上 下
15 / 15

晴天に舞う雲霧

しおりを挟む
 花火が終わる前に、祭りの終わりを目にする前に、人の群れを掻き分けながら進み脱出しようとする。きっと霧葉は霧葉なりに味雲のことを想ってくれているのだろう。想いの差があるとすればそれは味雲本人の問題だろう、その次元にいた。
「ええと、そんなに急がなくていいよ」
 味雲の言葉に霧葉は立ち止まり振り返る。眉をひそめて目元が力なく垂れていて、その表情からは本気の心配を感じられた。
「でも疲れてそうだから、多分初めてのお祭りだから」
 味雲の今の顔を鏡で確認すればそこには酷い疲れを堪えているようにも見える弱り果てた顔が映されているだろう。妙な弱さを湛えた男の顔を拝むことが出来るだろう。弱り顔の正体は困り顔、分からないのも無理はなかった。
 もしかすると自身も疲れに気が付いていないかもと答えを付け加えられて言い返すことも出来ずに歩みを進める。人々の集う草原へと出て来て、味雲は闇の中に暗くて重い靄のような影を視た。
「まさか、こんなとこに」
「お祭りだからこそ現れるの、現に混じりて幻紛れて」
 霧葉がそう言っている間にも影は目の前にいる兄妹と思しきふたりの後ろに立っていた。
「憑りつくつもりかしら。生きてる時から取り付く島もなかった哀れな亡霊がここに来て哀れな仲間を増やそうなんて」
 愚か、そのひと言に尽きる。
 そう話している内に兄妹は足を踏み出し始めた。女が右を指して「あっ、幽霊がいる」と声を上げて兄は妹の肩に腕を回して視界を出来る限り前に向けさせていた。
「そこそこ霊感の強い女の子ね、で男の子のほうはもっと強いのかしら」
 明らかに男の子は妹に後ろを振り向かせないようにしていた、背中越しでも見えてくる感情、仕草や態度が透けて目に見えていた。
「さて、祓っておきたいけど、どうにかして気を引かなきゃダメね」
 そこから取られる行動も発言も、予定外ではあれども実行されてみればらしいと言えるようなものだった。
「これから公園出たくらいのとこでお願い」
 霧葉は言葉を残して味雲から手を離し、幽霊の襟をつかみ取る。力なき兄妹に付き纏う霊を引きはがし、霧葉はゆっくりと歩き始めた。
 霊は霧葉の姿を認めると共に霧葉に纏わりつくように靄を絡みつかせる。その身体をその魂を、果てには心をも侵してしまおうとする極大の悪意は霧葉が公園を出るまで待ってくれるだろうか、そのような容赦など知らない上に知っていたところで行うつもりなど毛頭ないだろう。
 痛ましい、その一言に尽きるはずの霊の怨念がおぞましさを携えていた。いや、きっとおぞましさは味雲の目を通して勝手について来たものだろう、やはり痛ましいの一言に尽きる小さく可哀想な存在でしかなかった。
 霧葉は霊に包まれて靄に締められながらよろめき歩き、ぎこちない進み方で出口へとゆっくりと進む。
「霧葉、無理はしないでくれ」
 味雲の声も既に届いているのか怪しくて不明瞭。何かをぶつぶつと呟きながら歩く姿は周りから見れば狂気の沙汰だろう。このような大勢によって創り上げられる場になど来るな、迷惑だ。そう語る人物もいることだろう。
 出口をくぐり、更に進み行く。踏み出して、踏み締めて、一歩を、また一歩を、積み重ねて行く。
 このまま進んでしまえばたどり着く先はきっと車の行き交う道路。誰もが恐れるであろう結末へと歩みをゆっくりと順調に進めていた。
「霧葉、正気に返るんだ」
 味雲は慌ててエアーガン〈眠れぬ悪夢の夜〉を手にして狙いを定める。撃ち抜くべきは姿形魂存在全て総て何もかもが曖昧な影とも靄ともつかぬモノ。
 しっかりとその目に捉えて、エアーガンで相手を撃ち抜く意志をイメージを強く持って想いを重ね塗りして濃く厚く力強く。
 やがて指は自然と引き金に掛けられ、力が入り、銃口のカタチを無視した弾が撃ち出された。
 それは味雲の目にはのろのろと進んでいるように見えていたものの、霧葉の死への歩みもまたスローモーションに見えていたため相応の速さなのだろう。
 弾は空気を纏って回転しながら空気を引き裂き進みながら狙いの死者へと向かいゆく。
――祭りといったらゲームやってなかったな、くじ引きとか金魚すくいとか射的とか
 どうでもいいことがふと頭をかすめる。余計な思考、要らないもの。味雲はその全てを振り払い、弾丸を追いかけるように駆け出し始めた。
――撃ち抜け、忌まわしきその霊を……在るべき場所へと送り込め!!
 駆ける味雲と弾丸の距離はみるみる離れて素早く進んで行く。
――もっと速く、なんで進まないんだ俺
 味雲は自らの進みの遅さにもどかしさと焦りを覚えながらも追いかけることは諦めない。そうして動いている間にも弾丸は亡霊の身を殴りつけ、共に何処かも分からず見えないところへと吹き飛ばされて視界から葬られて夜空の闇に消えて行った。
 時の流れの遅さは緩み、霧葉が先ほどよりも少しばかり速度を上げてもつれ、味雲の目が捉えるその姿は先ほどよりも素早く大きくなって、やがてその手に彼女の温もりと瞳いっぱいの頬が広がり味雲を充たす。
 どうやら無事に救い出すことが出来たようだった。
 抱き留めて肩に預けられた顔は耳元で口を開き、憑りつかれて述べていたであろう言葉の残響をこぼし広げていた。
「ダメ、もう嫌だ死にたい、ごめんなさい」
 味雲は頭を押さえる。あの亡霊の最期の悲鳴が頭いっぱいに響いてあまりにも鬱陶しくて耐えられそうもなくて。その仕草の流れは言葉を伝って入り込んで来た様を思わせた。


 ――もう耐えられない

 それは女が上げた悲鳴。男が挙げた拳が目に映り、残像を映しながら勢いよく向かってきた。

 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい

 どうして謝らなければならないのだろう、どうして仲良く出来ないのだろう。

 ――イヤだ、死にたくない、痛いよ……痛いよ

 あまりにも生々しい声は聞く者に直接訴えかける本音が込められているはずなのに、目の前の人物は心の端さえ分かってあげようとしてくれなかった。

 ――もう、独りでもいいから、助けて

 かつては愛し合っていたはずなのに、人生という道の釦の掛け違いはいつどのように起きてしまったのだろう。

 分からない、解らない、わからない、ワカラナイ――


 気が付けば味雲の耳に愛しい彼女の枯れた悲鳴は届かなくなっていた。意識を想いの海から現実へと引き上げたそこで見たものは、霧葉の弱り果てた顔、声すら上げることなく、しかし瞳は限界を訴えていた。
 味雲は優しい声で言葉を届けていた。
「帰ろう、こんな気持ちじゃどんな祭りも台無し」
 入り口の向こうでは未だ喧騒が止むことなく盛り上がり続けていた。きっとふたりの体験などこの広い世界からすればほんの些細な出来事のひとつに過ぎなくて、他の人々の目には耳を傾け想いを馳せるほどの価値を感じられない程度のものなのかもしれない。
 それでも今ここにいるふたりにとってはあまりにも重たくて大きくて。ひとつの出来事というものを知ってしまったが為に遺された爪跡はあまりにも深くて鋭かった。
 ふたりよろめきながら歩き、バス停へと向かって行った。霧葉の言葉によれば味雲の家に泊まりたい、その想いの色は疲れた味雲のとって眩しくありながらもこれ以上深く塗り詰める気が起きないものだった。一切手を出す気力も想いを弾ませる余裕もないからこそ素直に飲み込むことが出来たことだろう。
 やがて訪れたバスは口を開きふたりの姿を丸飲みして進み始めた。次の日の学校のことなど考える心の余白も残されていない、もしかすると目が覚めたその時には遠くで教師がチョークと言葉で時を染め上げているのかも知れなかった。
 バスは走る、暗闇の中を、見えない道を正面だけ照らしながら進み、次から次へと人々を目的の場所の近くへと。
「ミクモには分からないかも知れないけど、私、夜出歩くの凄く苦手、怖い」
 霧葉の価値観は味雲には確かに分からない。話によれば同級生が夜ひとりで狭い道を歩いていたら男に話しかけられたのだという。
 そうした出会いから付き合って数週間後、全てが過ちだったのだと気が付いた時にはもう遅かった。日頃の扱いがいつの時も夜の態度、行為も全てが男の単純な欲望のまま。容姿が綺麗で若いという理由だけで声を掛けたのだと知っても尚どうにか耐えて付き合い続け、果てには学校にさえ来なくなってしまったのだという。
 また、他の同級生は夜道にて妙な視線を感じたのだという。
「恐怖っていうのはね、何もみんなが言う現実の外側ばかりじゃなくて……もっと身近ですぐ隣に潜んでるの」
 霧葉は夜だけでなく、満員電車も恐ろしいのだと語った。
「実際触られたもの、ミクモが一緒じゃなきゃもう乗れない」
 口にして、どこか影を引いたような笑いを見せる。高校生が浮かべていい表情なのだろうか、味雲はそうした貌の裏に闇を見た。
「そんな人たち、いなくなればいいのに」
 初めからいたのか噂や冗談の連続の中で生まれてしまったのか、確実にいる同族の脅威。同じ人間同士でも敵対し続ける様を思い、味雲はやり切れな気持ちを抱え続けるだけだった。
 静かに沈み込み、灯りでは照らすことのできない闇に浸かるふたりも時間やバスは平等に運んで行く。やがてたどり着いた目的のバス停、味雲の最寄りのそこで降りてふたり手を繋いで歩く。行く先見る先現れてそれぞれに嘆くこの世ならざるモノたちを無視して歩き続ける。もはや疲れに身を任せるといった有り様だった。
 視ないこと、聞かないこと、知ろうとしないこと。今ここにいる非現実の魂の塊たちはそれだけで解決できた。現実だと思わないことこそが最大の防衛。

 人々が非現実的だと呼んでいる全てを幻想に変えてしまうこと。

 それだけで解決できるか弱い幽霊たちが死後に上げる死の直前の本音の叫びに心を痛めつつも疲れ果てたふたりではそうした対応でやり過ごす他なかった。
「家はもう近くだから、もう少し堪えて」
「ありがと」
 霧葉は味雲の手を強く握りしめ、その温度で心を温め気持ちを冷やす。
 それからが長く感じられた。とても非常に物凄く、果ては遠くて見えないもののよう。
 手を握る力に少々の荒々しさが加わっていた。
 距離が縮まっているのか否か、それすら分からない。しかしながら闇に目を澄ませばすぐさま分かってしまうこと、黒の背景に透き通る幽霊の遊泳が多すぎて脅威はすぐそこにいてただ視えていないと思われているが為に相手にされずに済んでいるだけなのだということ。
 一歩一歩地面を踏み締める感触が伝わって来る。前へ先へ風の手触りで進みが確認できる。
 早く家に着いて欲しい。他ならぬふたりの淡い願い。暗闇の中に閉ざされた想いは霧葉のひんやりとした手の温もりと味雲の温かな手のひらを伝って行き交って。
 やがて家にたどり着いた時には心はすっかりと落ち着いていた、というよりは疲れというモノに思考を奪われ尽くしていた。
 ドアを開けて入り込んで、霧葉を先に風呂へと案内して味雲は湯を沸かしてインスタントコーヒーをカップに入れて。
 立ち上る湯気を目にして味雲は存在そのものが曖昧な幽霊たちの姿を思い起こしていた。曖昧なものは果たして幽霊だけなのだろうか。未練を遺した者たち、そこに在るモノは彼らの心そのもの。

 曖昧なものは人の心自体、これまでの人生で嫌というほど味わったはずのことを今更ながらに思っていた。

 熱いコーヒーを啜り、強くて大きな存在感の塊である苦みを舌の上で転がして黒い液体の深みを知ったつもりになって深く頷いた。
 その頷き、閉じられた瞳はやがて意識を闇の中へと堕とし込もうとし始める。
 首が傾く衝撃に一度は目を開くものの、一秒と数える間もなく再び意識は闇へと向かいゆく。これはもはや抗いようのない本能。身体が示す正しき導き。
 それから再び目を開いたきっかけは肩に置かれた手だった。柔らかで湿った感触は味雲の意識を再び現世の視界へと呼び戻した。
「お風呂上がったわ、ミクモ」
 霧葉は味雲の姉の天音がかつて着ていたパジャマを纏っているようで、胸を押さえながら語る。
「ミクモのお姉ちゃんってどんな体型だったのかしら」
 わざとらしい問いかけ、胸を押さえながら窮屈と語る表情が答えを導き出していることに味雲は流石に気が付いていた。
「思ったままだ、なんだかんだすっきりしてて惹かれる人は惹かれるんじゃないのか」
 味雲は顔を赤くして視線を下げてコーヒーの黒に注ぎ込む。
 決して口には出せなかった。中学生の頃、天音を見ているだけで心に温かな感情が湧いてきて言葉を口にすることすら戸惑ってしまっていたことなど、決して言えなかった。
「どうして目を逸らすの? 私の身体に惚れた?」
 言われて正気に戻り、顔を上げて即座に正気を失う。瞳は揺れて落ち着きのきっかけを何ひとつ手に入れることが出来なかった。
 言われてしまったが為に疲れで向いていなかった意識は一気に惹き付けられていた。
「大好き、私のミクモはちゃんと私のこと意識してくれて……幸せ」
 眠そうに目を擦りながらも甘い感情を噛み締めていたようで、味雲は様々な感情が入り乱れて崩れ切った笑みを浮かべていた。
「じゃあ、俺もシャワー浴びて来る」
 味雲は慌てて足を踏み出し、逃げるように部屋へと向かって行った。
「そういえば、ミクモのお母さん何処に行ったのかしら」
 味雲がシャワーを、熱い雨を浴びて頭を冷やしている間、霧葉は静かにソファーに座り込む。パジャマのボタンをふたつ開けて、コップにお湯を注いで一気に飲み干す。
「そろそろ寝ようかしら」
 天音の部屋へと歩き出そうとした瞬間のことだった。ドアは荒々しい音を立てながら何者かの入室を許した。
 霧葉は立ち止まった。背筋を伸ばし、緊張に身を固め、ドアの方を見つめていた。
 いつも聞いているものより大きめの足音が響き、それは近付いて来る。やがて現れたその姿に目を見開いた。
 そこに現れたのは、だらしない表情で腕を絡め合いながらもつれよろめき歩くふたりの女性と呆れ気味に目を伏せる少女だった。
「あらあら霧ちゃん上がってたのね、いらっしゃい」
 絡み合う女性の内のひとり、味雲の母が笑顔で手を振って歓迎していた。
「はっ、母は美人みろめないんじゃならったのかいぃ。アタシは認めらいけろ」
 明るめの茶髪を背中の辺りまで伸ばした若い女性は回らない呂律で否定的な意見を回していた。
 その様子を目に焼き付けながら味雲の姪は分厚いくまが刻み込まれた目を伏せたまま大きなため息をついてそっと呟いた。
「天姉飲みすぎ……そういえば味雲兄ちゃは?」
 顔を上げたそこには霧葉の胸が窮屈な服の中に無理やり押し込められているという気まずい景色が広がっていた。霧葉の方はというと甘い微笑みを滲ませながら言葉を澄み渡らせて行った。
「お風呂入ったら分かるんじゃないかしら」
「それで分かったよ、キリ」
 姪は大きなため息を再びついた。疲れが靄のように溜め込まれた黒い瞳からは今日の祭りから帰りまでの喧騒と幽霊が入り乱れる地獄のようなパレードへの暗い思い出が見て取れた。
「私疲れてるんだ、早く寝たい」
「アタシも疲れてんだけど」
「私も」
 この場には疲れ果てた人物しかいないのだろうか、全員祭りに行っていたのならば無理もないことだろうか。
 味雲が上がってきたその場にはいつもの倍の人数の女が疲れに身を任せて寝そべっている様が繰り広げられていた。
 すり足で一歩、更に静かにもう一歩引いて、「俺もう寝るから」のひと言だけを置き去りにして姿を消して行った。


  ☆


 目を覚ました時には己の身体を呪いつつも同時に感謝していた。外ではキジバトの独特な鳴き声がのどかに安らかに響いていて、カーテンを開いたそこには爽やかな淡い空が広がっていた。太陽は未だ空気や空を焼き始めてはいないようだった。
 体を起こし、リビングへと向かい、誰もいないことを確認する。
 そこから足を向けた先は姉が寝ている部屋だった。
 ドアを開き、中へと入る。
 三人もの女が共に寝ていて狭苦しく見えるベッドの中に納まっていた。
 その見事な様に感心を覚えつつも味雲は彼女らの中から最もメリハリのある美を強調したスタイルの女の肩を揺らす。
「霧葉、学校行くぞ」
 揺らせど軽く叩けど夢の中から引き上げられることもなく、霧葉はその手で味雲の手を払い除けていた。
 ため息をついて肩を落とし、もう一度ため息をついて、霧葉の手を掴んで無理やり引き上げ起こす。途端に霧葉は目を開いて大きく腕を伸ばし口を開き、ネコを思わせる豪快な欠伸をして、目の端に滲んだ涙を指で掬い上げて擦りながら味雲に目を向ける。
「おはあ、うふふ、愛してる」
 そう言いつつ味雲の姪の手を引いて抱き締めながら立ち上がる。姪も夢からこの世界に無理やり意識を引っ張り上げられて目を開き、覚束ない意識で霧葉の身体の優しい感触を受けていた。
「んん、どうした、キリ」
「私、この子学校に同伴させる」
 寝ぼけてでもいるのだろうか、目が覚めても尚夢を見続けているのだろうか。
「学校に姪は持ってけないだろ」
 味雲の口によってねじ込まれた意見に姪は深く頷いた。
「キリに抱かれるのは嬉しいけどがっこには行けない」
 言葉は心を交わしていた。霧葉に本音を届けつつも一緒には行けないという現実をしっかりと言ってのけていた。
「じゃあいいもの、行くまではあなたを抱き続けてる」
 ぬいぐるみのような扱いなのだろうか、それとも霧葉の趣味なのだろうか、味雲の表情は唖然の二文字を描くばかりだった。
 それから簡単な朝食を済ませ、コーヒーを流し込み、味雲は制服に着替えて、霧葉の手を離れた姪の隣に座って微笑んだ。
「霧葉ちょっとバカだけどそういうとこ可愛いよな」
「ほんっと、私なんかこんなに大切にしてくれるお馬鹿さんは親かそうじゃなきゃこの家にしかいない」
 姪は味雲の肩に視線を向け、続いて身体を、最後に顔をなぞるように追いかけ述べた。
「なんか同級生と違ってあんまりがっしりしてない」
 味雲は苦いものを飲まされたように顔を引き攣らせて固まった。
「気にしてたらごめん、味雲兄ちゃみたいな恋人がいいなって思っただけ」
 味雲はため息をついて溜め込んでいた想いを言葉に変える。
「霧葉に抱かれておかしくなったかな、あの女のバカって感染するんだな。男の強み否定って」
 むしろたくましくて頼りになる様こそ大切にするべきだろう。女を守り抜くことが出来る屈強な人物こそを、そう想いを描いている間にも姪は語った。
「強みなら、細い身体に秘めて欲しい」
 そこから流れる沈黙は数秒だろうか。いつまで続くのだろうか。なんとなくとしか言いようのない、述べる理由すら見受けらない気まずさが流れ続けて空気感を汚染して止まらない。この場にいることすら嫌になる雰囲気にどうしても耐え切れなくて。
 味雲はそれでも固まり続けていた。先に口を開いたのは姪の方だった。
「落ち着いた朝は大好きだけど、この朝は嫌い」
 低くて固くありながらも聞いているだけで落ち着かせる声が言葉を心にまで染み渡らせていた。味雲の周りでは態度や声に要らないネコを被せ心を隠す膜を作る女性が見当たらなかった。
「ああ、いいなあ、キリは良い青春送ってて」
 その代わりに嫉妬や暗い感情まで表層に顔を覗かせてしまうが、きっと人として当然のものが出てきているに過ぎない。
 姪の顔を覗き込んでみた。その目は安らかながらも濃い影が薄っすらと這っていて、目の下に染み付いた深いくまも影を増していつも以上の暗さを見せつけていた。表情が言葉よりも語っていた。軽く呟く程度の心情ではなかったのかも知れなかった。
 それからほどなくして霧葉が姿を見せた。昨日の私服を纏って、味雲の手を引いて。
「制服持ってないから今から私の家に直行で速攻着替えるから」
 手を引かれ、リビングを離れようとする身体。姪の気持ちを覗き込み何かを置き去りにしたいと叫ぶ心。想いを吐き出さなければきっと後悔することになるだろう。
 味雲は姪の手元に去り際の言葉を置いて行った。
「大丈夫、寄って来るか変わるか、信じていればどうにでもことは進むから」
 そうして戻って来た静かで和やかな空気を吸い上げ、大きく吐いて前を、いつか訪れるはずの高校時代を思い描いて味雲の言葉を反芻する。
「嘘つき、私に変な期待なんかさせて……嘘つき」
 その目で見た未来に明るいものなど何ひとつありはしなかった。きっとこの家以外には仲良く接してくれる人物など現れない。その場合まず間違いなく恋人など出来るはずもない。
 薄暗い人生を送り続けている中学生の少女にいい未来など到底想像することなど出来なかった。


  ☆


 青空はどこまでものんびりしていて、時間はふたりをいつでも急かそうとしてくる。霧葉は制服を身に着けて昨日の洒落た雰囲気など完全に忘れ去ってしまったように思えた。
「ごめんミクモ。着替えに時間かけちゃったから遅れそうで」
「いいよ、それより霧葉あんまり走れないんだよな」
 味雲は制服姿の霧葉を目にしながら歩みを速めるのみ。制服の白くて薄い半袖のカッターシャツに包まれた身は豊満な胸と程よい肉付きで味雲を魅了する肉体を隠すつもりなどさらさらないようだった。紺の靴下はふくらはぎのカタチをしっかりと現わしていて、味雲の心臓にとってはいい運動を与えていた。底が厚めのローファーはきっと歩きにくいだろう。霧葉のことを想い、置いて行く未来を想像する。そうした行動が霧葉に対してどれだけの虚しさや悲しみを与えてしまうのか、想うだけで味雲の胸が締め付けられて息すら苦しくなり始める衝動に絡み付かれていた。
「ごめん、私がもっと細くてすっきりした身体だったら」
「それはいいから。霧葉のことは仕方ないって」
 味雲は霧葉の腕に巻き付いた優しい薄茶色のベルトを、手首の真ん中に飾られた数字の書かれた円盤に目を向けた。授業が始まるまであと三十分、いつものペースでは学校に辿り着くまであと三十分と少し。それでも遅れることはないのだろう。霧葉の脚はいつもよりも少しだけ速く動き、足は素早く踏み出され続けていた。
 息を切らしながら歩く様が自然と目に焼き付いて、心が焼き付いてしまいそうな味雲は言の葉を送る。滲み出る言葉に躊躇など一切込めずに伝えてみせていた。
「ムリはしなくていいんだ。どうせ授業も課外だし」
 寧ろ授業なら万全な状態で受けて欲しい、それが味雲の意見だった。伝われども拾われず。霧葉の歩みは遅くなることもなくただ学校への道のりの辿りを、刻み込む軌跡を手早く行っていた。
 きっといつもよりも速く歩いているのだろう。日頃から大した運動を嗜むこともない味雲の肺には焼き付けられるような痛みがこびりついていた。息を吸う度に痛みは増して、息を吐く度に激しい暑さとは異なる熱、違った感覚を同じ読みの言葉に当てはめて勘違いの感覚に心を委ねて気合いを入れていた。
「ちょっ、俺も、きつ」
 吐き出そうとした言葉も今の肺の痛みに刻まれて上手く声にならなくて。それでも霧葉はしっかりと理解したことだろう。分かっていながら今の歩調を乱さないのは本当の優しさのひとつのカタチだろうか。
 学校が目の前へと迫ると共に目の端で捉えた時間によれば授業まで五分近くの余裕が残されていた。
「思った、より……はああ余裕あった」
 時間の余裕を得るために体力の余裕を犠牲にしていたという話は果たして今晩の食事のあてには出来るものだろうか。きっと笑われる程度で済めば幸運、見下されてしまえば凶運。あまり明るい想像は叶わなかった。
 これからふたり、学業に向き合う気構えを整えるためにすたすたと時をも置き去りにする勢いで教室へと向かって行った。
 やがて訪れたお決まりの時間、夏休みなど殆ど感じさせない教室の中で、暑さすら感じさせない程にクーラーを効かせて室内を思い切り冷やし続けていた。
 呼吸を整えて味雲は教材と筆記用具を取り出して教師がドアを開く瞬間を待っていた。
 周囲の視線は明らかに笑いの表情をドアに向けていた。声を潜めて話しながら待ちわびている様が明るくありつつも澱んだ空気感を繰り広げていて、愉快と不愉快がどこまでも混じり合い強め合い、どちらも共に不愉快へと染め上げられていた。
 それから継続された時間はどれ程であろう。味雲の中では十分近くが経過しているように感じられたものの、校門で端目に捉えた霧葉の腕時計が示した時間からして数分たりとも経ってはいないだろう。黒板の上に掛けられた時計を目にして授業の始まりの時間、スタートラインから三分経っていることを確認した。
 教師の遅刻はともかく、味雲の中で感じていた時間はやはり急いで登校したことによる疲れの余韻だった。そう、心臓の鼓動は確かな生を以て時を速く刻み続けていた。
 やがて窓ガラス越しに大人の姿が映り込む。途端に生徒たちのざわめきは大きくなり、楽しそうにはしゃいでいた。
――やっぱ、ガキだな
 味雲にはここから先にて繰り広げられる出来事も生徒たちによる小汚い喜びも見え透いていた。
 教師がドアを開こうと手を掛け、力を込めるものの、ドアはその口を開くことを拒んでいた。鉄の意志で遮断を続けて、教師の入室を断り続けていた。
 怒鳴り付け叫ぶ教師に対し、怒気の熱が大きくぶちまけられる毎に生徒たちの歓声もまた熱を増して行く。品のない笑いを声に出しながら小汚い喜びを分かち合う数名の男子生徒たちは一体幾つ下の学年の住民だろうか、呆れる女子生徒や真面目な男子たちが白けた目を向けていながらも誰もドアを開きに行こうとはしない。味雲は騒がしい幼子高校生たちに嫌気がさしていた。
 それからしばらくの間を置いて、ようやく近くに座る生徒がカギを開けると共に歓喜の声は苛立ちへと変貌していった。
 幼き高校生の不満は教師の正しき怒りによって無理やり鎮められた、身勝手な感情たちは沈められて教師による怒声が辺りを支配する。張り詰めた空気感の中で行われる授業は非常に心地が悪かった。


  ☆


 静かな空間で行われる授業、霧葉は何故だか握るペンを動かす気分になれないでいた。先生の話し声も耳に上手く届かず、学校では異色の存在、異物として避けられているという事実を思い起こしては絶望に頭を揺らしていた。
――別にみんなに好きでいて欲しいわけじゃないんだけど
 ただただ普通に接してほしい、ひとりの人間として扱って欲しい。そんな思いが巡っては回り続ける。特別は味雲の手によって持ち込まれていた。白昼の月のようにひっそりとした愛は霧葉にとって心地のいいものだった。
 ぬるま湯のように温かで気持ちのいい関係。学校という場所にいるだけで関係の中を流れ続けるぬるま湯に冷や水を流し込む人物はいったいどれ程いるのだろう。通りかかる人の大半がそうした連中なのだと知って絶望を抱えるのみだった。
 味雲との思い出が蘇り、霧葉の頭の中では申し訳なさが巡り駆けていた。
 やはりあの男の偽りの仮面を剥ぎ取ってしまったことが悔やまれる。味雲の手で、友を自らの行動で葬らせてしまったことはあまりにも申し訳なく想えていた。

 もしかすると霧葉が得た特別は、他人から奪い取ったものなのかも知れなかった。

 そこから繋ぎ紡ぎ続けて来た数々の時間、その全てに罪の意識が芽生え始めて止められない。想いは走り暴れ荒ぶる。荒んで掠れて霧葉自身を責め立てる削れた断面を目にすることすら嫌になって、気が付けば霧葉は手首にあのペーパーナイフを当てていた。そのまま力を加えて引いてしまおう、そう思った瞬間、味雲の顔が思い浮かび、罪の意識と味雲の笑顔が重なり合う。
 その追憶はあまりにも眩しくて暖かくて、そしてなにより痛々しくて仕方がなかった。
 堪えてペーパーナイフを手首から離して、震える手を見つめる。なまくらの刃物はその手から揺さぶり落されて、机の独特な木の色の上に降り立とうとする。刃物は手から落ちてそのまま宙から下り墜ちて、霧葉の心から生まれ堕ちて、おちてオチテ。机の表面を叩こうとしていた。音に悩まされる結論を思い描いていたものの、その瞬間はいつまで経ってもやっては来なかった。
 霧葉が視線を落とした先、机の上にはあのペーパーナイフなど存在していなかった。
――そう、怒られはしないのね
 それから霧葉の脳内ではいつまでも罪の記憶が踊り続けて授業のひとつに集中する隙すら与えてはくれなかった。
 そうして繰り返されて過ぎ去る時間の後をつけて来る悔いに、これまでの選択からたどり着く今へと這いずり上って来る暗鬱なる想いに身を馳せながら時間は溶かされ続けて、果てには空しく過ぎ去った授業時間の残骸が積み上げられただけだった。
 その感情は何処を見ているのだろう、瞳は目の前の景色を捉えていないのだろうか。
 人々は鞄を背負い、次から次へと立ち去って行く。彼らは霧葉というたかだかひとりの生徒など気にも留めずにそれぞれの人生の道を踏み出し続ける。
 やがて誰もいなくなって残されたのは霧葉と空気の中に広がる静寂のみ。
 そうしてただ静かに過ごしている一方で味雲の方では未だ担任の教師が怒りをぶちまけ続けていた。朝の行ないはそれ程までに非道なこと、人として当然のことから外れて心無き心がむき出しになった男たち。そんな彼らに心を説くことなどきっと意味はないだろう。しかしながらやらなければならない、不可能だと嘆いたところで実行しなければならならない。理不尽は何処の世界にもいつの時にもついて回るものだった。
 分かっていなければならない言葉を理解できない人物への労力を大幅にかけて未だ収まらぬ怒りと疲れ果てた様を宿しながらも話は終了し、自由な時間がやって来た。
 味雲は時計を見上げて焦りを覚えながら校門へと駆けて、霧葉が待っているはずの場所へと向かって行った。
 そこで目にした光景に味雲は戸惑いを覚える。獲得した感情は目に映された景色に足りないものが示していた。
 そこには霧葉の姿がなかったのだから。
――霧葉の担任も何か話してるのか
 湧いて来る胸騒ぎが全てを否定していた。生まれ来る感情は頭よりも先に理解していた。日頃から教師の話は大して長くもなく、今日の味雲のクラスが特別だっただけ。
――どうしたんだよ霧葉
 胸の中で騒ぎ立てる感覚は味雲の中で充ちて、やがて身体は動き始めた。空の蒼も木々の緑も嫌というほど不自然に明るくて、そのわざとらしさは見ているだけでますます余裕が奪われて行く。
 風も地を踏む感触も、全ての跳ね返りを無視してひたすら走り続けて。息が切れようと身体が気温にも負けない熱を発しようとも苦しさが蔓延ろうとも一切構うことはない。霧葉がいるはずの教室へと一刻も早く向かいたかった。その一心だった。
 身を切る想いで走り続け、息も足音も荒らげて気持ちも焦りで支配して、階段を上って廊下を駆け抜けて。誰が通行していようとも霧葉でないのならば関係なく容赦なくすれ違うのみ。
 味雲の足は動きを止めた、変わり映えのない廊下の中、変わり映えのないドアを見つめる。そこに特別を見いだす味雲だった。それもそのはず。その扉の向こうにはいつもあの子が座って授業を受けているのだから、日常を過ごしている場所なのだから。
 ドアに張られた頼りない薄いガラス、境界越しの向こう側にしっかりと目を通す。
 静寂の中に住まう霧葉が孤独に身を置きペーパーナイフを左手でつまみ、手首に当てていた。
――いけない
「ダメだ、霧葉」
 口と共にドアを開き、味雲は動き霧葉に止まるよう言葉を奏でる。
「いいか、それはみんな不幸に」
 突如、言葉は詰まった。喉につかえて声にならず。味雲の行動を止めたそれは紛れもない霧葉の視線だった。射貫きながら包み込むような視線。その瞳から流れ出る情は正も負も等しく流れこぼれ滲み出て、気持ち悪さの頂上に達していた。
「不幸なら、ミクモは既になってる」
 味雲の脳裏に流れ込む色あせた景色は霧葉の追憶だろうか。味雲の知る景色、知っているストーリーが流れていた。始まりの日、霧葉と味雲が堂一と戦った時のこと。味雲の知る出来事は進められる。味雲の目の前には味雲の姿があった。
 霧葉の視点なのだろうか、動き出して吹き飛ばされて。
「人生を……関係を壊してごめんなさい」
 霧葉の言葉と共に追憶の像は切り替わり、味雲が霧葉に対して苦手意識を主張する顔が大きく映されていた。それは冗談でも綺麗だとは言い難いカタチをしていた。
――俺って、あの時こんな顔してたんだな
 息をついて座る。意識してか無意識か、自然と霧葉の隣の席にしっかりと腰かけていた。
「私の勝手ばかり通してごめんなさい」
「そんな、確かにあの時は霧葉の勝手だったかもしれないけど」
 更に追憶は違った場所へと飛んで行ってしまった。そこに現れたのはかつて通った公園。味雲が歪みに悩まされているその瞬間の出来事の残像だった。
「巻き込んでごめんなさい」
「別に怒ってなんかないよ」
 味雲が捻りだす言葉になど耳もくれずに追憶は更なる映像を引っ張りだしてきた。目の前に広がるそれは霧葉の家に味雲が入っていく場面。
「ごめんなさい、私のこと、本当は好きじゃなかったんだよね、ごめんなさい」
「道筋は良くなかったかもしれないけどさ、今どう思ってるかの方が大事なんじゃないのか。人を変えた責任、俺も振り払えなかった責任で、本当の愛だったことにしても」
 もう、許されるのでは。そう本気で思えて仕方がなかった。
 やがて現れた景色は元の教室、そう思ったものの、味雲は辺りを見回して違いに気が付き、更に慌てて見回していた。
 外は光に満ち溢れて、一切その姿を見せない。景色のカタチをなにひとつ見せてはくれない。
 そこは紛れもなく幻想と地続きの世界だった。
 味雲は隣に座る霧葉を見つめ、そっと立ち上がる。
「霧葉、帰るよ」
 手を掴もうと向かい合ったそこに座る霧葉はいつもの制服姿ではなかった。
 黒いワンピースを思わせる服の襟や袖、裾にひらひらと透き通る布が飾られた服。フリルのようにも思えるそれだったものの、不思議と前後や着る際の端を確認するための物にしか思えなかった、可愛らしさも綺麗な様もまるで感じさせなかった。
 姿の違いによって戸惑い止まった味雲だったものの、改めて手を伸ばす。
「ミクモ、あなたは分かる? どれだけの罪を私が背負ってるか」
「分からないよ、でも、俺に対して罪を感じる必要はないな、もう、裁きは充分受けただろ」
 言葉は手を繋ぐことなど叶わず。霧葉は左手につかみ取ったペーパーナイフを右の手首に当て始めた。
「そう、それでも、私の中はごめんなさいでいっぱいなの。ひとり分じゃ済まないくらいにいっぱいいっぱいなの」
 味雲が肩を貸そうとしたところで代わりになどなることの出来ない罪が、霧葉の滑らかな背中に乗せられていた。
 手首に当てていたペーパーナイフを勢いよく引いた。途端に過去の笑顔の霧葉の全てが切り裂かれて否定された。残された悲しみと苦しみと憎しみを抱く霧葉だけが残されてひしめき合い。その色濃い負の感情から味雲は目を逸らしていた。
「でしょう、どうせ誰にも代わること出来ないでしょう」

 ――殺して

 味雲の頭の中に現れた声、目の前に座り過去に圧し潰されてしまいそうな彼女と同じ低い枯れ声。それが再び味雲の頭の中で響き渡って重なり合って。

 ――お願い、私を助けて。醜くなる前に……その手で

 それは、味雲の人生の中での最大の過ちだった。
「頼む、霧葉のことを救ってやってくれ【眠れぬ悪夢の夜】よ、彼女に救済の一手を」
 構えたエアーガン、その引き金はあまりにも軽くて重い。どんなに軽い素材でも関係ない。その一撃はあまりにも重い。
 その軽い一撃が命を奪うものなのだから。
 やがて弾は勢いよく飛び出して、霧葉の額を貫いた。薄っすらと心の底が姿に現れ始めた霧葉の顔は悲しみに歪み切っていた。きっと放っておけば醜くなるまで歪み切ってしまっただろう。
 景色に充ちた光は引いて、元の景色が帰って来た。目の前には霧葉の姿などなくて遺されたモノはペーパーナイフのみ。
 机に置かれたペーパーナイフ。銀色の美しさをその手に収めて味雲は歩き始める。

 霧葉を殺した

 窓ガラスに映されたそれが殺人犯の顔

 悲しみに歪みかけた貌

 しかし歪めることなど許されなかった

 彼女と異なる罪を背負い、同じ表情で世界を見ていたくなどなかった

 ペーパーナイフをその目に焼き付けながら歩き続けて、ふと思う。あれしか選択は取ることが出来なかったのだろうか。他に選び取ることの出来る道はなかったのだろうか。
 霧葉を蘇らせることは出来ないのだろうか。
 それが味雲の更なる過ちだった。
 古着屋へと向かい、服を見ていた。そこに遺サレシ者がいないかどうか、味雲の想いと共鳴して、霧葉を呼び戻してくれるものはないものか。
 時間がいくらあっても足りないかも知れない。そう思い始めたその時、味雲の目に分厚い気配が香って来た。気配を聞くように、昏い靄を目で触れるように。
――断末魔の残り香が見える
 そこに掛けられていたそれは桑色の半纏。この季節には熱すぎるような気がしていたものの、構わず手に取り纏い、薄暗い微笑みを浮かべた。

 味雲の更なる過ち、半纏に遺サレタ想ヰに魅入られて、存在は刻一刻と薄くなり行くばかりだった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...