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閑話 1 高校生『雨空 味雲』の旧友

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 大きなドア、大きな本、大きな時計、全て大人から見ればそこら中にありふれたものだった。しかし子どもから見れば何もかもが大きなひとつのセカイだった。普通の家までもが屋敷のように広く大きく感じられ、そこに収まる背の高い大人は巨人のように思えた。そんな子どもたちの眼から見える特別は物や人だけではなく、溢れる夢や煌びやかな想い出もそうなのかも知れない。
 当時小学生だった味雲は学校の授業を終えて友だちの家に遊びに行った。とても仲の良い友人で、両親揃って酒に溺れていたがために貧乏だった味雲は彼からエアーガンをもらってそれを暇つぶしに、毎日の楽しみにしていた。
 エアーガンをもらったこと、おもちゃの引き金を引き続けては草むらに撃っていたこと。それが引き金だったかのように父と母の仲が突然極端に悪くなり、父が母を殴り蹴り怒鳴りつけ始め、家庭は崩壊の過程をなぞり始めていた。
 そんな父の恐ろしい姿、悪鬼のような男の姿はあまりにも大きくて禍々しかった。
 幼く力も勇気もない味雲には目の前の現実から目を背けてすぐ近くで鼓膜を叩き揺らす怒声に耳を塞いでただ逃げること、できるだけ遠くへ逃げること、ただそれだけしか出来なかった。
 逃げた先のひとつである友人の家、普通の一軒家が味雲には立派な屋敷のように見えていた。そこにいる友だちの父親は穏やかな物腰で知を感じさせる。その優しそうな姿は天使のように見えた。
 父親って、こうまでも違うんだ、味雲の中ではこの上ない程の衝撃。頭を撃つ強烈な感情の刺激は友人の父親への好意へと繋がっていた。今日も来てくれてありがとう、そんなよくある言葉のひとつまでもが美しく想えていた。
 歓迎の言葉に目を輝かせながら一段一段が高いこげ茶色の階段を上って友の部屋へと入ってゆく。子どもからすれば高い段ではあったものの、苦というには軽いそれを跳ねるように上って、廊下を歩き始めてすぐさまたどり着いたドアを開く。
 向こう側で、部屋の中で待っていた人、彼は眼鏡をかけた背が高めの同級生。同級生は痩せこけていて、しかしながら生が失われたわけでもなく、不思議な心地を纏って飾りこなしていた。そんな彼は味雲が入ってきたと同時に慣れた手つきでCDをラジカセへと入れて音楽を流し始めた。
「オススメの曲なんだ、シングルだから二曲と演奏の全部で四曲だけなんだけど」
 それは子どものふたりにも分かるほどに単純なカッコよさと裏で奏でられる複雑ながらに分かりやすく特徴的な旋律で彩られ、心を盛り上げるような高い男性の声が印象的なものだった。丸い板に刻まれた音楽をふたりして心行くまでに楽しみながら友の持つ人気アニメのカードゲームで遊び、時間を潰して行った。白熱したカードゲームでの戦い、自分のターンが回って来る毎に山札からカードを一枚引くという緊張感あふれる瞬間。当時の味雲にとってはそれだけでも楽しくてたまらなかった。時間の流れが遅い、襲って来る不安感から解放された。そう感じられるほどの快楽感を身に染みて味わっていた。
 戦いの果て、以前より少しばかり上がった勝率によって上昇気分を起こして照らされた瞳。そこに映る窓の向こうの景色は薄暗い。
 気が付けば日は落ちていたのだった。公園に建てられた大きなモニュメントがアパートの群衆の隙間を潜り抜けて頭を覗かせて暗闇からこちらを覗き込んでいるように見えて少しばかりの恐怖感をちらつかせていた。
 か弱き身を暗闇から守る明るい部屋から出る前に、味雲は気に入ったアルバムのジャケット写真にしっかりと目をあてて、記憶の表面に焼き付ける。頭から地面に刺さった赤い標識、白い文字で止まれと書かれた赤いそれがもぎ取られたようにポールの根元辺りでちぎられ突き刺された絵、折れたわけでなく、力任せにねじりちぎられたものが頭からアスファルトの道路に突っ込まれて刺さっているのが印象的だった。耳に残る音色の余韻もこぼさず残さず頭の中に刺し込むように覚えて帰り、何度も頭の中で繰り返しては心を湧き立たせていた。
 後日、なけなしの金を片手に味雲はあの印象的なジャケット写真を目印に目当てのあれをしっかりと探すも、それを見つけることは叶わなかった。食い入るように探してみても、どの店に行ってみてもそれはなくて、存在自体が否定されている様を思わせる。新品も中古も問わずどの店にも置かれていなくて幻のよう。
 味雲は大いに肩を落とし、楽しみを失った心を引き摺りながら空しい平凡な道路を踏み続け、今日もまた居心地の悪い家に帰る他なかった。


  ☆


 時は流れ、どれだけ大きくなっただろう。かつての幼さは失われ、カードゲームやエアーガンを嗜む心などとうの昔に忘れてしまっていた。
 環境は相変わらず歪んでいて世間のことは人並み程度にすら把握できていなかったものの、健康にだけは、せめて分かりやすい程の極端な不健康だけは遠ざけてしっかりと成長した味雲。そんな彼は今、ある女子高生の家にいた。
 薄桃色のカーテンは可愛らしく、不思議な空間を作り上げていた。自然な可愛らしさに慣れていない味雲の心は弾んでいた。心臓の鼓動はどこまでも早くなって、泊まることを知らなかった。
 味雲をどこまでも惑わすその部屋に住まう人物、黒くて長い艶のある髪を背中辺りまで伸ばした少女。そんな綺麗な髪の持ち主は絹のように白い肌と薄桃色の厚い唇、そして悲しみに歪められてはいるものの美しさはまだまだ保たれている瞳をした美人。
 味雲にとって黒くて長い髪はホラー映画に出て来る幽霊を思わせる。美しい顔は女優やモデルの世界で魅せるためのもののようで表情の変化が演技のように感じられていた。それに加えて住む世界の差を見えない壁という形で感じてしまうため苦手なのが本心だった。
 吐き出してしまいそうなほどに強烈な嫌悪の想いを、苦手意識という心の声をどうにか飲み込んで味雲は目の前でテレビを見ている美人に声をかけた。
「霧葉」
 霧葉と呼ばれた少女。彼女はその目をテレビから味雲へ、映す相手を移して柔らかな笑みを咲かせて手招きをした。
 味雲は胸を締め付けるような肺を満たす水のような。そんな息苦しさとどうにか付き合いながら言葉をどうにかひねり出す。
「おいでおいでじゃなくて。その……やっぱ俺帰っていいか? 苦手な顔とは言っても女の家上がるのめちゃ恥ずいんだけど」
「いけないわ。いつの日かあなたが住むであろうお家のどれかが女の家にもなるから」
「それがそうとも限らないんだよな」
 霧葉は味雲を悲しみに歪められた瞳に捉えて得意げな顔を浮かべる。それから一瞬の空白の後、言葉を返す。
「その言葉覚えといて。私が斬ってみせるから」
 美しい顔に得意げな表情、その組み合わせはあまりにも美しくあまりにも味雲の好みからかけ離れ過ぎていた。
 そんな顔を見つめながらの会話の中、テレビはコマーシャルを流し始めていた。
 その時、味雲は驚きに息を止めていた。テレビのスピーカーからはある音楽が流れていた。その音色は、子どもの心にも伝わるほどに単純で分かりやすくありながらもカッコよいメロディーとそれを引き立てる複雑なメロディーが見事に混ざり合っていた。それに乗せて歌い上げられる高い男の声は心を昂らせて周りを盛り上げる。
 味雲はすぐさま思い出した。幼い頃、友達の家にてふたりで聴いた音楽だと。しかし、懐かしさは完全に打ち崩されてしまった。
「ニューシングル 人は止まれど時は走る」
 映し出されたジャケット、それはまさに味雲の想い出の世界に佇むあのデザインそのものだった。ポールの根元辺りから引きちぎられたポールの写真。止まれと書かれた標識が頭からアスファルトの道路に突っ込まれ刺されたデザイン、そんな印象的なものを見間違えるはずがなかった。
「嘘だろ……それってあの時の」
 昔見たはずのそれに対してテレビのコマーシャルが新譜だと語っていた。驚きのあまり目を見開く味雲を優しく見守っていた霧葉だったが、彼が動揺に取り憑かれた姿、他の全てのモノが見えていないようなその様は、起きながら夢を見ているような、地に足を着いているか心配になってしまう心地だった。
「なにがどうしてこうなってるのかしら。全てお話ししてごらん」
 誰にも触らせていない自分と友のふたりしか知らない自分の手垢だけで真っ白に濁り切っていながらも澄んだ記憶を渋々霧葉に話す。感情を不用意にさらけ出してしまった味雲。そこまで読み取られてしまっては話さなければ納得してくれるはずもなかった。
 味雲が抱える可愛らしかったころのあどけない記憶の内、必要なもの全てを余さず聞き出した霧葉は頷きながら訊ねる。
「それがどこか覚えてる?」
 霧葉は味雲の想い出の渦に割って入り、追憶の地の今の姿を確かめるためにその場所へと向かった。
 その友人の家へと足を向けたのはいつ以来だろう。味雲は掠れていたはずの思い出をはっきりと思い出していた。その瞳には今と過去が重なって映される。変わってしまったもの、変わらずにそこに居続けるもの、想い出に成り果ててしまったもの、当時は気が付かなかったもの、初めて見たにもかかわらず懐かしさを心へと送り届けるもの。
 様々な景色の様々な貌を再確認して、新たに知って、記憶という地図に頼り切ってたどり着いたそこに建っていたものは味雲の知る一軒家ではなく、古びた小さなアパートだった。
「え……どうして」
 呆然として言葉をこぼしていた。理解が追い付かないまま立ち尽くしていた。記憶の中の現実とそこにある事実は大いに食い違っていた。あまりにも古びたアパートの姿は明らかに味雲が生まれるよりも前から存在していたものだと主張していた。その記憶は間違いだと体を張って言い切っていた。
 そんな光景を前に驚きをぶつけられた味雲は思わず口を開く。感情は言葉を抑え込んでしまったのだろうか、声のひとつも出てこなかった。
「これは明らかに築40年は超えてるようね」
 家を観察している霧葉の顔は真剣そのもの、周囲から足りないと言われ続ける頭を必死に回転させながら味雲にハッキリ堂々とした口調で問いかける。
「アメソラ、ホントにここであってるの? 例えば違う記憶と混ざって違う場所だったってことは」
 味雲は首を横に振って答える。霧葉の問いかけからは疑問というより確認の意思が見て取れた。
「それは厳しいな。まず道が道だし、何より二階から覗けばそこのアパートたちの隙間からちょうど公園の塔みたいなのが見えるはず」
 霧葉は言葉のひとつひとつを噛み締めるように頷き更なる確認を試みた。
「もっと向こうはどうかしら」
 霧葉が腕を伸ばし指し示した方向へと足を運ぶも、くぐり抜けた先には商店街が敷かれるように伸び広げられていた。道路を流れる川のような活気を通り抜けるつもりなど一切ありはしなかった。これ以上離れては公園の象徴がアパート群に沈められ隠れてしまうのだから。
「反対側からこのくらいの距離は」
 そこで言葉は途切れた。霧葉の言葉の示す場所は他ならぬ霧葉本人の家の近く、まず間違いなく味雲よりも詳しい場所。霧葉の記憶の像の中にそのような立派な家などありはしなかった。ここはベッドタウン、そもそも豪華な家自体がこの場所とは不釣り合いだった。
「そう……これは不思議なお話ね。アメソラが未来に行ったのか向こうが未来から来たのか」
 頭を抱えて悩む姿は他の人からすれば実に微笑ましいものであろう。味雲としてはやはり好きにはなれない。その瞳には少しばかり演技臭く映ってしまう。
「並行世界、とか」
 あまりにもオカルトじみた答えだったものの、それを笑うには現状が既にオカルト色に染まりすぎていた。
 結局のところ、結論は出ることもなく諦めて家に戻り、再びふたりの時を過ごし始める。
 霧葉はもやもやとした気持ちを抱え込みすっきりとしない表情を浮かべながら問いかける。
「ところで、解決しなかったのは仕方ないけど、そのシングル買わないの」
 想い出として脳裏に焼き付くほどに強烈な物ならばと思ったのだろう。しかし、味雲は首を左右に振り、感情を抑えた声で答えていた。
「いや、やめとこう」
 味雲がそういうなら。霧葉が返した言葉によってこの件は締めくくられた。

 知っているはずのない思い出の曲、あの時そこにあるはずのない物。味雲は愛しかったはずの想い出が脳裏をよぎる度に気持ち悪さを覚えるようになってしまった。
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