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魔法
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暗黒に覆われし世界、星の瞬きは炎の如く、孤独は無限の想いを孕んでいた。
可能性の線を引いては祈り続ける。男はひたすら願い続ける。
――ああ、我が魔法を生み出した偉大なるあの御方を
それは如何なる野望なのだろうか。
学校となづけられし施設の屋上に描かれた幾何学模様の組み合わせ、それらによって作り上げられた陣が薄らと輝きを放っていた。
☆
朝の目覚めはあまりにも苦しい。気怠い身体を起こして、やる気のない心を引き摺って、それでも学校へと足を運ばなければならない。
あまりの無気力の強さ、それは徐宇の口から物騒な言葉を引き出してしまう。
「定番の妄想よろしく学校にテロリストでも入って来ねえかな、俺が外出ない内に」
休日を作りたいあまりの発言は人々への配慮というものを知らなかった。
どれだけ願ったところでそうした出来事は起こらないことが現実。
徐宇は食パンを勢いよく口に放り込んでミルクと砂糖で薄められたコーヒーを一気に飲み干し勢いよくドアを開けた。
親はどこにいるのだろう、いつもいつまでもさまよい続ける疑問。金だけがいつの間にか用意されているという孤独の檻。
朝の青空でさえもが狭く感じてしまう。そんな寂しく虚しい空間がどこか心地よく感じられて仕方がなかった。
「くそったれな一日に乾杯ってわけだ」
そうして学校へと通う。通り過ぎる人々の誰も彼もが邪魔に思えてしまう。歩くペースは速くなって誰もついてくる者はいなくて。
学校は近くにあった。たかだか五百メートルという距離を行き来する生活。買い物の為に足を運ぶスーパーマーケットの方が遠く感じられるのは気のせいだろうか。
廊下を歩きながら欠伸をしていたその時のことだった。
廊下を歩いて歩いて歩いて歩いて。何歩踏み出しただろうか。たまに目をやるものの何度も見つめてみるものの、教室の札が見えてこない。
――気のせいか、よく見てなかったのか
窓の外を見つめて徐宇はようやく異変に気が付いた。
「まさか、魔法」
「合格だ」
突然返ってきた言葉に徐宇は振り返る。
そこには誰もいない、何も見えない。
確かにそこから声は聞こえたはずなのに、声の主は見当たらないのだ。
――どうなってる
不明は不明、明るさの無い無明であるからこそ、事実の見えない闇、実の無い出来事だからこそ。
「面白くなってきたじゃねえか」
人を惹き付ける。
徐宇は再び歩きだす。
合格といった言葉の通り、どうやら通学試験とでも呼べばいいのだろうか。何事も無く教室にたどり着いた。
これから放課後までどのように過ごすべきだろうか。慎ましくしているべきか大人しくしているべきか静けさを着飾っているべきか会話の一つもないまま時の中に隠れているべきか。
様々な選択肢があったもののどれを取っても辿る道は恐らく同じだった。
教室のドアを潜った途端に流れ込む叫び、魔法や異能の真似事をしながら殴り合う男たちの姿を見て湧いてくる笑いを抑えるのに必死だった。
――実際高校生ってこんなガキなのか
自分もまたそのガキの中にいる青少年である事に過ぎないのだと気が付かない哀れな人間。
それこそが徐宇の真の姿。
これからどれだけの脅威に立ち向かうのだろうか、どのような驚異が押しつけられることだろうか。
徐宇には周りが見えていなかった。
妄想が強くなっていく。生活の一部へと化けて、膨らみ続けて授業を受ける姿勢にすら支障をもたらすダメな道のりの師匠。
青空を眺めるだけで幾つでも想いの迷宮を造り出す事が出来た。
――学問の影に潜み魔法について考える俺
自己に酔うのか、現状に酔うのか。成長性の見られない彼の将来に酒は不要のように見えてしまう。
――みんな魔法に憧れる中で実際に魔法を使える俺
そんな風変わりな運命の導きに仕えているのだろうか。徐宇は朝の出来事が迫り来る大きな事の前触れなのだと未だに気が付いていなかった。
事が出来上がってしまっては遅い。襲い来るモノはいつ姿を現すのか、想像すら付かせなかった。
☆
やがて授業は全て幕を閉じる。
立ち上がって教師の挨拶と共に一礼、次の瞬間徐宇は駆け出した。教室を飛び出して、廊下の橋を揺らす勢いで駆け抜けて、階段から飛び降りる勢いで駆け下りる。
そうした事を経て入り込んだ教室に堂々と座る男の姿があった。
「やあ、来てくれたんだね」
「部活ですからね、先輩」
目の前の男は微笑みながら指でつまんでいた紙飛行機を飛ばす。勢いを感じられないそれはしっかりと徐宇の胸へと飛び込んで、落ち葉のような揺れをもたらしながら床に舞い降りた。
「徐宇がいなきゃひとりで寂しくってところだったんだ」
怪しく妖しい壺、歴史だけはそこそこの深みを持っていそうな異邦の文字が綴られた書物、紫色の宝石のついた振り子。この部活は正式に認められているのだろうか。
「世界風習歴史研究部って言ってましたけどこれ全部オカルトですよね」
徐宇の質問に大きく頷いてみせた。
「当然さ、風習にはオカルトがつきものだし憑き物はどこにでもいるし漬け物もついて欲しい」
「漬け物は違いますよね」
「気候や土壌環境みたいな風習から生まれたものだからさ」
強引に話を進めている先輩の名は寒斗。オカルトを好んでいると主張を放り込んできているものの恐らくは食べ物の話が最も好きなのだろう。
「知ってるかな、蠱毒って」
そう告げながら寒斗は徐宇に見せつけるように壺を取り出して。紫色の紐で縛られて幾つもの札を貼り付けた物。恐らく墨だろうか、書かれている文字は徐宇の目に映る限りただの記号にしか見えないという有り様。
「毒を持つ生物を色々放り込んで争わせて最強決定戦をさせるあれだよ」
「初めて聞きました」
徐宇の頭の中に無いモノなど無限。頭の中に在ることなどほんの一握りとすら呼べない代物だろう。塵にも原子電子何事に例えてみても追いつくことの出来ない狭さに誰もが呆れを持ち込んでしまう。
「さて、開くとしよう」
札は剥がされた。一枚二枚とゆっくりと。三、四の五と感覚に慣れた様で。六、七、八と手早く壺から身を離されて。
合計八の封は解かれて九つ目の封の紐が離れ行く。
徐宇は心臓の鼓動の刻む時の速度に心を置いてけぼりにされながら目の前で繰り広げられる怪しい儀式を目の当たりにしていた。開いた口は塞がらないが開かれた口が発しているのは沈黙以外の何者もない。
やがて壺の蓋は恐る恐る取り外されて。
大袈裟なまでの丁寧。そんな扱いは緊張感をますます加速させていった。
「これこそ最強」
壺の中身に目を当てた途端、沈黙の時は流れた。
徐宇の思考は空気に解け、これまでの空気感は一変した。
「……な、なんだこれ」
ずっこけてしまいそうなほどに間の抜けた空気感に身を任せて疑問を差し込んでしまっていた。
壺の中に納まるものは、壺いっぱいに詰められたそれは全てが赤々とした柔らかそうな果実だった。
「梅干しだけどどうかした」
「ああ……そうじゃなくてですね」
蠱毒という話はどこへやら。ただの美味でしか無かった。
「毒って」
「これも立派な毒だよ」
どういった話だろうか。徐宇の手は内容の切れ端すらつまむことが出来ないでいた。
そんな様子を見つめて微笑む寒斗先輩の姿はどこまでも薄っぺらだった。
「酸は立派な毒だろう、様々な産地の梅や様々な味付けを混ぜて」
「めっちゃマズそうなのなんなんですか」
もはやお茶請け程度の会話劇。徐宇の口から知性の宿った言葉など出て来ることは無い。
とは言えど、寒斗の口からも知性は現れなかった。
「でもどれも製法が変わりないからどんな味のバランスになるかそれくらいしか考えること無くてね」
「なら試さなくても」
そうして繋げていた会話は方向性を変えていく。
「ところでこの現代社会の闇、果てしないと思わないかな」
「知りません」
社会がどうしただのどのような形をしているなど徐宇の知る話などではない。
これからどのような形を作っていくのか、会話という行為は芸術たりえるものだろうか。
「過労死だったり様々な話聞くけど、強い奴らが生き残って新人をふるい落とす態度取るなんてまさに蠱毒みたい」
「会話は遊びですか」
部活本体へと戻ってしまおう、そう決意を固めた徐宇に対して寒斗は更なる会話を差し出した。
「魔法の世界でも同じようなことは起きてるみたいだよ」
首を傾げる。徐宇の知る魔法の世界など狭い路地を行き来しているだけのスケールとも例えられるほどのものではあったものの、そこまで過激な話ならば耳に入ってきても良いのではないだろうか。
「ジャック・ザ・リッパー、ロンドンにかつていたらしい殺人鬼は知ってるかな」
「知りません」
「それでいいんだ、それがね」
ふと端に見え隠れする笑みはどのような感情を含んでいたものだろうか、徐宇はそうした大切なことを掴み損ねていた。故に、疑問を表に出さないまま引き摺りながら会話を続けてしまう。
「で、ジャックがどうしたんですか」
「表面的な模倣犯がいるんだ」
表面的、そう言われてしまうとあまりにも疑問の成分が大きくなってしまう。模倣の表面をなぞるという感覚がつかめないでいた、そもそも殺人鬼のことなどこれまでの学校生活で配布された歴史の教科書に綴られたこと以外のものを肺腑にねじ込んだことはない。そうした人物を誰一人として知らなかったのだから。
「そのジャックなんだけど、探してもらえないかな」
「先輩は」
訊ねられてすぐさま輝く剣を取り出した。どこにしまっていたのだろう、どのように取り出したのだろう。手品と呼ぶにはあまりにも現実からかけ離れていた。
「俺の剣はさ」
言葉と共に一振り。机を叩き付けてはいたものの、傷一つ付かないことを確認して目を大きく見開いた。
「何も壊せないんだ」
机の上に、剣を叩き付けたその場所に、いつの間にか銀の輝きを放つ刃が置かれていた。
「作ることは出来るんだけど、この高校生如きの思考の範囲で」
刃に目を奪われている徐宇に説明を加える。
「ジャックの凶器、医療用のメスさ」
「医療用なんですね」
「人を救うための道具を人の命を奪うために使うだなんてね」
などと語っている内に時は過ぎ去っていく。きっとこれから一人で戦っていく事となるのだろう。
「作る事しか出来ないからさ、治安維持は徐宇にお任せなんだ」
もはや動くつもりもないのだろう。彼の唇の端に浮かび上がる感情は微笑み以外の何物でもない。
「はいはい、先輩の言うことなら仕方有りませんね」
「だろう」
遠慮もなければ褒めることもない。飽くまでも執行することが当たり前だと示すだけのことだった。
そんなやり取りを経て部活と名付けられた暇人たちの会話は幕を閉じた。この世界に魔法という不純物が取り残されているのだという事実を誰にも知らせないまま歩み続ける歴史の中で徐宇の足は一旦帰宅という方向へと進められていた。
これからどのようなことになってしまうのだろう。どのような運命が待ち受けているのだろう。何一つ見通せない。
「ジャック・ザ・リッパーかぁ」
徐宇の知らない歴史の側面、それを軽々と真似する人物の心の内は血に塗れているものだろうか。
先輩から授けられた使命とは言えども、命捨てる覚悟を決めろだのといった方向に行ってしまうならば引き受けたくもないこと。
一旦家の中へと潜り込み、白米を洗って炊飯器を起動する。
夕飯はある程度雑でも問題はない、生活も雑で構わない。しかしながら命を雑に扱うことまで強要されてしまうのは心苦しいことこの上なかった。
「とか言ったところで誰かが代わってくれる事でもないしな」
サンマの醤油煮の缶詰を開けてフライパンの中へと放り込む。帰りに買ったカット野菜を加えて炒めて簡単な夕飯を作りそれを取り入れるのみ。
炊飯器が電子音の鳴き声で出来上がりを告げると共に茶碗に盛ってすぐさま平らげ片付けて外出の準備を整える。
ネイビーの半袖Tシャツに白のカーゴパンツ。大きなポケットに小さなノートとシャーペン、デジタルカメラにペンを思わせるサイズのライトを入れて外へと飛び出した。
これから探るべきものが待ち受けているかもしれない。何も出てこないかも知れない。
命が終わりを迎えてしまうかも知れない。
そんな不安さえも暗闇は掻き消してしまう。
独特の空間は徐宇の心をしっかりと際立てていった。
☆
風は冷たい。他人の頬を見えないところから撫でる心地はどのようなものだろう。寒斗は風に訊ねてみたくて、しかしながら姿も意思もないそれに声を掛けてみる事など出来るはずも無かった。
手に伝わる缶コーヒーの温度感が夜の空気に馴染んでいく。
星を散りばめた神様は遊びが好きなのだろうか、日本の信仰を少しでも目にした者ならば如何にも宗教の凡人が抱きそうな考え方だと嘲笑うだろうか。
そんな凡庸のことをこの上なく愛していた。
寒斗の背後に寄って来る影に向けて声を伸ばす。
「大丈夫、徐宇ならきっとやってくれる」
影は物音の一つも発すことなくただ闇の暗さを持った外套の端を揺らめかせるだけ。
「動き始めたよ、彼が背負っている運命にたどり着くのはいつだろうね」
質問は空気と同じ。虫の細やかな音色の中に織り交ぜられていくだけのこと。
「不思議だよね、俺の方が目的に近い能力を持っているのに」
何も斬ることの出来ない剣、しかしながら振るだけで物質を生み出すことの出来る世界の邪悪を体現したような能力だった。
「ジョーの子孫は俺と……彼しか生き残っていないんだ」
ジョー、徐宇の顔を思い浮かべつつそう語る寒斗の目に映る景色はどのような姿をしているのだろう。不可視の暗闇はどのような形でその目に届けられているものだろう。
「ところで」
その言葉と同時に気配の消失を感じ取り、言葉を止めた。
蒸し蒸しと気持ちの悪さを運び込む夏の夜の手前。冷たさはあれども何処か重たい熱を感じさせる空気を吸い込み別の言葉を選び一人零す。
「そっか、もう立ち去ったのか」
そんな言葉の隅を墨の闇に流すように風が世界諸共撫で続けていた。
☆
街灯のおかげで暗さをあまり感じることのない夜の景色。しっとりとした空気の距離感がどこか気持ち悪くついつい言葉を破裂させてしまう。
「不愉快だな」
求めていることがおぞましいだけに生々しい感覚が肌に染みつく感覚に日頃よりも強い嫌悪感を覚えてしまう。
「何をすればこんな罰を下されるんだ」
これからどこへ向かえば良いのかそれすら分からない。そもそも寒斗が口にしているだけで事件の実態など徐宇の頭の中にもテレビに映るニュースの世界の中にもない。
実は全てが嘘なのではないだろうか。
殺人鬼などいなくて全てが部活の話題作り。寒斗はただ夜の外出が恐ろしいだけ。
徐宇には魔法を扱う素質がある。しかしながらそれを知る者など寒斗の他にはいない。
――やっぱり、全て嘘なんだ
そう思うだけで気分が幾分か楽になる。その感覚は背筋を伝って肺に染み渡り、全身に広がっていく。
「からかうの好きなんだな先輩め」
思い返し、納得を深めた。
「確かに好きそうだな」
そんな独り言と共に巡る闇の中、突然振り込んできた景色に目を奪われた。
窓から降って来る人物の姿が一瞬だけ目に入り、すぐさま姿を消したのだから。
可能性の線を引いては祈り続ける。男はひたすら願い続ける。
――ああ、我が魔法を生み出した偉大なるあの御方を
それは如何なる野望なのだろうか。
学校となづけられし施設の屋上に描かれた幾何学模様の組み合わせ、それらによって作り上げられた陣が薄らと輝きを放っていた。
☆
朝の目覚めはあまりにも苦しい。気怠い身体を起こして、やる気のない心を引き摺って、それでも学校へと足を運ばなければならない。
あまりの無気力の強さ、それは徐宇の口から物騒な言葉を引き出してしまう。
「定番の妄想よろしく学校にテロリストでも入って来ねえかな、俺が外出ない内に」
休日を作りたいあまりの発言は人々への配慮というものを知らなかった。
どれだけ願ったところでそうした出来事は起こらないことが現実。
徐宇は食パンを勢いよく口に放り込んでミルクと砂糖で薄められたコーヒーを一気に飲み干し勢いよくドアを開けた。
親はどこにいるのだろう、いつもいつまでもさまよい続ける疑問。金だけがいつの間にか用意されているという孤独の檻。
朝の青空でさえもが狭く感じてしまう。そんな寂しく虚しい空間がどこか心地よく感じられて仕方がなかった。
「くそったれな一日に乾杯ってわけだ」
そうして学校へと通う。通り過ぎる人々の誰も彼もが邪魔に思えてしまう。歩くペースは速くなって誰もついてくる者はいなくて。
学校は近くにあった。たかだか五百メートルという距離を行き来する生活。買い物の為に足を運ぶスーパーマーケットの方が遠く感じられるのは気のせいだろうか。
廊下を歩きながら欠伸をしていたその時のことだった。
廊下を歩いて歩いて歩いて歩いて。何歩踏み出しただろうか。たまに目をやるものの何度も見つめてみるものの、教室の札が見えてこない。
――気のせいか、よく見てなかったのか
窓の外を見つめて徐宇はようやく異変に気が付いた。
「まさか、魔法」
「合格だ」
突然返ってきた言葉に徐宇は振り返る。
そこには誰もいない、何も見えない。
確かにそこから声は聞こえたはずなのに、声の主は見当たらないのだ。
――どうなってる
不明は不明、明るさの無い無明であるからこそ、事実の見えない闇、実の無い出来事だからこそ。
「面白くなってきたじゃねえか」
人を惹き付ける。
徐宇は再び歩きだす。
合格といった言葉の通り、どうやら通学試験とでも呼べばいいのだろうか。何事も無く教室にたどり着いた。
これから放課後までどのように過ごすべきだろうか。慎ましくしているべきか大人しくしているべきか静けさを着飾っているべきか会話の一つもないまま時の中に隠れているべきか。
様々な選択肢があったもののどれを取っても辿る道は恐らく同じだった。
教室のドアを潜った途端に流れ込む叫び、魔法や異能の真似事をしながら殴り合う男たちの姿を見て湧いてくる笑いを抑えるのに必死だった。
――実際高校生ってこんなガキなのか
自分もまたそのガキの中にいる青少年である事に過ぎないのだと気が付かない哀れな人間。
それこそが徐宇の真の姿。
これからどれだけの脅威に立ち向かうのだろうか、どのような驚異が押しつけられることだろうか。
徐宇には周りが見えていなかった。
妄想が強くなっていく。生活の一部へと化けて、膨らみ続けて授業を受ける姿勢にすら支障をもたらすダメな道のりの師匠。
青空を眺めるだけで幾つでも想いの迷宮を造り出す事が出来た。
――学問の影に潜み魔法について考える俺
自己に酔うのか、現状に酔うのか。成長性の見られない彼の将来に酒は不要のように見えてしまう。
――みんな魔法に憧れる中で実際に魔法を使える俺
そんな風変わりな運命の導きに仕えているのだろうか。徐宇は朝の出来事が迫り来る大きな事の前触れなのだと未だに気が付いていなかった。
事が出来上がってしまっては遅い。襲い来るモノはいつ姿を現すのか、想像すら付かせなかった。
☆
やがて授業は全て幕を閉じる。
立ち上がって教師の挨拶と共に一礼、次の瞬間徐宇は駆け出した。教室を飛び出して、廊下の橋を揺らす勢いで駆け抜けて、階段から飛び降りる勢いで駆け下りる。
そうした事を経て入り込んだ教室に堂々と座る男の姿があった。
「やあ、来てくれたんだね」
「部活ですからね、先輩」
目の前の男は微笑みながら指でつまんでいた紙飛行機を飛ばす。勢いを感じられないそれはしっかりと徐宇の胸へと飛び込んで、落ち葉のような揺れをもたらしながら床に舞い降りた。
「徐宇がいなきゃひとりで寂しくってところだったんだ」
怪しく妖しい壺、歴史だけはそこそこの深みを持っていそうな異邦の文字が綴られた書物、紫色の宝石のついた振り子。この部活は正式に認められているのだろうか。
「世界風習歴史研究部って言ってましたけどこれ全部オカルトですよね」
徐宇の質問に大きく頷いてみせた。
「当然さ、風習にはオカルトがつきものだし憑き物はどこにでもいるし漬け物もついて欲しい」
「漬け物は違いますよね」
「気候や土壌環境みたいな風習から生まれたものだからさ」
強引に話を進めている先輩の名は寒斗。オカルトを好んでいると主張を放り込んできているものの恐らくは食べ物の話が最も好きなのだろう。
「知ってるかな、蠱毒って」
そう告げながら寒斗は徐宇に見せつけるように壺を取り出して。紫色の紐で縛られて幾つもの札を貼り付けた物。恐らく墨だろうか、書かれている文字は徐宇の目に映る限りただの記号にしか見えないという有り様。
「毒を持つ生物を色々放り込んで争わせて最強決定戦をさせるあれだよ」
「初めて聞きました」
徐宇の頭の中に無いモノなど無限。頭の中に在ることなどほんの一握りとすら呼べない代物だろう。塵にも原子電子何事に例えてみても追いつくことの出来ない狭さに誰もが呆れを持ち込んでしまう。
「さて、開くとしよう」
札は剥がされた。一枚二枚とゆっくりと。三、四の五と感覚に慣れた様で。六、七、八と手早く壺から身を離されて。
合計八の封は解かれて九つ目の封の紐が離れ行く。
徐宇は心臓の鼓動の刻む時の速度に心を置いてけぼりにされながら目の前で繰り広げられる怪しい儀式を目の当たりにしていた。開いた口は塞がらないが開かれた口が発しているのは沈黙以外の何者もない。
やがて壺の蓋は恐る恐る取り外されて。
大袈裟なまでの丁寧。そんな扱いは緊張感をますます加速させていった。
「これこそ最強」
壺の中身に目を当てた途端、沈黙の時は流れた。
徐宇の思考は空気に解け、これまでの空気感は一変した。
「……な、なんだこれ」
ずっこけてしまいそうなほどに間の抜けた空気感に身を任せて疑問を差し込んでしまっていた。
壺の中に納まるものは、壺いっぱいに詰められたそれは全てが赤々とした柔らかそうな果実だった。
「梅干しだけどどうかした」
「ああ……そうじゃなくてですね」
蠱毒という話はどこへやら。ただの美味でしか無かった。
「毒って」
「これも立派な毒だよ」
どういった話だろうか。徐宇の手は内容の切れ端すらつまむことが出来ないでいた。
そんな様子を見つめて微笑む寒斗先輩の姿はどこまでも薄っぺらだった。
「酸は立派な毒だろう、様々な産地の梅や様々な味付けを混ぜて」
「めっちゃマズそうなのなんなんですか」
もはやお茶請け程度の会話劇。徐宇の口から知性の宿った言葉など出て来ることは無い。
とは言えど、寒斗の口からも知性は現れなかった。
「でもどれも製法が変わりないからどんな味のバランスになるかそれくらいしか考えること無くてね」
「なら試さなくても」
そうして繋げていた会話は方向性を変えていく。
「ところでこの現代社会の闇、果てしないと思わないかな」
「知りません」
社会がどうしただのどのような形をしているなど徐宇の知る話などではない。
これからどのような形を作っていくのか、会話という行為は芸術たりえるものだろうか。
「過労死だったり様々な話聞くけど、強い奴らが生き残って新人をふるい落とす態度取るなんてまさに蠱毒みたい」
「会話は遊びですか」
部活本体へと戻ってしまおう、そう決意を固めた徐宇に対して寒斗は更なる会話を差し出した。
「魔法の世界でも同じようなことは起きてるみたいだよ」
首を傾げる。徐宇の知る魔法の世界など狭い路地を行き来しているだけのスケールとも例えられるほどのものではあったものの、そこまで過激な話ならば耳に入ってきても良いのではないだろうか。
「ジャック・ザ・リッパー、ロンドンにかつていたらしい殺人鬼は知ってるかな」
「知りません」
「それでいいんだ、それがね」
ふと端に見え隠れする笑みはどのような感情を含んでいたものだろうか、徐宇はそうした大切なことを掴み損ねていた。故に、疑問を表に出さないまま引き摺りながら会話を続けてしまう。
「で、ジャックがどうしたんですか」
「表面的な模倣犯がいるんだ」
表面的、そう言われてしまうとあまりにも疑問の成分が大きくなってしまう。模倣の表面をなぞるという感覚がつかめないでいた、そもそも殺人鬼のことなどこれまでの学校生活で配布された歴史の教科書に綴られたこと以外のものを肺腑にねじ込んだことはない。そうした人物を誰一人として知らなかったのだから。
「そのジャックなんだけど、探してもらえないかな」
「先輩は」
訊ねられてすぐさま輝く剣を取り出した。どこにしまっていたのだろう、どのように取り出したのだろう。手品と呼ぶにはあまりにも現実からかけ離れていた。
「俺の剣はさ」
言葉と共に一振り。机を叩き付けてはいたものの、傷一つ付かないことを確認して目を大きく見開いた。
「何も壊せないんだ」
机の上に、剣を叩き付けたその場所に、いつの間にか銀の輝きを放つ刃が置かれていた。
「作ることは出来るんだけど、この高校生如きの思考の範囲で」
刃に目を奪われている徐宇に説明を加える。
「ジャックの凶器、医療用のメスさ」
「医療用なんですね」
「人を救うための道具を人の命を奪うために使うだなんてね」
などと語っている内に時は過ぎ去っていく。きっとこれから一人で戦っていく事となるのだろう。
「作る事しか出来ないからさ、治安維持は徐宇にお任せなんだ」
もはや動くつもりもないのだろう。彼の唇の端に浮かび上がる感情は微笑み以外の何物でもない。
「はいはい、先輩の言うことなら仕方有りませんね」
「だろう」
遠慮もなければ褒めることもない。飽くまでも執行することが当たり前だと示すだけのことだった。
そんなやり取りを経て部活と名付けられた暇人たちの会話は幕を閉じた。この世界に魔法という不純物が取り残されているのだという事実を誰にも知らせないまま歩み続ける歴史の中で徐宇の足は一旦帰宅という方向へと進められていた。
これからどのようなことになってしまうのだろう。どのような運命が待ち受けているのだろう。何一つ見通せない。
「ジャック・ザ・リッパーかぁ」
徐宇の知らない歴史の側面、それを軽々と真似する人物の心の内は血に塗れているものだろうか。
先輩から授けられた使命とは言えども、命捨てる覚悟を決めろだのといった方向に行ってしまうならば引き受けたくもないこと。
一旦家の中へと潜り込み、白米を洗って炊飯器を起動する。
夕飯はある程度雑でも問題はない、生活も雑で構わない。しかしながら命を雑に扱うことまで強要されてしまうのは心苦しいことこの上なかった。
「とか言ったところで誰かが代わってくれる事でもないしな」
サンマの醤油煮の缶詰を開けてフライパンの中へと放り込む。帰りに買ったカット野菜を加えて炒めて簡単な夕飯を作りそれを取り入れるのみ。
炊飯器が電子音の鳴き声で出来上がりを告げると共に茶碗に盛ってすぐさま平らげ片付けて外出の準備を整える。
ネイビーの半袖Tシャツに白のカーゴパンツ。大きなポケットに小さなノートとシャーペン、デジタルカメラにペンを思わせるサイズのライトを入れて外へと飛び出した。
これから探るべきものが待ち受けているかもしれない。何も出てこないかも知れない。
命が終わりを迎えてしまうかも知れない。
そんな不安さえも暗闇は掻き消してしまう。
独特の空間は徐宇の心をしっかりと際立てていった。
☆
風は冷たい。他人の頬を見えないところから撫でる心地はどのようなものだろう。寒斗は風に訊ねてみたくて、しかしながら姿も意思もないそれに声を掛けてみる事など出来るはずも無かった。
手に伝わる缶コーヒーの温度感が夜の空気に馴染んでいく。
星を散りばめた神様は遊びが好きなのだろうか、日本の信仰を少しでも目にした者ならば如何にも宗教の凡人が抱きそうな考え方だと嘲笑うだろうか。
そんな凡庸のことをこの上なく愛していた。
寒斗の背後に寄って来る影に向けて声を伸ばす。
「大丈夫、徐宇ならきっとやってくれる」
影は物音の一つも発すことなくただ闇の暗さを持った外套の端を揺らめかせるだけ。
「動き始めたよ、彼が背負っている運命にたどり着くのはいつだろうね」
質問は空気と同じ。虫の細やかな音色の中に織り交ぜられていくだけのこと。
「不思議だよね、俺の方が目的に近い能力を持っているのに」
何も斬ることの出来ない剣、しかしながら振るだけで物質を生み出すことの出来る世界の邪悪を体現したような能力だった。
「ジョーの子孫は俺と……彼しか生き残っていないんだ」
ジョー、徐宇の顔を思い浮かべつつそう語る寒斗の目に映る景色はどのような姿をしているのだろう。不可視の暗闇はどのような形でその目に届けられているものだろう。
「ところで」
その言葉と同時に気配の消失を感じ取り、言葉を止めた。
蒸し蒸しと気持ちの悪さを運び込む夏の夜の手前。冷たさはあれども何処か重たい熱を感じさせる空気を吸い込み別の言葉を選び一人零す。
「そっか、もう立ち去ったのか」
そんな言葉の隅を墨の闇に流すように風が世界諸共撫で続けていた。
☆
街灯のおかげで暗さをあまり感じることのない夜の景色。しっとりとした空気の距離感がどこか気持ち悪くついつい言葉を破裂させてしまう。
「不愉快だな」
求めていることがおぞましいだけに生々しい感覚が肌に染みつく感覚に日頃よりも強い嫌悪感を覚えてしまう。
「何をすればこんな罰を下されるんだ」
これからどこへ向かえば良いのかそれすら分からない。そもそも寒斗が口にしているだけで事件の実態など徐宇の頭の中にもテレビに映るニュースの世界の中にもない。
実は全てが嘘なのではないだろうか。
殺人鬼などいなくて全てが部活の話題作り。寒斗はただ夜の外出が恐ろしいだけ。
徐宇には魔法を扱う素質がある。しかしながらそれを知る者など寒斗の他にはいない。
――やっぱり、全て嘘なんだ
そう思うだけで気分が幾分か楽になる。その感覚は背筋を伝って肺に染み渡り、全身に広がっていく。
「からかうの好きなんだな先輩め」
思い返し、納得を深めた。
「確かに好きそうだな」
そんな独り言と共に巡る闇の中、突然振り込んできた景色に目を奪われた。
窓から降って来る人物の姿が一瞬だけ目に入り、すぐさま姿を消したのだから。
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