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女子高生『甘土 霧葉』の傷跡

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 夕飯前に聞かされる話、コンクリートのような色をした心で辿った苦しい人生であることなど、重々しい道筋であることなど、この男の固くて暗い表情を見るまでもなくこれまでの霧葉の発言や反応を見ていれば容易く手に取ることの出来ることだった。
「霧葉の中学の頃の話だ」


 それは霧葉がセーラー服を纏い、これまでとは異なる隔たりの向こうで生き始めた頃のこと。
 人々の成長、世界を知る、心を伸ばす、そうした変化のさ中では正しき心を測る物差しは歪んで目盛りが狂ってしまうものなのだろうか。
 発言が人々からズレていた人物は面白みを大いに受け入れられるか伝わることなく弾かれるか。言葉の扱いが人と微かな差で開いていた霧葉は受け入れられることもなくクラスメイト達から遠ざけられていた。
「普通に話してよ、話すのが必要な時にみんな理解に苦労するから迷惑なんだよ」
 求められる物は調和、揃い揃った足並みで歩く態度。下手に人と異なる部分を見せては必要以上の非難を受けてしまう。それとも必要な避難だったのだろうか。
 人々に普通という基準があって、そこに従えという宗教染みた統率を執り行う人々。従わなければ必要なことすら教えてもらえずに困るのは自身だと分かってはいたものの、手慣れてしまった言い回しにまで修正の必要性をかけられてしまってはどれだけ話していいのか、それすら分からなかった。
 そうした迷いが霧葉の口を閉ざしてしまってその態度さえもが人々の中では蔑まれて、霧葉はもう何をすればいいのか分からなくなっていた。
「考えが迷子、もうどこに普通の空気があるのか分からないわ」
 霧葉の身は既に八方塞がり、何をしても忌み嫌われて、何を言っても気に食わないと言われて尊厳まで踏みつぶされる。
 そうした人生、水に沈んだ迷路を進むような息苦しさと重い足取り、分からない道筋は人々との歩みの速度の差をつけられて、ひとり置いて行かれてしまっていた。
「私がなにを誤ったの? 謝るから許してよ、女神様」
 言葉を聞いていたのは形もなくただ見守るだけの空気と地に咲いて美しく、可愛らしい彩りを持った小さな花たちだけだった。
 霧葉の言葉を理解できる聴衆など、目に見えるところにはいなかった。手の届く範囲にもいなかった。学校にいる人々は言葉が伝わるだけで聴いているというにはあまりにも程遠かった。教師すら耳を塞いで霧葉の扱いなどなかったことにして親たちにも伝えられる。霧葉もまた、親には黙り続けていた。問題など、己で抱え込んで消してしまえばいい。包み隠せばなかったことにできるのだから。
 そう思っていた、純粋な瞳に映る世界は周りが見ている以上に澄んでいて、経験が浅いが為に見通しが甘くなる。全ては繋がり最終的に苦しみの地下へと身を下ろす負の螺旋階段を築き上げていた。
 そうしてやり過ごすことで負の螺旋階段を降りる速度を増すための重み、ストレスがますます早く溜まりゆく。まさに誤った選択だった。
 女子からは避けられて、男子からは物を奪われて捨てられて、罵倒に身を削られて、遂に限界点が来てしまったようだった。
 遂には純粋だった瞳も涙で歪み、心と数の減った口は声をも弱らせ枯れて聞こえていた。もはや美しさは穢され踏みにじられ、必要以上に目立つ醜い色となる。参り果てた心の中で広げた思考は霧葉の身を蝕んで行く。
――私、何を間違えたんだろう
 彼女の頭にはそれを分かるための経験の秤が備わっていなかった。
――やっぱり私の存在かしら
 幼い頭、その手で探られる思考は拗れて結論は正しさを持たずに定着していく。
――心だけで負担できないよ、そうだ、身体にも刻み込もう
 自身の誤りを身体に叩き込み、周囲を見て習性を加えて行こう。
 そう誓ってその手に握りしめたものは、一本のカッターナイフだった。
 様々なものを取りそろえた部屋に、その外観の中に、己の傷を足して行く、開かれた桃色のカーテンに当たる光が薄い桃色を部屋の中に引く景色、そこにいる白みがかった肌に鮮やかな紅を加える。
 痛みは、心の苦しみをさらに増す一方で何かが抜け落ちたような感覚をもたらして。
 手首から流れ落ちる紅い涙は床へと向けて降って、艶やかな木のような色に派手な水玉模様を加えていた。
 ギザギザが入った歪な模様を見下ろして、霧葉はぽつりと言葉を降らせた。
「私の眼みたいだわ」
 それから手首に刃物を当てることが癖となり、傷を作る痛みは鮮度が落ちて慣れて本来の意志を失って行った。
 ある日のこと、常習的に手首に傷を入れ続けていた白い肌は母の目に入ってしまった。
 怒られて訊ねられて心配されて。その全てが余計なことのようにしか思えなかった。
 改められることの無い生活態度、傷はいつまでも癒えることがなく、やがては母に刃物を没収されて霧葉は再びストレスを溜め込み続ける生活へと戻って行った。これからどのように潰れて行くのだろう、自分の果てを目の当たりにするまでの人生だと思い込んでいた。
 もう救いなど訪れない。
 そう思い、何もかもを諦めて幕を降ろそう、幕引きにはクラスメイトへの恨みや憎しみに怒り、負の可能の全てを添えた殺戮を添えてやりたい。
 霧葉の頭の中に危うい思考が芽生えて大きくなろうとしたその時、己の机の棚に置いているカップに入れられてはみ出た文房具たちが目についた。その中でも日差しを跳ね返しながら輝くペーパーナイフが一段と強い存在感を放っていた。
「どうせ紙しか切れないでしょう」
 そう言いつつも、なまくらの刃を手に取っていた。おかしいとは思いつつも、何故だか手首にその刃を当てて。
 霧葉は勢いよく刃を引いて、自らの手首に傷口を入れた。


 味雲は目を見開いた。言葉のひとつも出てきてくれはしなくて、息が苦しくなるばかり。霧葉のおじさんはいつの間にやらタバコを口に咥えて煙を吸っては吐いて、渋い貌を浮かべ焼き付けていた。
「これがあの子の過去だ、ペーパーナイフで手首を切るなんて、そこまでして自傷行為がしたかったのか」
 ただの欲望ではないだろう。それは霧葉にとって自分を責める苦しみの現われでありながら逃げ道でもあって苦し紛れの自衛でもあって。霧葉はとうの昔に進むことに疲れていたのだろう。
「きっと、そうしないと進めなかったんですよ」
 この世界は汚泥に充たされた水のようなもので、そこを泳ぐための力など削り切られていて、そこをまともなまま抜け出すための体力など残されてはいなくて、精神論のひとつやふたつを並べて切り抜ける心の余裕など既にすり潰されてしまっていた。
 霧葉が歩むには、この世界はあまりにも温もりの色が沈み過ぎていた。
 味雲は彼女の行ないを責めるわけでもなく、心の底まで分かったつもりになるわけでもなく、ただ受け入れる。気の利いた言葉も正しい心の息づかいも分からなかったが、彼女が求めるものはきっとこれなのだと、これまで一緒にいた時間が、築き上げた思い出たちが、そう語っていた。
 一方で目の前の男は霧葉と過ごす時間が長いだけで、何ひとつ同じ目線の高さで見てなどいなかった。
「わからねえな、自分を傷つける勇気があるのなら立ち向かう勇気だってあっただろう」
 後に待っている扱いへの恐れ、仲間だと思っている家族ですら失望するかもしれない危険性、抗うことの方が厳しくて、八方塞がりだった。
 ふたつを同じ程度に語って人の価値観を踏みにじる男を、分からず屋の顔を、味雲は心の中で踏みにじり返していた。
 味雲と同じで霧葉が分からないと言えど、実際に選び抜いたことにまで否定の波を広げる男。彼のことだけは永遠に分かり合えないだろう。それだけは確実だった。
「立ち向かうのって、案外難しいものですよ」
 味雲の口から言えることは確実性のない言葉だけ。霧葉にとって実は難しくはなかった、選び取る方を誤っただけだという可能性も普通にあるもので、断定はできなかった、しかしやはりこの男の言い方には、あまりの無神経さにはついて行くことが出来なかった。
 男は再び煙を吐く。タバコの煙は室内を漂って、宙に一度留まり薄れて消える。非喫煙者の高校生がいる密室でタバコを縁りゃなく吸う男の態度が人柄を語っていた。
 目に染みる煙、顔を歪めてしまうほどに強い臭い、それを誰もが好むわけではないことにさえ気が付かないものだろうか。男は味雲の顔を見て言ってのけた。
「おいおい、タバコ嫌いか? カッコいいだろ、お前も大人になったら吸うんだぞ? コミュニケーションは喫煙所で作るものなんだ」
 タバコと酒で会社の事情を引き出すのは常識だぞ、などという彼は果たしていつの時代の話をしているのだろう、しかし言葉が過去形ではない。
「タバコが苦手な人だっているんですよ」
 わざとらしく咳き込んで遠回しに仕舞うように示して見せるものの、男はタバコを灰皿にこすり付けて新しい一本を取り出した。
「今のうちに慣れておけ、まだ未来ある若者」
 男の言う未来のために味蕾を潰すのはごめんだったものの、言っても聞かずに入れば受け入れられるぞと言って受動喫煙を強いていた。
 この男が霧葉の話を聞いてどのようなアドバイスをしていたのか、怖い物見たさの本能を抑えるのに必死で、思わず身体を震わせていた。
「おおぅ、タバコにも慣れて来たみたいだな、感激の震えだな」
 あまりのズレに乾いた笑いをこぼしそうになるものの、必死で抑えた。きっと彼はその嗤いに対しても好意的に受け止めてしまうだろうから。
 このような男の気持ちなど知りたいとも思えなかった。分かろうとすらしなかった。きっと緩くてだらしない態度で展開される未知の道が果てしなく広がっていることだろう。
 味雲はお辞儀をして後ろを向く。
「帰る時間なので、その前に霧葉に会いたいので」
 そう言って立ち去ろうとする味雲の背に向けて、男は言葉を浴びせた。
「いいか、絶対に悲しませるなよ。お前が離れたら霧葉は絶対悲しむからな」
 言われるまでもないこと。霧葉のことは味雲もまた、大事に想っていた。かわいい彼女のことを悲しませることなど絶対にしたくはなかった。
 部屋の外へと足を踏み出して、彼女のいる場所へと向かって静かな歩みを進めて行った。そう、向こうで待っているあの子は今も味雲を求めている。
 霧葉は椅子に腰かけて本を読んでいた。文字を見下ろし追いかけて物語を、心の動きを噛み締めて、あふれ出て止まらない想いをずっと味わっていたのだろうか。
 そうしている内にも瞳の外側で、想いの向こうで時間は世界は動いている。気配の動き、近付いてくる人物に気が付いたのだろうか、霧葉は文字から目を離し顔を上げた。いつになく甘い目の色をした彼女は頬を暖かで甘々な桃色に染めつつも瞳の緩やかな雨脚を止めることが出来ずに感情の潤いを見せていた。
 味雲に向けて微笑みを見せびらかして震える声でひと言だけ告げた。
「読み終わるまで待ってて」
 ただそれだけのこと、味雲にとってはお安い御用だった。帰りの時間はどれほど遅くなるのだろう。親の家に電話をかけてとりあえず遅くなることだけを伝えて待ち続ける。
 それよりも霧葉が浸る世界が気になって仕方がなかった。彼女の想いを知りたくて、絹のような髪を被った頭の中で広げられる想いの世界を、心の空に漂う輝きをその目でつかみたくて。
 しかしそれは叶わない。分かろうにも限界があった。それは壁と呼ぶことの出来るものだろうか。
 一緒になりたい、何もかもを重ねて全て同じものを見てお揃いの耳で世界の鳴らす音を聞きたくて。心も体も、想いも感覚も。全て同じ物が欲しかった。
 一緒になりたいなどと思いながらその想いを閉ざして教えない。壁を作っているのは自らなのかそれとも事実に屈してなのか。
 味雲にはなにも分からない。想いに蔓延る迷いの雲も心の世界の空の味も、身体を叩く世界の雨音も。全てに迷うことが成長の道筋なのだろうか。諦めを知ることが大人へと成りゆくことなのだろうか。

 だとしたら、ヒトの行く先はなんて冷たいモノだろう。

 ジメジメとした梅雨が近付いている。夏はもうすぐそこで隣の部屋のような距離感で。
 味雲には今か今かと待ち構えているそれが極端な冷夏のように想えていた。過ちを踏んで進む冷たい季節の予感を運び込んでいた。
――俺は、なんて馬鹿なんだろう
 人に頭悪いなどと言う以前に、己の愚かさを知った。想像力の欠片も感じさせない。目の前に座る少女に手を伸ばしても届かない、どこまでも果てしなく遠く感じていた。
 そんな味雲の心の流れを知らないかのように霧葉は本を閉じ、瞳から零れ落ちる涙の味を語る。霧葉が見て来た物語は、味雲の頭では想像すらつかせない恋愛模様。
 語られる内容はよく分からないものの、霧葉の顔はあまりにも麗しい輝きに充たされていた。味雲はそんな彼女の魅惑的な顔と難しい乙女の恋の感覚に心を揺らされて、頭の中でふらふらとふわふわと不安定に揺れる奥の深い感覚を身体の芯まで味わっていた。その心地の悪さはあまりにも大きくて、ついつい霧葉の前で弱り果てた顔を見せてしまった。
「どうしたのかしら」
「ちょっとな、俺には難しい話だったよ」
 それよりも空腹をと訴えて話を逸らし、食事の時間とした。きっと味雲と霧葉の感情は色の合わせも彩りも異なるものだろう。霧葉の感想に出て来る想いの色は何もかもが淡くて薄くて可愛らしい色をしていた。味雲の想いは何もかもが掠れて薄れて見苦しくて。しかし、霧葉はそんな彼の語るものを似てると返していた。
 晩ごはん、カニクリームコロッケが主なおかずできゅうりとさやえんどうのサラダと三つ葉を散らしたみそ汁。雨空家ではいったい何を食べているだろう。そう思いつつ目の前のご馳走に想いの華を舞わせていた。味雲が食材の旬というものに触れたのはいつ以来だろう。記憶の中には一切なかった。
「きゅうりとさやえんどうと三つ葉が6月の旬、ミクモにあんなこと言ったのにあんまり変わりなかったらどうしようって冷や冷やしてたものよ」
 曰く、ズッキーニやみょうが、ピーマンと言った野菜やトビウオに真あじといった魚が旬。酒を基準に考える味雲の家の食卓でならトビウオを焼いたり真あじの開きやみそ焼き、スナップエンドウとエビをオリーブオイルとニンニクで炒めて塩コショウとトウガラシで味付けするのがオススメなのだそう。
「思春期なのに栄養が足りていないのは問題だと思うの」
 味雲は思い返していた。173の数値を示す身長は、いつまでに伸びたものだろう。中学一年生の頃には見ていた数字かも知れない。つまり、この4年間、高校二年生に至るまで一センチたりとも伸びていないのだということを思い知らされていた。
 栄養が足りていないのか睡眠がうまく取れていないのか。何もかもが味雲を冷遇する家庭、かつての父は最悪で母も大した世話をしなくて。それでも母に引き取られてからの生活がまともに想えていたのはきっと過去の闇の手を振り払った後だったからであろう。
 周りと比べて明らかに贅沢な物は買ってもらえなかったものの、公園での贅沢な経験はあった。それがまた、気付きを遅らせていたのだろう。
「いただきます」
 感謝を込めて、言葉を告げる。味雲の感謝の想いは霧葉と作ってくれた霧葉の母にのみ送られたものだったが、霧葉が口にする同じ言葉は何処へと向けられたものだろう。
 霧葉は箸を美しい指に大人しく纏まった仕草で挟んで手慣れた様子でサラダを口へと運び込んでいた。
 一方で味雲は慣れない手付き。確かにいつも使っている道具ではあるはずが、日頃から食べるものの違いによって精度は大きく変わっているようだった。
 そもそも日頃からつまむというよりはかきこむための支えとして扱っている節が見られた。それを自覚して、味雲の顔は恥の色を、迸る熱を感じてふらつきにあてられていた。
「今日も美味しいわ、ミクモは……顔赤いけどどうしたの」
「なんでもないよ」
 そう返して、ごはんをかきこみ口へと流し込む。その様子を見届けて霧葉の母は大きな咳払いをして語る。
「話には聞いてたものの、これは酷い、焼き鳥みたいな串付きのから炭火焼きや唐揚げまでフォークで食べて来たのか、答えてごらん」
 そうした問いに対して味雲の口から否定の言葉を出すことなど叶いやしなかった。もう全ては見抜かれて明るみに引きずり出されるのを待つのみ。中途半端な嘘など関係を悪くしてしまうだけでしかなかった。
 美しくも皺によって年季を感じさせる女は微笑んで言葉を繋いで心の一端を繋ぎ結んでいた。
「そうでしょうね、親もそういったことには無頓着みたいな感じ。だから息子の細かな仕草に出るの」
 見栄え、細かな所作、ただひたすら磨かれた頭の良さ。親の目の付け所によって如何なる部分がどれほど伸ばされるのか、それは子を見ればある程度見えてきてしまうそうだった。細かな違い、届いた部分に届かない部分、子の個としての差はあれどもある程度は意識の外側から身体の外側へと漏れ出てしまうのだそうだ。
「教育が必要ね、明日もまた食べにいらっしゃい」
 それは建て前なのか本音なのか。優しい笑顔に隠された本音は輝きの陰に隠れて見通すことはおろか、考えること、近づくことすら許されない。ただ、感じ取ることの出来る善意だけは胸に抱いて頷いた。
 食事の後、霧葉とその母に礼とさよならを告げてひとり夜闇の中へと飛び出した。
 目の前に広がる景色はその目には上手く映らないものの、車のライトや街灯が頼りなく照らして視界を色付けていた。夜の世界の中を歩くことは世の中の迷いを抱き生き続けることに似ているのだろうか。空には雲が蔓延っていて星すら見ることが出来ない。雲のカーテンは空という天上の視界を閉ざしながら空をゆっくりと流れて行く。一部だけ輝いて羊のような柔らかな姿を見せているのは月の輝きだろうか。透き通る羊は空を隠してしまっていた。
――なんにも見えないな
 味雲としては星が広がっていて欲しかった。その瞬間や帰り道の間、ただそれだけの時とはいえ迷いさえ吹き飛ばす美しい輝きたち。何兆年もの時を経て開かれた宇宙のタイムカプセルたち、或いは存在を星という名で記した空の墓標。
 どちらにしても美しいモノであることには変わりなかった。
 星の見えない、分かりやすい希望の証が視えなくて。気晴らしに雲を裂いてしまいたくてたまらなかった。
 闇の中、街灯や車のライトといった美しさの欠片も感じさせない地上の星を頼りに家に帰り、味雲の一日はようやく終わりを告げた。
 それから時は流れ、月の見守りや眠気誘う夜闇は消え去り辺りには淡くて鮮やかな空と柔らかで小さな雲の群れが広がっていた。更に時は流れ、味雲は毎日しっかりと霧葉の家にて食事とついでに箸の持ち方を練習するといったステキな体験を授かっていた。
 そうして訪れた今日は土曜日、学校は休みだったものの霧葉と会う予定はあった、今日も晩ごはんを霧葉の家で食べるつもりでいた。
 味雲は歩く。昨夜は闇に、それよりも前には味雲自身の心の向きどころによって閉ざされていた景色、公園にはアジサイの花が咲いていた。大勢で身を寄せ合って仲良しこよしに咲く姿は寂しがり屋で可愛らしい。色とりどりの花が咲いているのはどうしてだろう。誰が花びらに色を塗っているのだろう。分からないものの、きっと自然の神様が塗っているのだろう。それはどのような貌をしているのか、芸術家なのか霧葉の純粋な側面を思わせる子どもっぽさを持った子なのか、霧葉の陰のように心を痛めた人物のせめてもの癒しなのか。
 この前同じ公園に来た時にはどのような花が出迎えていただろうか。全くもって記憶には残っていなかった。
 あの時と同じ光景、それはそこに霧葉がいることだけ、それだけしか覚えていなかった。
「おはようミクモ」
 美しい少女の姿はいつ見ても美しい。景色の中で浮いてしまわない美しさの調和に見惚れていた。かつて美人に苦手意識を持っていた味雲はもうそこにはいなくて、意識は既に霧葉を想い続けるうつつの夢の中。
「おはあ」
 気の抜けた挨拶、現実感が少しばかり薄いのは寝不足が原因だろうか。味雲の朧と呼ぶに相応しい表情の色を見て霧葉は悲しみに歪められた瞳を異なる感情の色で更に歪めた。
「大丈夫かしら」
「大丈夫、恋の病」
 その言葉を聞き届けると共に霧葉は瞳に微笑みを乗せて、やはりその色で美しい眼を歪めるのだった。
「嬉しいわ」
 アジサイの花に手を伸ばし、集まり合った花びらに想いを軽く添わせる。
「アジサイって寂しがり屋なのかしら、こんなにもいっぱい集まって」
 人のようにたくさん集まって生きる姿、そこに人と同じような弱さと美しさを見いだしていた。更にアジサイの花言葉は移ろいであり、気分によって、機嫌によって様々な物へと気分を移ろわせる人間の様と重なる色を、その歪んだ瞳に見ていた。
 幾つの数字を数えずして落とし続けただろう。霧葉がアジサイに見惚れている姿に魅入られた味雲もまた、時というものを忘れ去っていた。
 雲が浴び続けることで地上からは曖昧な姿しか見せていなかった太陽が、いつの間にやらはっきりと地上へと光を注いで形を主張していた。雲の気は済んでしまったのだろうか。
「暑くなってきたな」
 味雲の口からはみ出るように発せられた声に霧葉も頷くことで同意を見せた。
 暑さから、日差しの視線から逃げ去るように素早く歩き出して、ファミリーレストランへと直行していた。そう、涼しさを求めて気が付けば朝の十時半にはたどり着いてしまったのだ。
「ちょっと早いけど、でも今日の依頼は午後一時だからちょうどいいかも」
 霧葉が今回受けた依頼、それはある病院に入院している老婆の身を地の世界へと引きずり込もうとする悪しきモノから守って欲しいという依頼。更に老婆が可愛がっている孫娘を怪異の手から守り抜いて欲しいというものだった。
「人の心の生みし妖しきモノ、特に恐怖から生まれた怪異は人に悪さをするものばかりだわ」
 人が恐れるモノ、優しさとはかけ離れた純粋な恐怖、掛け値なしの悪意は人によって産み落とされて人の身を打ち堕とす。
 仲間が仲間を貶めるものを想像して創造したのだという事実にある種の呆れを感じ取らずにはいられなかった。
 その目を見れば分かってしまうのだろうか、霧葉はチキンにフォークを突き立てて鋭い笑みを見せつけて言の葉を散らした。
「そうね、滑稽を極めてるわね。でもそれが人間というものよ。愚かで愛おしい不完全な頂点に立っていると錯覚せし生物」
 本当は頂点でも何でもないんだけどね、そう付け加えられた。
 それからそれなりに美味しい昼食をゆっくりと味わい、会計は霧葉が済ませた。
「どうせミクモのお母さん殆どお金渡してくれてないんでしょ」
 そう、学校の食堂の分の金額を除いては精々1がひとつにゼロが三つ並んだ紙幣が一枚手元に残ればいい方なのだった。昔ならば休日は昼ごはんを家にて済ませた後で勉強か金を使わない出かけで時間を潰せばよかったものの、今となっては霧葉と過ごす時間が出来てしまった。その縁は確かに非常に良いものだったが。
「ごめん、バイトでもして返す」
「だめ」
 きっぱりと断られてしまった。霧葉の話によれば一緒にいられる時間が減るような予定を組むのは反対とのこと。
 現実を見つめた上で思考の海から汲み上げた言葉を突こうとしたその時、その思考の海の中に霧葉のおじから伝えられた霧葉のことが大きく強く映され始めた。
 きっとまだ心の傷口は塞がり切れていなくて、この世のちょっとした苦しみまでもが塩となって傷口に擦り込まれるように入り込むのだろう。
「そう……だね、霧葉と一緒にいられる時間が減るよな」
「分かってくれた」
 そう返す霧葉の微笑みは弱々しくもあり強く輝いてもいた。
 ファミレスの扉、ガラスの頼りなく見えてしまうそれを開いてふたりは病院へと足を向けた。
 向かう先に待っているものはどのような異形だろう。味雲は近ごろまで全くと言っていい程霊が視えなくて、きっとこれまで幾つもの存在を人知れず無視してきたことだろう。
 歩き続けて向かった先、それはあまり見慣れない白い建物だった。立派に聳え立つ病院、病人やけが人を大量に飲み込み、そこから繋がった縁の糸、そこで朽ちたもの、腐り果てたもの、様々な物を飲み込み仕舞い込む施設には薄暗く禍々しい気配が必然的に集っていた。
 煙のようなレースのカーテンのような希薄で透き通る美しき禍々しさ、それこそが霧葉がいつも見つめているセカイの欠片なのだろうか。目を向けるものの、彼女はただ、真剣な眼差しで病院を、目的地を見つめて中へと入り込むだけだった。
 様々なこの世ならざるモノたちが話しかけて縋りついて、やがては飽き飽きした顔で離れて行く。俯いて全てを意識の外へと追いやって、相手の興味が失われるという流れを作り続けるのみ。きっと霧葉の行動は味雲のかつてのものと殆ど変わりないものなのだろう。
「心が痛まないか?」
 ついつい口にしてしまった疑問、霧葉は俯いたまま、微かに頷いた。確実に知らないフリで済ますだけ。
 視えているのだと知られてしまえばきっと彼らはどこまでもついて来てケラケラと笑いながらなのかしゅんとした表情で寂しそうになのか、とにかくひたすら気付いてもらおうと行動をとるはずだった。
 ほんの一握りの人物しか拝むことの出来ない嫌悪漂う異形を目の当たりにしつつしっかりとしつつもどこか柔らかさを感じさせる独特な踏み心地の床を踏み締め進む。階段を上って、霧葉と並んで歩き続け、目的地を辿る道のりの中でも最後の廊下を歩き、病室のドアを開いた。
 当然のように数人が寄せ集められた部屋の中、分厚いカーテンという存在感だけで作り上げられたような曖昧な仕切り、人の手によって気ままに作られ取り払われる不安定具合いに身を任せて揺れる壁の向こう、そこに老婆はいた。
 老婆は霧葉を見つめて弱り果てた表情で訊ねる。
「あなたが私をオバケから守ってくださるのかな」
 老婆の手元に紫色のリボンが緩く抱き着くように絡められているのが味雲の目を惹き付けていた。霧葉は深々と頭を下げて、丁寧な言葉を送り届ける。
「はい、川海 照香さま、あなたをお守りに参りました」
 老婆は空を仰ぎ、白い天井を侵す黒々とした染みを見つめながら話を続けた。
「そこの染み、私の見てるところからよく御覧なさい」
 言われたことには従うのみ。彼女と同じ視点に立って考えなければ分からないことだって多々あるものだ。霧葉と味雲は揃って照香が身体を寝かせているベッドの両脇を挟むように、肘を乗せるようにしゃがみ込み、天井を見つめた。
 黒い染み、それは広々と天上の画用紙を汚した人の姿の芸術作品となっていた。
「なるほど、こちらが特にあなたの身を引き摺り込もうとなさる霊のお姿ですね」
 霧葉の確認に対してしっかりと肯定を与え、会話を紡ぎ続ける。
「特に、まさにその通りです」
 照香の身体に目を向ける。途端に味雲は目を見開かずにはいられなかった。驚愕は、顔をも乱してしまうほどに大きなものだった。
 照香の身体に絡み付いている帯のような気配は無数にあって、管のような姿で巻き付いて、今にも命を奪おうかと言わんばかりに強く締め付けていた。管が力を強めるのが分かる、脈を打つように動いている時、その時に照香が大きく咳き込むのだから。
 そんな様々な感情の帯が巻かれている身に実態を持って優しく絡んでいるのは紫色のリボンただひとつだった。
「これは酷い、私すぐに祓ってきますね」
 例の力は使わなくて問題ないようだわ、そう告げて立ち上がる霧葉に続いて味雲もその場を立ち去ろうとした。その時だった。
 照香は味雲を呼び止めて、ベッドの隣に居座らせる。
「ぼうやにはここにいて欲しいわ」
 霧葉の方へと目を向けるとにこやかな笑みが帰って来た。
「どうぞ、私ひとりでちょちょいのちょいよ」
 楽な戦いを主張するものの、味雲の視線は霧葉の大きめで重みを感じさせる胸に注がれた。
「激しい運動は厳しくないか」
 霧葉は笑いながら胸に腕を被せて隠してみせた。
「おっぱいのことばっかり考えて、えっち」
 それだけ、軽くて愉快な言葉だけを残して霧葉は細い脚を動かし、美しい歩き方でカーテンの外へと歩き出した。
「大丈夫かな」
 芽生えた不安は蔓を伸ばして立派な負の感情を秘めた植物へと育って味雲の身に絡み付こうと身体をくねらせ始めていた。 照香は小さな笑みをこぼしながら味雲の方へと顔を向ける。
「優しい人ね、あの子、好きな人が自分のことオンナとして見てくれてうれしいみたい」
「そ、その話はもう、いいですって」
 ついつい声を上ずらせて張り上げる。自身の声の響きにすぐさま周りへの迷惑を想って口を閉ざして、ばつの悪さを感じつつも照香との話の続きを繋ぎ始めた。
「そういえばどうして俺の方なんです? 女同士の方が話しやすいでしょうけど」
 沸き上がり噴きあがる疑問、開いた穴から次々と昇って心の天井を打って中を充たそうとするあまり良くない感情の間欠泉。それを照香は眼差しと言葉の序盤だけで塞いでみせた。
「話したいから呼び止めたの」
 そこから話はきっちりしっかりと紡ぎ出され続けて、味雲の心に記憶に心地よく結び付けられて、縁の証を残して行く。
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