黒い針は勢いよく燃え上がり失われた。再び下げられた手。それをなぞり流れる一滴の血が地へと落ち、楓の表情に更なる冷気をもたらした。その表情は既に冬を迎えていると言って差し支えなかった。
「終わりだ」
 制限時間の中で戦いを終わらせる。ただそれだけのこと。相手に情を見せる必要などない。楓は大きな炎を空中に舞わせて赤い景色を作り上げる。散り行く炎、漂い続ける炎、踊る炎。それはまさに炎の葉を着けた空気、空を舞う楓の炎の葉だった。
 少女は目を見開いて駆け出した。あの紫の瞳には既に容赦の文字は消えていた。感情などとうに沈み切っていたのだ。
 そう思い込ませたのが楓の勝利の訪れだった。
 能力を閉じ、跪く。もう立ち上がる気力や体力など何も残されていなかった。
 その姿を目にして里香が慌てて駆けつける。駆け寄って、腕を肩に回して立ち上がらせ、いっそうくまが濃くなった目を、疲れに輝きを失った紫色の瞳を覗き込む。
「勝者が跪くなんて滑稽にも程があるよな」
「カッコよかったよ」
 交わし合う言葉は既に年数を重ねてきた友人のようであり、しかしながら交わる想いは友情とはズレた何か、そうとしか言い表すことが出来なかった。
「それじゃ、帰ろうよ」
「ありがと」
「こっちの言葉だよ、助けてくれてありがとね」
 互いに想いを魅せ合いながら互いに目を惹きあいながら、ゆっくりと歩みを進め、暗闇が深くなるごとに姿を眩ませ続けて、やがては景色の中に消えて行った。
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