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第十話 決着

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 青空の下、天音はふたりの女を引き連れて歩いていた。左側には妖怪タヌキ化けダヌキ、そう呼ばれる場岳 キヌを、右側には川海 晴香を。右の腕で肩を組んで歩く様はまさに恋人のようで晴香の内心では嬉しさはあったものの、暑苦しい感情の渦巻き、恥じらいの暴走が止まらず汗が止まらない。その様はきっと天音にも手に取るように分かる程の明確さ、それを確認する度に更に異なる恥ずかしさがこみあげてきて仕方がなかった。
「そんなにお堅くならなくていいんだよ、晴香とアタシの仲が最も甘くて熱いことなんて見りゃ誰もが理解するのだからさ」
「そんなこと言わないでよ、余計恥ずかしい」
 からかっているのだろうか、それが晴香の心の負担のひとつになっていることに未だ気が付かずといった有り様だった。愛の形はなぞる事が出来ても心の形には触れることも出来ない。それは晴香にも原因があること。語らず表情にも出さないが為に、雰囲気に関しても他の本音が入り乱れてしまっているが為に本音のひとつの角度など隠れきってしまっていることが原因だった。
「ふたりともラブラブじゃない、やっぱり恋人なのね、オンナノコ同士だけど」
「いいじゃないですか、女の子の方が可愛くて好きなんです」
「アタシは可愛くないけどね」
 晴香は余計なひと言を受けて息を詰まらせた。天音の容姿に関してはほっそりとしていて晴香の気を引くものではあったものの、確かに顔はお世辞にも整っているとは言えなかった。寧ろお世辞そのものが失礼だというくらいには崩れていた。
「アタシは母親似だし弟も母親似なのだけどもね。晴香も見たのだろう」
「弟さん、可愛らしい顔してましたね、柔らかそうっていうか」
「そうさ、女だとイマイチ決まらないのに男なら可愛らしくなる顔ってもはや呪いかなにかじゃあないものかねえ」
 もしそうなら手っ取り早いのに、そう付け加えた。天音の生業は退魔師。確かに呪いだったり妖怪のせいならば手っ取り早く終わらせて綺麗になれたことだろう。
「それはいいけど天音の今日の目的地ってどこなの」
 質問はしっかりと飛ばしたにもかかわらず、天音の口から返ってくることはなかった。
「語りたくもないってことは多分あの店だね」
「ご名答」
 昼の買い物を済ませた帰り道、異なる方向から辿る景色は最早別物で、流れの違いは目的地への理解を惑わしてしまっていたようだ。
「それにしても私たち、これからどうなるんだろう」
 なんとなく、言葉にも言い表すことの出来ない程に曖昧な薄暗く埃っぽい不安が飛び散っている。それが形も分からないまま次第に大きくなって盛大に囃し立ててきて仕方がない。
 木々は幾つ通り過ぎても姿の変わり映えを見せない。アスファルトで固められた道は古びていて踏む度に意志のような感触を残してこの上なく心地が悪い。
 進み続けてどれだけが経っただろう。会話すら断ってどれだけだろう。永遠にも感じられる退屈は天音が隣にいるという事実だけでどうにか誤魔化し歩き続ける。今回に関しては全てを成り行きに任せるという選択。正しいのか異なるのか、分からないまま運命の音が鳴り行く。
 更に加えてどれだけ歩いただろう。荷物持ちのキヌは疲れを知らないのだろうか、話すまでもなく辺りを見回しては表情の色を変え続けていた。傍から見ても元気で充たされていた。周りの空気まで浄化してしまいそうな清らかな貌。妖気のモノがこの場で最も強い陽気を持っていた。
 やがて晴香の知る道へと出て来てようやく安心を得た。足が痛むほどに歩いたのはいつ以来だろう。後は道を右に曲がれば未知だった道は完全に見えなくなる。晴香の想いのままに三人揃って道を曲がり、やがてたどり着いた和菓子屋のドアを開く。
「いらっしゃい、さんにん様、って、何よそれ」
 店主の甘菜は大きな目を更に見開いて分かりやすい感情を奏でていた、というよりは力がこもって雑に鳴らしていた。
「なんで妖怪なんか入れるの」
「天音の助手の場岳 キヌです、以後お見知りおきを」
 ヒトの言葉を巧みに操る美女の姿を目にしてますます驚くばかりだった。
「そこの葉っぱ型の髪留めが変身用の道具なのね」
「人は見立てがお上手だもの、私も真似させてもらったわ」
 人の真似、妖怪が人間の進歩について行った先に待ち受ける状況の始まりを肌で感じていた。甘菜の腕は鳥肌でいっぱい、白い肌が更に白んで行くように見えた。
「どう、たまげたかしら」
「いけないわ、こうした妖怪が増え続けたらさらに厄介なことになってしまう」
 それは本気の言葉なのだろうか。晴香には想像も付かないような専門に立つ側の視点の意見はいまひとつ晴香には理解できなかった。
「ところで何の要よ、妖怪まで連れ込んで」
「妖怪がなにのようかい、なんてね。アタシがここに来た目的は例の霊」
 天音が指している相手はきっと味雲のことだろう。彼女が散々頭を抱えている様を見てきた晴香には既に分かり切っていた。
「彼を祓う手伝いをして欲しい」
「彼ってあなたの宿命の相手、退魔人生最大の失敗のことね」
 その問いに対してはただ一度頷くのみ。それ以上のことは何ひとつ行なわれなかった。
「あれは向こうにも死んででもなんて意志が、自分の命なんて些細な物っていう価値観があったからね」
 言葉を区切り、甘菜は目を閉じて左下へと顔を下げて一秒間の沈黙を生む。続けられた言葉に晴香は耳を疑うしかなかった。
「私でも失敗してたでしょうね。そもそも彼を救うことは彼の中では救いにならないんですから」
「そんな、生きたくないってことですか」
 甘菜は首を左右に振って晴香をじっと見つめながら重々しい口を開いて伝えにかかった。
「それだけ重い想い、命さえ軽く見えてしまうような愛だったってこと」
 晴香の脳裏には二度の出会いが再びみたびと記され改めて記憶の表層に刻まれて行く。
 恐らく高校生だろう。彼の目には世界はどのように映っていただろうか。あまりにも若くして彼女をその手で殺めてしまったという事実を天音の口から聞かされた、それもまた彼の裏側の、黒々とした影に隅々まで染め上げられた苦しみのみの世界はどこまでも心苦しかったものだろう。

 もうやめにしませんか。

 軽々と口走った言葉、苦しみのさ中に立つ人物に対してそんな選択を迫ってしまったこと。それは彼をますます追いこんでしまうものではないだろうか。
 沈黙の晴香を差し置いて甘菜は天音に微笑みかける。
「もしも私に協力できることがあればこの手腕を、『かえるのて』をお貸ししましょう」
「店の名前、そんな意図まで込められていらっしゃったのかい」
 その手を伸ばそうとした、甘菜のカエルの手と称された協力の証をつかもうとした天音の手は甘菜の言葉によって差し止められた。
「まだ話は終わっていないわ。協力はする。ただし、それから三か月は私のところで働く事、和菓子カフェの表でね」
「退魔師の方じゃあないのかい、宝の持ち腐れって御言葉、ご存じでないのかねえ」
 そんな言葉を返されてもなおその笑顔は崩れない。それどころか顔を崩すように笑みを深く濃く強めるばかりだった。
「あなたがウェイトレスだなんてあまりにも似合わなくて面白んですもの」
「小馬鹿にしなすって、アンタこそ和菓子屋の信頼保てなくなるんじゃないかい」
 一体どのような接客を施すつもりなのだろう。気が付けば晴香の想像に陽気が蔓延っていた。傾いた日差しのように強くありながらもどこか物足りない、そんな人という存在そのものの色をした美しき陽気。
「晴香ちゃんが明るい顔をした、天音はそれが大切だもんね」
「ああ、満足だね、アタシの中ではそれが勝利決定の合図さ」
 それから先のことは晴香にはよく分からない。お札がどうだと言っていたり、かと思えばしめ縄を用意すると言っていた。天音と甘菜は果たしてこの世界の何処を見ているのだろう。あまりにも遠い処に足を踏み入れていて、この場所に居合わせることすら不釣り合いのようにも思えていた。
 そんな想いを流すように温かな抹茶の落ち着いた緑を、三日月形に残された泡を少しだけ吸って苦みと甘菜の温もりに触れては優しい甘さを誇るわらび餅を口へと運ぶ。柔らかで微かな甘みを感じさせるわらび粉で練り上げられた餅に纏わりつくようにまぶされたきな粉のしょっぱさを含んだ甘さがこの上なく心地よかった。香りもまた大豆らしさを仄かに残していて、このおやつ一式が、和菓子カフェという静かで雅な空間までもが、心を落ち着けるためのセットなのだと心に刷り込まれて行った。
 優しい表情を露わにしている晴香に顔を寄せて天音が彼女の出番をしっかりと指し示した。
「晴香にも出番はあるんだ」
 その説明はしっかりと心に澄み渡り、天音にとって必要だということが嬉しくてたまらない。何より天音の手伝いということだけでもどこまでも頑張ることが出来るような気がしていた。
 せんべいをかじるキヌはそうしたやり取りの全てを他人事のような顔をして聞いていたものの、天音は何ひとつ巻き込まずに済ませるような女ではなかった。
「おいそこで素知らぬ顔でせんべい齧ってる害獣」
「タヌキよ、せめて元の動物で呼んで」
 害獣と呼ばれることには大きな抵抗があるのだろうか。確かに初めから人類の敵だと呼ばれることは人間社会に紛れ込む者としては抵抗に満ち溢れたこと、悲しい話ではあっただろう。
「まあいいや、キヌさん、アンタには晴香のこと守っていただくとしよう。あと見つけたら即アタシに連絡」
 味雲を本気で祓うつもり。そんな意志が全面に表れていた。此ノ世ノ陰と成り人の世を乱す存在として放っておくことは許されないのだろう。血を分けた姉弟同士、仲が悪いならば恐ろしいまでに悪辣なエニシを紡ぐことがあるのだと知っているつもりではいた。しかしながらそれはもう弟を殺すことと同じこと。如何に罪人と変わりのない有り様とは言えどもそこまで行なってしまうことを許してもいいのだろうか。
「アタシはあの子を此の世という生き地獄から天へと送り届ける、それだけさ」
 あの顔を思い出す。この世界にいる限りは決して訪れない幸せをこの世界で願い続けるあの顔はあの努力の群衆は、決して報われることなど無い。永遠に地獄が待ち受けているというのはどのような気分なのだろう。きっと祓ったあとにも彼の行き場に霧葉はいない。愛する人と出会う権利などとっくの昔に焼失してしまっていて向こうの世界に行ったところで待ち受けるのは天国と地獄の隔たりだろう。味雲には何ひとつ幸せが許されない。それ程までの罪を犯した人物に対して永劫の彼方にさえ救いの手は差し伸べられない。
「あの子はもう何をしても手遅れ、どのような結末を辿ったところで霧葉と再会出来ないかも知れないし、彼女が地の世界、永劫の裁きの闇に飲まれているのなれば共に苦しみ続ける、それだけさ」
 人の手によって死後の行き先を決めることなど不可能な話だった。如何なる手段を用いたところで死後の行き先を決める権利を有する者は信仰とそこに居座る神しか居ない。
「あの子に対してアタシたちが出来ることは、この世にへばりつく汚物と成りし彼を剥がして正しい場所に捨て送ること、ただそれだけさ」
 そうして話すことは全て話し終えた、そんな様が表情から見て取ることが出来た。


  ☆


 それはある朝のこと、天音は身体を起こして全身隅々まで余すことなく湿り気のように纏わりつく気怠さに身を任せながら歩みを進める。
 何が取り憑いてしまったのだろう。何かの気配は背後から感じられるものの、埃っぽい視線は首のすぐ後ろから感じられるものの、射貫くように強烈な色をしてはいたものの、何故だか実体を感じ取ることは出来ない。
 果たしてこのまま無事でいられるものだろうか。生気を吸われていないだろうか、陰気を心に刺し込まれてはいないだろうか。そうした不安を見つめてようやく理解に帰り着いた。分かる事、その領域にまで再び足を踏み入れることが出来た。陰気は天音の心の内から湧いて来るもの、生気は吸い取られるだけでない。心の弱さが与えることを許してしまうというもの。
 強くあれ、心だけでも強みで塗り固めてしまえば全てを塞ぐことは容易いことこの上ない。
 今はただ他の退魔師の力を借りることしか出来ない。つまり、かえるのてを借りに出向く。他の手段など考えることも出来なかった。
 家を出てまず始まり。空は妙に薄暗く感じられた。真夏を少し向こう側に控えた朝八時の空とは思えない色。やはりこれは怪異なのだろう。通常では考えられない現象であればまず退魔師がその手を伸ばす案件だと見て間違いはなかった。もしかすると日本の信仰の外の範囲かもしれない。そう思いつつもそれならばそれで海外に蔓延る現象に立ち向かうことの出来る人物、海外版の退魔業を営む者、例えばシャーマンやエクソシストと呼ばれる人物に頼るだけ。
 少なくとも今は甘菜の力を借りるだけで、その手を借りるだけで解決できる範囲のことだと信じて重々しい一歩を幾度となく踏み続ける。いつも見ている公園はあのような景色だったのか、普段なら何ひとつ思うことのなかった道路の模様のひとつひとつまでもが目に入る。いつもよりも非常に遅い歩みがその目に心にもたらした景色はあまりにも異なる色を持つもので、日常を日常のまま非日常と名付けて別のものとして捉えてしまうものだった。本当の非日常はその背に乗りかかって首の脇を通って天音の意識に降り注ぐもののみだった。それでも全てが日頃見ているもの味わっているものとは違って見える。気怠さの中に安心感が潜んでいるのはどうしてだろう。拭い去る事の出来ない温もりに肩まで浸かって夢み心地のうつつに想いを巡らせ沁み入って。
 力が抜けていく、生きた心地の中から棘がゆっくりと溶けては無くなって行く。もしかすると何者かが意図的に持ち込んだものだったのかも知れないがそれでも構わない、ずっとこの気持ちに浸っていたくて仕方がなかった。
 それでも確実に夢見心地の終わりまで一歩一歩踏み込み続ける。
 やがて現れた、その目に霞みながら映り込む家屋へと歩みを寄せ、ドアの前に立つと共に開くドアを眺めて石を失った人形のように流れるように身体を滑り込ませるように、中へと入り込んだ。
 そこで待っていた顔立ちの整った女と隣に立つ優しそうな顔をした男を視界に収めて天音は訊ねた。
「御待ちだったかい」
「別に」
「甘菜は素直じゃないな、毎日のように天音のこと話してただろう」
 顔を赤くして視線を逸らすその姿があまりにも子どもっぽくて日頃ならば間違いなく嫌悪していた顔に微笑ましさを覚えていた。
 目の前の美女は電話を手に取りある番号へとかけて、ここへと向かうよう指示を出していた。この時点で日頃ならば何者を呼んでいるのか分かるはず、絶対に忘れてはならない、決して忘れることのないはずの大切なことが頭の中から抜け落ちているような不思議な感覚に襲われていた。頭を揺らす熱っぽさが全身にまで這って来て、この上なく心地が悪い。
 不思議、顔でそう語る天音に対して甘菜はただ言い聞かせるように丁寧に伝えてみせるだけのこと。
「晴香ちゃん呼んだから、もしも味雲が関係してるなら紫のリボンで繋がるエニシを辿って一発ね」
 そこまで聞いてようやく思い出した。というより気力のないまま封じ込めていた記憶に手を入れ探り始めた。
「いいでしょ、終わりが見えてきたでしょ」
 そう言いつつ除霊の準備には取り掛かるものの、甘菜は動きを止める。
「祓ったらいなくなりそうだからもうちょっと待っててね」
 天音はただ考えも無しに納得することしか出来ないでいた。彼女には考える力が残されていない。もしかするとそうした無気力なまま死した人物の霊魂なのかも知れない。
「どうかしら、天音の背にいるモノの正体、知りたくないかしら」
 分かっていて言の葉を撒いているのだろうか、だとすれば性格の悪いことこの上ない、そう実感させられた。
「そうね、やる気なくダラーんってぶら下がるように抱き着いてるわね、それも可愛い毛むくじゃら」
 話を聞くからに動物霊、それもナマケモノの霊なのだと予想した。
「ナマケモノかあ、一生放っといてもいいかもね、その代わり天音のやる気が回復しないけれども」
「どうでもいいや」
「あらあら、心完全に持ってかれちゃって」
 それさえもがどうでもよく感じられてしまう。何もかもがどうでもいい。世界の出来事全て好き勝手にして欲しい、ただ自分のペースで、死んでいるようにも見える生き様で毛布に抱き着いたまま辺りを見つめ続けていたかった。
 そんな天音のことなど知らぬまま、晴香は味雲を探し続けていた。天音に憑りついているらしい邪気のない霊気と触れた痕跡、歩み続けた繋がりの軌跡をなぞっては進み、やがて紫色のリボンが特定の色を完全に捉えた。
 足を踏み出し続けた向こう、神社の鳥居をくぐってすぐ傍の石段を椅子にして彼は座り込んでいた。
 見かけた、心で唱えて神社の近くに設置された公衆電話で甘菜に場所を伝えたのち、戸惑いひとつ見せることなく歩み寄ってすぐさま声を産み落とした。
「もう、やめにしませんか」
 見上げたそこに幼く可愛らしい顔があった。柔らかで自然な女の子の象徴のような顔が視界いっぱいに広がっていた。
「なんだ、姉貴の彼女か。やめねえよ、好きな子にまた会いたい、ただそれだけなんだ」
 幼稚な願望が数年に渡ってそのまま頭に刷り込まれているのは時を止めてしまったが為のことだろうか。
「そうやって止まっていてもずっとそのままですよ」
 そう語り、味雲の手を握りしめた。生きた感じを残さない冷たさは彼の状態をそのまま語っていた。説明など一切必要ない、そんな説得力に溢れていた。
「姉貴を抱き続けた手で俺の手に触るな」
「イヤです、天音だって本当はこうしたかったんだと思うので」
 それは果たして正しい行動なのだろうか、天音の考えを正しく拾い上げられているのだろうか、全くもって分からなかったものの、想像も付かせなかったものの。
 それでも晴香が知る天音の優しさだけでこの状況を生み出していた。
「ふざけることは多かったけれど、ただ悪い人じゃないんです」
「霧葉のことを一から十まで否定した女なのにか」
 彼の価値観は霧葉ひとりで塗り固められているのだろうか、そうとしか思えない発言がただひたすら飛び出すだけ。
 そうしてどれだけの時を溶かしただろうか。味雲は辺りを見回したり身体を他所へと向けはしたものの、全く動くことが、抵抗することが叶わないでいた。
「頼むよ、放してくれ、あのおばあちゃんの可愛い孫娘に傷なんかつけたくない」
「放しません、話しましょ」
 そうして稼ぐ時間、計算でもしているのだろうか、瞳を覗き込めば本気で味雲と向き合っている貌が鮮やかに色付いていた。
「おばあちゃんが気に入った人だから、悪い人ではないんだよね、そうだよね」
 大切な人が大切に想っていた人物、向こうもまた大切な人のことを良く思っているということ、その繋がりは絶たれることなくここに在り続けていた。
 やがて時は静かに動き続け、夕暮れが空に光を散らし、茜を塗り付け始めた。味雲にとっては晴香のひんやりとした柔らかな手がこの上なく心地よく感じられ始めていた。きっとあの人の大切な孫娘だからだろう。傷をつけることはどうしても避けたかった。
 きっとこれから訪れる未来、その色はほぼ見え切っていた。それでも身体を動かすことが叶わない。分かっていてもなお現状に浸り続けることがやめられない。
「天音にどこか似てるのにカワイイよね」
「あっそ、俺は天音に可愛くあって欲しかったよ、俺はもっとカッコよくってさ」
 願いの話、決して叶わないもしものお話。晴香は首を傾げた。
「どうかなあ、私はふたりともそのままの方が好きだけどね」
 天音の顔は女の子としては少しばかり凛々しさを持っていて、整っているわけではなかったもののどこか晴香の気を惹いてしまう、そんな不思議なモノを持っていた。
 やがてその時は来た。
 ふたりの話という出来事によって創り上げられた空間をかいくぐるように気付かぬうちにそこに立っていた人物を目にして晴香の瞳は豪華なきらめきを散りばめた。
「そんな顔なさって、アタシは嬉しいね」
「遅かったね」
 味雲にとっては今回の動物霊の力で無気力にしておきたかったあの人物、日頃から怠惰な様が目立つあの女が輝かしい雰囲気をその顔に纏って立っていた。
「さあ、アンタの事、祓うとしようか」
 天音の言葉を合図に逃走を図り晴香の手を振りほどいてみせたものの、味雲が状況を支配するには心意気がすでに遅すぎた。
 石の柱、燭台の姿を持った石に張られた札を見て、四方を囲むように、燭台四つを隅として張られた文字すら読むことの出来ないそれは味雲に逃げるなと叫んでいるようだった。
 そこから更に甘菜と旦那の手によって注連縄が広げられる。札の張られた柱を囲んで結ばれて。
「天音よ、思う存分暴れなさい」
 整えられた舞台は味雲の役柄をこの世から降ろす最終演目。
 天音の生き生きとした表情はまさに陽気の塊と呼ぶに相応しい代物だった。
「晴香ちゃんは出て」
 甘菜の声に従ってこの舞台に残された人物はたったのふたり。同じ血の流れた姉弟ふたりきり。
 天音は扇子を閉じたまま右手に握りしめて清らかな表情で味雲を見つめ続けていた。
「ふざけるなよ」
 味雲がおもちゃの銃を構えたその瞬間のことだった。
 天音の右手は目にも止まらぬ速さで襲いかかり、銃を切り裂いた。
「眠れぬ悪夢の夜は明けた、アタシの扇子には黄昏も曙も無いのだけどもね」
 言葉と共に広げられた扇子の世界を染めるものは夜空の黒い端から次第に明るくなり、大部分を占めるは清々しい青空、やがて薄れて朝日と空白が広がりゆく。
 このデザインの外側に広がるモノ、それが夕焼け小焼けの茜空。
「黄昏時、魔に会う時刻に間に合ったようで」
 この時間の内に払ってしまうつもりなのだろう。味雲は既に失われた悪夢の夜に向けられた想いを断ち切り、右手にペーパーナイフを持っていた。
「それはアンタの持ち物じゃあないね、どこで拾った」
「うるさい、これが俺に遺された最後の希望だ」
 ペーパーナイフを振おうとする様を目にして素早く扇子を閉じて構える。ほぼ同時に視界を埋め尽くすほどに近付いてきた弟が振り下ろす思い入れ溢れる白銀を扇子で受け止める。
 一度離れて再び振り下ろされて、受け止められては更にもう一度。互いに武器にもなりそうにない物質を持って斬り合う様は傍から見ればこの上なく滑稽な図だろう。
「俺の邪魔をするな」
「アンタのお祓いの邪魔をするな」
 大人しく祓われろ、言葉にて直接表すことなく告げられた事実に味雲は眉をひそめる。
「黙れ、俺はただあのヒトにもう一度会いたいだけなんだ」
 改めて振るわれたペーパーナイフ、なまくらの刃を扇子でまたしても受け止めて、勢いをつけて払ってしまった。
「儚いねえ、おめでたいねえ、これまでお祓いの付き添いのひとつやふたつでもなさったのなら無理だとお分かりだろうに」
 扇子は広げられ、天音の口もまた広げられ、味雲には理解出来ない言の葉を、晴香にも分かり得ない言の葉を、この小さな世界の中で繰り広げていった。
 やがて訪れたモノは味雲の終焉、そこに何を見ただろう。夕日に向かって、この空の中でも最も明るい輝きへと向けてその手を伸ばす。
「ああ、霧葉、あの空の向こうに、ここじゃない何処かに、其処にいたんだな」
 彼の目に映ったものは幻なのだろうか、それとも天音や甘菜も知らない現実の向こう側の実体なのだろうか。夕日に染まる茜の下で、味雲はこれまでかつて見せたこともなかったような輝きを瞳に宿しながらその姿を溶かして消え去った。
「これでアタシの出番はお仕舞いってとこかねえ」
 片づけられ始めた注連縄を目で追いかけながらその先に立つ女に目を向ける。彼女の声によって疲れ果てた心は彩りをもたらされた。
「お疲れさん、じゃあ手伝ってあげたから明日から和菓子屋の手伝いとお祓いの仕事をよろしくね」
「はいはい始まりからそれが目的だったのだろう」
 甘菜は大きな目を細めて母を思わせる優しさを美しく若々しい顔に宿す。
「ええ、私にとってとても出来がよくてしかもとてもいい人ですもの、いただかなきゃね」
 なに故に欲するものか理解に苦しみはしたものの、それこそが甘菜の価値観なのだと諦めて受け入れる他なかった。
「アタシの怠惰よ、随分とかけ離れてしまったものだね」
 ここ最近の出来事に休む暇もなかった身体は既に疲れを受け入れきれないと叫びを上げ始めていた。
 ふらつきながら限界を訴える天音の細い身体をしっかりと抱き締める柔らかな彼女が耳元で気持ちを弱々しくもはっきりと響かせた。
「お疲れ様、私のステキな彼女ちゃん。やっとデートできるね」
 そう、天音は晴香と付き合っていた。そんな実感すら忘れさせてしまう程に忙しい出来事たちだった。
「これからどこ行こっか」
「晴香の心のままに。オバサンもう疲れてしまって仕方ないからさ」
「まだ二十代なのにオバサンって」
 晴香の呆れを受けながら閉ざされて行く夕日を見つめる。揺らめく茜の終焉が目に沁みて滲む。この空の向こう側に星の雨が降り注ぐこの上なく美しい夜空を見てはこれからの予定の輝きに目の色を星空模様に染めて行った。
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