異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

合流

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 その男の精神、男はそれを勘違いしていた。医療学生の成長のためにヒトの臓器を用意するという正義の心を掲げて行ったつもりの殺人。しかしそれは自信の内側にある欲求を、自身の奥に隠れ佇む残虐な欲望を満たすために行なったことに過ぎなかった。己が己を見誤っていたのだ。
 そんな男が変わり果てた姿、自称神となる男の新たな形をその目に映して幹人は感情に身を任せて目や口を開ききってしまっていた。
 両腕は巨大な刃物、医療用のメスのような形をした禍々しい想いを映し出したもの。脚は黒いウサギの毛に覆われていて、尾は竜のよう。身体は薄汚れた魚の形を持っていて、世界を見渡すその顔は、山羊の姿をしていた。
 幹人は風を放ち、目の前に立つ女殺しにして性の欲を持て余す人物のひとりである元人間を引き裂きにかかる。おぞましき偽りの神は動くこともなく、ただ風を受けては首を微かに傾けるのみだった。
 立て続けに霧を巻き込んで相手へと向かう暴風を作り上げる。街灯は揺れ、削られた地面に転がる石を拾って巻き上げて、襲い掛かる。しかし、偽りの神は微動さえしなかった。打ち付けられた風は魚の身体に砕かれて破片の余韻を散らせながら消え去って、再び闇と霧に閉ざされた景色が訪れた。
――あんなの、どう倒せって言うんだ
 リリならどう戦っただろう。植物を扱って相手を縛り上げて実験のような意地悪な量の毒を与えてじっくりと死体へと仕立て上げるだろうか。アナならどうやって勝利を狩り得るだろう。相手の動きを瞳で捉え、動線をも見切って躱し、ナイフを突き立てるだろうか。紘大なら、ただ圧倒的な強さを見せつけるのみだろう。真昼なら、鈴香なら。
 考えればそれだけ深みに嵌って抜け出せない想像に囚われて、正面が見えていなかった。
 頭の上に乗っていた生き物が柔らかな耳で幹人を素早く叩きつけることでようやく前を向き始めた。偽りの神が振り上げるメス、それが振り下ろされようとしていた。

「リズ、ありがとう」

 考えても仕方がなかった。飛び退いて躱し、隣に立つ女の方を向いてランスを呼ぶように伝えてナイフをしっかりと握りしめた。
――受け止めたら負ける。絶対に勝てない
 そう、あの巨大な刃物をナイフで受けきれるはずがなかった。純粋な力や素材の重みの他に、長い武器にかかる重力や遠心力といった物理法則までもが重ねられていた。つまり、世界そのものまでもが敵のように立ちはだかっているのだ。
 幹人は戦い方に惑う。自分は自分、戦い方もそれでよい、寧ろそうでなければうまく立ち回ることは出来ないだろう。しかし、まともにぶつかれば確実に圧し負ける相手。物理で立ち向かうのが愚行であることはモチロン、魔法に至ってはどうしても弾かれて通用しない。リズもまた、同じような魔法を撃つことしか出来なかった。
――秘術を、使うか
 幹人本体は扇子に取り付けられた人形で女が指示を受けて戦うあの姿。他力本願な姿はまさに今の幹人の姿を思わせる。時間稼ぎも奥の手も、自身のことを指さし嗤っているようにしか見えなかった。

「こうなったら」

 幹人は風をいくつも用意して、駆けながら放ち続けてみる。相手は風になど気を留めずに幹人に襲いかかって来た。
――かかった
 ひとつふたつ、次から次へと風が敵に当たっては砕けて意味もなかったのだと嘆く中、進路を逸れた鋭い風がひとつ、またひとつと街灯の後ろ側へとカーブを描きながら向かって行って、根元を叩き化け物に向かって倒れ込む。電気が通らなくなり灯りを失うその姿はまさに眠り込むよう。そのまま勢いよく相手の背に当たり。

 手ごたえのないまま砕けた。

 幹人は驚きのあまり声も動きも失ったまま口を開くのみ。向かって来る刃は確実に幹人へと向かっていた。あの戦術は何ひとつ意味をなさなかった。そう、幹人の思考など、想いなど、あってもなくても変わりがなかった。
 向かって来る禍々しい刃に目を奪われている幹人は突如横へと飛ばされた。肩の方、リズが必死に耳を振って烈風を地面に向けて撃った衝撃で攻撃の回避を取っていた。
 敵に口はないのだろうか、言葉のひとつも出てはこない。敵に心はないのだろうか、吹き飛ばされた幹人の方をただ殺すべき相手として目を向ける。感情の宿らない脚が地を蹴って勢いよく跳び、慈悲を持たない腕が幹人に向けて再び刃を向ける。
 リズを抱き締め、幹人は家と家の隙間、路地裏へと潜り込んだ。狭い路地を駆けながら振り返り相手を一瞥する。狭すぎて身体が入らないのかメスの腕が邪魔しているのか、敵はつっかえて入り込むことが出来ない。
 そのまま抜けてしまえ、そう思った矢先のことだった。地面に何かがめり込むような音が一瞬響き、次に身体が風を切るような、素早い動きを取った時に巻き起こる音が静寂を打ち破る。
 悪い予感が幹人の全身をくすぐり血のように巡る。それは完全に的中していた。
 幹人の向かう先、そこに敵は立っていた。

「俺追ってないで女の子でも探してろよ、むっつりクソおっさん」

 幹人は思わず毒づいていた。背後には今を終わらせられないという闇、目の前には人生終焉の闇。後ずさり一択、ただそれだけのことだった。
――先輩が合流してくるのを待つしかないかな
 無力ながらに時を稼ぐ他なかった。出来る限り先輩が来るはずの場所を離れないようにして。
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