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高校生『雨空 味雲』の迷い

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 暗闇は視界を閉ざし、耳に静寂を流し込む。どこまでも広がり物足りなさと痛みを与えていて、感情をはっきりと瞼の裏に映し出していた。世界の動きを微かにも感じさせないそんな時間、ベッドの中で味雲は丸まりながら頭を抱えていた。ただただ起きたまま悪夢にうなされていた。眠ることすら許してはもらえない悪夢の夜、眠れぬ悪夢の夜。それは抜け落ちないように強く深く確実に味雲に張り付き刺さり蝕んでいた。


 よっ、味雲

「やめてくれ」

 なあなあ味雲、俺たち学校卒業しても一緒にこうやって並んで飯食ってんのかな

「頼む、やめてくれ」

――思い出は……俺にはあまりにも痛い


 ひたすら駆け巡る思い出の破片、それが味雲を掠めて刺して切り裂いて。


 逃げるしか能のない臆病者め

「霧葉……」

 これからは私と一緒に動いてもらうから

「俺には重すぎる」

 他の女の子のことを見るのは許しません重罪です断罪ですってね

「よそに行ってくれ」


 味雲の内を駆け巡るモノたちは良い物悪い物問わずに全てが鋭くて苦しかった。そうしてしばらく眠れぬ悪夢に苛まれ疲れを得て、ようやく意識を失うように眠りに就いた。意識すら鎖すこと。それこそが彼にとっての安らぎを得る手段。それしか残されてはいなかった。


  ☆


 明るい空は晴れ空で、心の中は雨空。目を覚まして心に鞭を打って身体を無理やり起こした。気怠さは心の表れなのだろうか、それともただの寝不足なのだろうか。考えることすら投げ捨てて、覚束ない足取りで歩いてゆく。部屋のドアを開けて、まぶたを擦りながらリビングへと向かう。身体に残る気怠さは味雲を揺らして止まらない。
ごはんとインスタント味噌汁に緑茶という簡単な朝食を済ませた。その食事に感情など見受けられず、ただ空しさを食べた心地だけが広がっていた。緑茶を飲み干して制服の袖に腕を通し、鞄を肩にかけて家を出る。
 歩けど進めどただひとり。関わりのない騒がしい人々など道路を走る車と何ら変わりはなかった。空は何も誰も見ていないのだろう。自分の感情だけで人々の住む世界に影響を及ぼしてしまう。空は笑っていた、この上なく機嫌よく、笑っていた。味雲の事情などお構いなしに笑っていた。
友を喪って3日は経つ。それでもまだ、それだけではまだ、味雲が立ち直るには足りなかった。同じ色の制服を着たやけに明るくうるさい女たちを無言で追い越して、同じ制服を着た男も追い越す。黒のスーツを着たオトナの女も追い越して、ただ目的地を目指して素早く進んでゆく。
 進む少年、その心情はくすんだ空模様。対して目の前に広がる空はあまりにも澄んでいて心の底に溜まった澱との色合いの差は一目瞭然だった。現実と異なる心の濁りはより一層主張を強めて足取りを重くしていた。
「アメソラ、おはよう」
 突然耳に届いた低く枯れた声が世界に奏でられた。澄み渡る空の下、味雲に向けて緩やかな波のように伝わった。
「おはよう霧葉」
 長くて黒くて美しい髪に整い過ぎた顔、それらの中でも特徴的な物は悲しみの感情に歪められたように見えるもののそれでも美しさを保っている瞳。味雲にとってはあまり好みではない美貌だったが、その顔が形を崩して今の空にも負けない雲一つ感じさせない笑顔を必死に作っている様を見て、構わずにはいられなかった。
「昨日はちゃんと眠れた? アメソラ」
 訊ねながらも味雲の少しばかり細められた力のない目を見て悟る。
「そう。今夜はぐっすり眠れたらいいね」
 霧葉の細くて綺麗な指が味雲の頬をつつく。力の緩やかなそれは妙に心地悪くありながらも味雲の心の奥に眠る心配の情を呼び起こしていた。
「どうしても眠れなかったら私のとこまでおいで。一緒なら、きっと怖くないから」
「いや余計怖いから。美人で黒いロングなんてホラー映画のお化けすぎだろ」
 美しい顔にそれを歪めつつも美しさを保った悲しみ色の瞳と低く枯れた声、そして残念な考え方。どれもこれもが味雲とは相容れないモノでしかなかった。そんな美貌が形を崩して百点満点を作り損ねた歪んだ笑顔。それがいつの間にやら優しくも哀しさを含んだ微笑みに変わっていた。
「私の美貌を直視できなくてみんな避けるからあれだけどアメソラはちゃんと構ってくれるから嬉しい」
 それ絶対変な宗教の噂とやらのせいだろ。そんな言葉を内に仕舞って味雲は気になっていたことを訊ねる。
「ところで霧葉ってなんでお祓いとかそういうのバレたんだ?」
 霧葉はただ目を伏せて抑えた声で語る。瞳の形といい力を感じさせない声といい、この感情がとてもよく似合っていた。
「筆箱を変えてから体の不調で困ったという同級生を助けたの。次の日には噂になってたわ」
 味雲は同情した。助けを求められて聞いた結末に待つ理不尽、それはまさにこの世界そのものだと思えた。恩を仇で返すことなど最早日常風景なのだから。
「そっか、大変だったな」
 苦手な見た目をした少女だったが側にいてもいい、少しだけ心を開けた、そう思えた。一方で霧葉は既に五歩先のところまで歩みを進めていた。
「ちょっ、さっきまでのやり取りからこう来る?」
 立ち止まり、振り向いた。悲しさを優しさに変えた控えめで爽やかな笑顔とともにお送りされた言葉。
「さっきの失言、なかったことにして欲しいな。ねえ、いいでしょ、ツラい事なんてなにひとつありませんでした」
「はあ、そうですか」
 頭の悪い反応をいただいて呆れを抱きつつも霧葉について行こうと歩き出した。霧葉は再び前を向いて歩き始める。隣に並んで霧葉の顔を覗き込み、気になることを訊ねた。
「どうにも分からないんだよな。なんで俺にそこまで……ああ、霧葉はひとりぼっちだったな」
 途中で出された結論に対して霧葉は笑みを強めて不自然な味わいをひねり出し、味雲の手を握った。
「ひとりぼっちなんて言った罰として放課後も一緒ね」
 味雲の表情は凍り付く。追いかけるべきではなかった、無視して追い抜き、いつもより嬉しそうでしかし弱った笑みを咲かせていた少女の貌だけ見て進むべきだった。
 見捨ててしまえば霧葉は悲しみに飲まれながら冷静の感情を覚えるだろう。二度とこの酷い男には近寄らなくなっただろう。あの笑顔を壊してしまえば。
 そこまで考えて、思うことをやめた。味雲の中に渦巻く感情が容赦を知らぬまま直接責め立てていた。あまりにもかわいそうだ。そこで気が付いた。情が移ってしまっているのだということに。
 隣り合う霧葉に少しばかり近付いてしまったような気がした。


  ☆


 授業はいつでも面倒で勉強など将来を輝かせるための道具に過ぎない。それが味雲の価値観。しかし、道具を活用するための授業はまじめに受けようと思う心意気くらいはあった。
教師の手が動き、白い文字が緑の板に書かれてゆく。文字を書き留め、言葉を書き留める。綴るものには教師の人生観や体験まで含まれていて、味雲には痛かった。些細なことが夜には大きな棘となって眠れない悪夢に変わりゆくのだから。
――今日の放課後なあ
 学校の中の誰も羨ましがらない美人との帰宅を想う。
――どうか俺まで変な宗教の信者と思われませんように
 ただただ祈るばかり、祈る対象などいるのだろうか、存在すらしないなにかに祈ること、それこそおかしな宗教だと思えてくる。考え出したらキリがなかった。
 流れゆく時間、味雲にはそれに抗う術などなく平和に授業は進み、余計なことを考えている余裕など何処にもありはしなかった。やがてひとつの時を使い果たした合図としてチャイムは鳴り響き、昼休みの訪れを告げる。
 ひとりで食堂へと向かってゆく。隣にあの友人はもういなくて、楽しく言葉を交わし合うことがなくなってしまったことへの物足りなさに浸って思う。
「堂一はいいやつだったよ」
 過去と本当の心の姿を暴かれて地獄へと落ちていったあの友人。思い出すだけで空虚が味雲の心に注がれる。友人を地獄へと突き落としたのは、他ならぬ味雲だった。物を言う資格などない、心に焼き付けながらゆっくりと力なく歩き続けていた。
 ひとりで食堂へ、足が勝手に向かっているように感じられて、それもまた虚しさに拍車をかけていた。
 たどり着いてすぐさま金を券売機に突っ込み、この前の美味しくないラーメンを頼んで受け取り席に着いた。
 友との最後の食事と同じ物、そこから上る湯気になにを見ただろう、なにかを見ただろうか。寂しさは膨れ上がるばかり、湯気とともに上ってゆく。熱いラーメンを啜り、大していい味でもないそれを必死に味わう。悲しみに閉ざされた青春の味、絶対に感じられないはずの苦みを感じていた。
 食べて食べて麺とともに想い出を飲み込み、スープとともに悲しみをも流し込む。気が付けば顔をなぞるように温かな水が一筋流れ、想いに対して正直な姿勢で向かい合っていた。そうして流れた涙は静かに伝う。感情に動きをも止められた彼の頬を伝う涙を指で掬い、何も言うことなく少女が隣に座っていた。いつの間にそこにいたのだろうか。味雲には分からなかった。ただ、自然とその名は口からこぼれていた。
「霧葉……」
 呼ばれるもののものも言わない、口を開いてはみるものの言葉が奏でられずに宙を漂う感覚を思わせる。
 霧葉は明らかに言葉を詰まらせていた。そんな様子を目にしつつ、味雲は素早くラーメンを平らげてそっと微笑み立ち上がる。
「大丈夫だから、もう行こう」
 霧葉のせいで平穏は崩された、その言葉は仕舞っておいて、代わりに別の言葉を選ぶことで心を隠し通していた。
 霧葉がいなければ将来堂一とたまに会って美味しい物を食べながら語り合う未来があったのではないか。かつて架けられていた人生の橋。切れてしまって架空となった未来を想わずにはいられなかった。
 しかし、首を左右に振って否定して思い直す。このきっかけがなくともいつの日か堂一は暴走したであろう。運命の道のどこかで化けの皮は剥がれてしまう。人というものは強いモノではないのだから。
 わかってはいても、どれだけ考え直しても、霧葉のせいにしようとする心の動きは幾度となく巡り来て主張を強めていた。

 同居する想い、事のホントウはわかっても心の底に隠れて居座る本音は本人にすらわからないままだった。


  ☆


 食堂を出て歩く。霧葉が隣にいて一緒にいて、共に進んでいた。
「なんでついて来るんだよ」
 霧葉は静かな声を、枯れた声を抑え込み笑う。校舎にはあまり似つかわしくない華、制服が霞んでしまうような美の体現を前にして味雲は苦笑交じりに言葉を放った。
「霧葉は美人過ぎて制服が似合わないよな、もっとシャレた服とかのがいいんじゃね」
 校則以前の問題で、学校では制服を着用することなど当たり前のことだった。それが分かっていながらも訂正する素振りも悪びれる様も見せずに味雲は続ける。
「俺に構ってる場合じゃないんじゃないかな、若いって思ってたらいつの間にか顔のシワとかシミとか増えて台無しだからな」
「そういう味雲は嫌い。わざと嫌われようとしてるの、見え見えなんだけど」
 気が付いてしまった、遠ざからない者を遠ざけようとする行い。本当であれば近付きたくもない相手。それにもかかわらず構ってしまうというある意味特別な相手を遠ざけようと嫌な言葉をわざと向けてみたものの、目の前の少女は遠くへと行こうとはしてくれないようだった。
「違う、俺はどうしたらいいのか」
 分からない、矛盾がつきまとって味雲のことを嘲笑い、めちゃくちゃな想いの波が渦巻く。ただそれを見つめて流されることしか知らなかった。嫌いな相手は、苦手な相手は目の前の霧葉という美人などではなく、美人が苦手な味雲自身の心ではないだろうか。
 立ち尽くして呆然とする味雲の手を取って霧葉は白い手首に巻き付けられた薄桃色の腕時計を見せた。
「時間、迫ってるよ」
 その針は、休憩時間の終了まで残り二分だと示していた。味雲は針を映していた目を見開き大袈裟に手を振り今の感情をそのまま声にした。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ」
「味雲のことが大事だからギリギリまで心を整理整頓させてようかと」
「やっぱバカだ」
 ふたり共に焦りを握りしめて慌てつつもしっかりと並んで走り出した。


  ☆


 チャイムが授業の始まりを知らせた時、どうにか間に合い席に着いていた味雲。椅子に座って正面を観つつ肩で息をしていた。教科書を開き、疲れに力を奪われ集中できない頭で教師の声が示す音の意味を寸でのところで理解しながら書き留める。
――いつもと違っていいなあ……じゃねえよ俺
 集中力を取り戻そうにも盛り上がる心はどうにも平常が視えないようで、心は着地点を見失ったまま漂い続ける。その心情は味雲の中にていつまでも新鮮な輝きを放っていようとし続けていた。そうあり続けようとはするものの、さすがに叶わなかったようで少しずつ収まりやがてはいつも通りに授業を受ける味雲の姿を見て取ることができるようになっていた。
 それから時間は溶けるように過ぎてゆき、掃除時間と名付けられた生徒たちの休憩時間が訪れる。掃除場所に向かった生徒たちはさも当然のように雑談を交わして手だけを動かして自然とやったフリに徹していた。
 そこからは時の流れも早く、チャイムの報せを耳にした瞬間生徒たちは取り繕っていた動きをやめて教室へと戻る。掃除はしっかりやりましたとでも言ったような態度が目立っていた。
 教師の退屈な説教交じりの話をホームルームの始まりから終わりまで、気を抜きつつ軽く聞き逃して解散する。あとは晴れて自由の身だった。
周囲が自由を謳歌し続ける一方、味雲には自由など訪れていなかった。鞄を肩にかけ、校舎を出て、校門を背に歩いてゆく。向かう先、それはあるカフェ。まだまだ機嫌のよい空を背景に歩き続ける。空の笑顔は底抜けに明るかった。空の貌はどこまでも正直で優しくて麗しかった。
 閉じた傘のような姿をした木々を横目に歩く。緑色に彩られていて、少しばかり独特な香りが鼻を通って残り続ける。それが記憶として頭の奥に焼き付くことをなんとなく嬉しく思えていた。
 そこからひたすらまっすぐ進み、公園を横目に通り過ぎようとした時、異様な光景を目にした。
 見覚えのある少女が小さな女の子の前に立ち、ロウソクに囲まれた狭い空間の中で和紙を細い指で挟みなにかをただひっきりなしに呟いていた。絶え間なく発せられる声を辛うじて聞き取るものの、それが示す意味など全く分からない。そこから受ける印象はただひとつ。
――除霊かあ。へんな宗教っぽいなあ
 やはり周りの言うことはある意味正しくて、その光景は近寄りがたい印象を与えていた。
 傍から見れば完全に危ない人物そのものだった。事情を知っている味雲ではあれどもさすがに近寄る度胸もなく、呼び出しに応じる勇気もなくて立ち去ろうとする。
 足を踏み出そうとした瞬間、何かが足に触れる。目を向けるとそこにあるものは桃色のガラスのアヒル。透き通るそれには水が入っており、尻尾が吹き口となっていた。
――水笛……懐かしいな
 母と過ごし始めてから知った玩具、その懐かしさに浸りながら手に取る。するといつからどこから現れたのか、隣に女の子が立っていた。女の子は味雲の瞳を覗き込む。味雲もまた、女の子の目をつられるように見つめていた。

 なぜだかそう動いてしまう。意識は危険だと叫び、頭の中では落ち着きのない靄が暴れ回る。

 しかし、今の行動に抗うことなど何故だか叶わない。この状況がおかしいことなど分かり切っていたにもかかわらず、敵わない。
 今目の前にいる女の子は霧葉の前で分からない言葉を聞かされ続けている女の子と同じ姿をしているのだから、おかしいと思わずにはいられなかった。何故だか、姉妹だとは到底思えなかった。
 女の子は味雲に手を伸ばす。味雲もそれに倣って女の子に手を伸ばし、指同士を絡め合う。完全に女の子の思いのままだった。ふたりは手を繋いで歩き始めた。
 この景色から遠ざかり、歩いて進んで。あの場所から遠ざかる毎に景色が変わってゆく。先ほど通ったはずの道、そこにあったはずの建物の数は減ってゆく。木々や田畑が少しずつ増え、味雲が通う学校は少しばかり綺麗になっていた。道路はひび割れて雑草が生え、家の食材がなくなるたびに足を運ぶスーパーマーケットにもその存在をアピールするための看板がなく、時たま帰りにお菓子を買うために寄っていたコンビニに至ってはその姿すら見当たらない。
 歩みを進めてようやくその目で捉えたコンビニは本来そこにあるものではなかった。そこにあるべきものは定食屋、そこそこ安くてなかなか美味しいと評判の店があるはずだった。目にしている光景と知っている光景の差に味雲は完全に迷い込んでいた。女の子は味雲の手を引っ張りコンビニへと進み始める。
「おなかすいたからアイス買って」
「俺の奢りかよ」
 空腹も景色の香りも気温すらも今の味雲には分からなかった。感覚が薄れゆく。まるで朧気な夢の中を歩いているよう。コンビニの自動ドアが開いて出迎える入店音も店員の「いらっしゃいませ」の声も、届いているような届いていないような。曖昧で不思議な感覚だった。
 朦朧とした淡い感覚でしっかりと地を踏みしめる。女の子がアイスを選んで、味雲はただ素直に金を払った。女の子は引き続き手を引っ張ってゆく。周囲から見たその様はまるで子どもに飼われている犬のよう。
 特に何事もなく支払いを済ませて店を出た。女の子は待ってましたと言わんばかりの笑顔で味雲からアイスを受け取ってすぐに開けてかじりつく。笑顔はこの上なく輝き今のこの世のなによりもしっかりとはっきりとしていた。
 次の日には学食も節約しなければならないと味雲の財布は空腹感と危機感を訴えていた。他にもなにか出費の予定があった気がしたが思い出せない。知っているはずなのにどこか異なるそこに迷って不安を浮かべる味雲、表情を曇り空に変えていた味雲だったが、隣で咲き誇っている小さくて嬉しそうな顔を目にするだけでついつい頬が緩んでいた。
「なあ、これからどこに向かうのかな」
 訊ねる味雲に対して女の子は快晴で満天の笑顔を見せつけて答えた。
「お家まで! それからいっぱい遊ぶの」
「そっか、じゃあそこまでね。俺にも予定があるか……ん?」
 予定、大切なはずのそれを見失ってしまっていた。どこに落としてしまったのだろう、辺りを見回すもののかつて一緒にいたおかしな美人の顔が、記憶の中の表情がぼやけて不鮮明なものへと変わりゆく。声も歪んで思い出せない、言葉すら記憶の表面に現れなくなっていた。
――まあ、いいか
 思い出すことなど早々に諦めて女の子に連れて行かれるままに進みゆく。進むごとに過去の何もかもがどうでもよくなって、想い出への思い入れを忘れていた。異常なことだがさっき出会ったばかりの女の子、目の前で笑う彼女のことしか目に入らなくなり始めていた。
 味雲は霞んだ空を見つめる。全てが夢のように思えて、自身の存在さえもが幻のよう。存在までもが曖昧でやんわりと自分の意識をも奪い去る感覚の中で、味雲の胸を刺す衝動が騒ぎ始めた。どのようなものなのか、それすら思い出すことの出来ない大切な思い出が味雲を刺して訴えかけていた。痛みは幻の中に現実を見せる。ここは、これは、夢ではない、そう示していた。夢ではないこの世界の外は現実という名の眠れぬ悪夢の世界。
 ならば、悪夢などもういらないのではないだろうか。
「悪夢はもういらない」
「悪夢? お兄さん大丈夫? 悪い夢なんてわたしがやっつけてあげる」
 女の子の強気な言葉に味雲は微笑んだ。
「ありがとう」
 それから知っているはずが見慣れない木々、塗りなおす前なのだろうか古びてわずかに埃っぽい色を帯びたアパート、少しばかり環境にくすんだ車を横目に進んでゆく。女の子はそこでようやく名を澄美だと教えてくれた。この会話の中で味雲は自身のことを口にしない、できない。思い出せるような思い出せないような、沈んでしまったそれらを引き揚げることなど叶わない。しかし、なぜだかすぐに諦めがついていた。
 澄美と歩き続けてどれだけ時間が流れ去っただろう、空はずっと明るく笑って爽やかな色のまま。進む先に、わずかに見えてきた家、そこを指して澄美は嬉しそうに明るくてよく通る声で言う。
「着いた、ここだよ」
 新しい家、建てられてから歩んだ歴史の浅い新鮮な家。周りの景色が朧気である中で、目の前の家だけがはっきりとしていた。その映像の鮮度だけが妙に高かった。
 味雲はズボンのポケットに違和感を覚え、手を入れる。いつの間にやらポケットに仕舞っていたのか、アヒルの姿をした水笛を取り出して女の子に渡そうとする。
 しかし、それが叶うことはなかった。
「アメソラ!」
 大きな声を飛ばして駆け寄ってくる姿に驚き振り向いた。そこにいる少女、味雲が会って来た人物の中では飛び抜けて印象的な性格をしている上に最近ずっとそばにいたはずの彼女の姿。なに故に忘れていたのだろう。
「霧葉」
 姿を目にした途端思い出した。全てが蘇ってゆく。記憶の何もかもが霧葉の色に染め上げられていった。霧葉との会話や堂一とのやり取りや結末、ひとりで涙を飲みながら食べたラーメンの味、一緒にいてくれた霧葉の優しさへの柔らかな想いと友の事実を暴いた霧葉に対する棘の生えた想い。苦手な顔と温かな想いと憎しみとどこか愛おしいその振る舞い。
 目の前にいた美しい少女は女の子を引き連れていた。味雲の元にいる女の子と同じ姿をした子を前に味雲は訊ねる。
「双子かな」
 美しさに悲しみを乗せた目で味雲の姿をしっかりと捉え続けて、霧葉は口を開いた。その口から発せられたものは否定の言葉。一度耳にして信じることなど困難な言葉だった。
「違う、この子とあの子は……同じ子だよ」


 ある女の子がいた。

 母からもらった水笛を大切そうに両手で包んで歩き、笑顔を咲かせていた。

 空から降り注ぐ熱と光はあどけない笑顔を輝かせる。

 地面を踏んで、元気よく跳ねるように進んで。

 流れゆく景色は少しばかり自然が多くて優しくて。

 美しくて愛おしいいつも通りの景色の中、澄美は友だちと会うために歩いていたのだ。

 途中のコンビニに寄って気に入りのアイスクリームを買って、食べながら再び歩き出す。

 幸せはいつまで続くのだろう。

 幸せはそう長く続くこともなく壊れた。

 公園近くの信号が青を示したのを目にしてウキウキで渡ろうとした時、悲劇は起きた。

 角を曲がる車。

 それはスピードを落とすこともなく女の子の身体にぶつかって、そのまま身を引きずった。

 辺りにまき散らされる赤いもの。

 そこら中にばら撒かれて薄れて行って、形すら残されなかった幸せの感情。

 この世の中で最も単純な最後の悲劇がそこにはあった。

 幸せは、ひとりの不注意によって取り壊された。


 水笛から味雲へと流れ込んでくる記憶。それは澄美の幸せと悲劇による最期。見えた景色はともに歩いたあの景色、コンビニで買ったあのアイスは澄美のお気に入りだった。

 幼い女の子の想いは、過去は彼女のいないはずの今に置き去りにされ遺されていた。

 味雲は水笛に目を移す。中の水はいつの間に染められていたのか、鮮やかで美しいにもかかわらず黒々とした感情を呼び起こす紅。それは澄美の最期のよう。霧葉が連れて来た澄美の霊と味雲を引っ張って来た澄美の姿をしたモノ。
 ふたりの澄美がそこに立っているという状況が味雲には理解できなかった。
「私が連れて来たのは幽霊、アメソラがついて行ったのは、想い入れのある土地やモノに宿ってそこに居続ける【遺されしモノ】よ」
 つまり、霧葉と一緒にいるのが澄美の魂で、味雲の目の前にいる澄美は苦しみと思い出が混ざり合った強い想い。どちらが亡霊なのだろう。【遺されしモノ】と呼ばれ、霊とは区別された本人の記憶や想い。それこそ幽霊と呼ばないにはあまりにも本人の姿を語りすぎていた。
 霧葉は味雲の側にいる澄美を指して言った。
「その想い、天国に届けてあげて。きっと、この子も欲しがってるから」
 欲しがっている。その言葉を振り払うように味雲は首を振る。
「待てよ、こんな自分が死ぬ瞬間が映ったものなんて」
 そう、それは澄美が望まぬ形で人生の終点を迎えた記憶と幸せを砕かれた時の想い。それを本人に手渡すのはあまりにも酷な話だった。
 味雲の言葉に反して霧葉の元にいる澄美は無表情で手を出して、抑揚のない声で言葉を奏でる。
「ください、今の私は何を見ても面白くなくて何を聞いてもただの音、そんなのイヤなのに、そう思ったことまで本気かそうじゃないか分からないの」
 見ても何も感じない、聞いても何も思わない、それは嫌だと想っていて、想ってもそれが分からない。色のない感情。感情に色が見えない。それがどれだけ悲しい事なのか、味雲には想像もつかなかった。水笛を眺める味雲に霧葉は想いを言葉にして伝えた。
「大丈夫、この子は苦しいことも悲しいことも背負って生きてけるわ。何もない事の方が怖いしなにより……女の子は強いんだから」
「男だってそうだろ」
――きっとそう
 口に出さなかった言葉を噛み締め味わって、苦笑を浮かべた。手元の水笛、血が混ざったような紅に充たされたそれを澄美に手渡した。
 味雲の側にいた幻のようなもうひとりの澄美は歩き始め、霧葉の隣に立つ自分と同じ姿の亡霊に向かって、足を踏み出す。そのまま元の澄美と重なり解けて、煙となって纏まりひとつになった。
「ありがとう、雨空さん」
「味雲って呼んでほしい」
 澄美は思い出の中のあの輝かしい笑顔を顔いっぱいに広げて、底抜けに明るい声で別れを告げた。
「またね、味雲さん」
 そうして澄美は消えて、非日常の体験は終わりを告げた。
 残されたふたりの目に映る光景。目の前に例の一軒家が堂々とした佇まいでそこにいて、それを彩るように見慣れたアパート群が生えて並べられているだけだった。
 交通事故のことも澄美のことも忘れ去ってしまったように進み続ける平穏な日々。

 空はどこまでも澄んだ美しさと雲の可愛らしさを飾り付けながら、風に飛ばされた葉によって鮮やかに彩られて特別であり続けていた。


  ☆


 いつもの道をいつも通りに進む。ふたり並んで歩みを進めてゆく。霧葉は微笑みを薄っすらと塗り付けて、味雲の頬を柔らかな手で包み込む。
「よかった、もしちょっとでも遅れたらアメソラもどこかに連れてかれてたかも」
 その言葉を聞いた途端、味雲の身体は震えて心は怯える。連れていかれる、それは紛れもない神隠し。
「安心して、私は絶対アメソラのこと逃がさないから」
 途中でスーパーマーケットに寄って花を買い、あの公園の手前の道路へと向かう。幼い死者がかつて立っていたそこに花を供え、手を合わせて瞳を閉じて、冥福の想いを捧げて。
 数分の時を経て、ふたりは再び歩き出した。
「今からカフェ行くから奢って」
「さっき澄美にアイス奢ったばかりなのに。俺って女からたかられる運命にでもあるのか?」
 肩を落としながら味雲は財布を開いて中身を確かめた。言われるがままに奢るのだろうと覚悟を決めて諦めてついてゆく。
 霧葉は精一杯明るい笑顔を浮かべる。悲しみの上から塗りたくったその表情、美貌を歪める感情と釣り合わない明るさが同居した不自然な貌。心の底から思っている感情をどうにか作っているようだった。
「霧葉って実は凄く優しいんだな」
 隣の彼が思わずこぼした言葉を拾い上げて、その笑顔は砕け散った。
「実はも何も聖母のように優しいし、絵画の中にいるみたいな美人でしょ」
「今は美人とか関係なくないか?」
 言葉を咎めるように鋭い睨みが差し込まれた。機嫌を悪くしてしまった少女を前に、いくら金が飛んで行ってしまうのか、怯えながらひたすら考えるのみだった。
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