238 / 244
第九幕 霧に覆われし眠らぬ国
合流
しおりを挟む
その男の精神、男はそれを勘違いしていた。医療学生の成長のためにヒトの臓器を用意するという正義の心を掲げて行ったつもりの殺人。しかしそれは自信の内側にある欲求を、自身の奥に隠れ佇む残虐な欲望を満たすために行なったことに過ぎなかった。己が己を見誤っていたのだ。
そんな男が変わり果てた姿、自称神となる男の新たな形をその目に映して幹人は感情に身を任せて目や口を開ききってしまっていた。
両腕は巨大な刃物、医療用のメスのような形をした禍々しい想いを映し出したもの。脚は黒いウサギの毛に覆われていて、尾は竜のよう。身体は薄汚れた魚の形を持っていて、世界を見渡すその顔は、山羊の姿をしていた。
幹人は風を放ち、目の前に立つ女殺しにして性の欲を持て余す人物のひとりである元人間を引き裂きにかかる。おぞましき偽りの神は動くこともなく、ただ風を受けては首を微かに傾けるのみだった。
立て続けに霧を巻き込んで相手へと向かう暴風を作り上げる。街灯は揺れ、削られた地面に転がる石を拾って巻き上げて、襲い掛かる。しかし、偽りの神は微動さえしなかった。打ち付けられた風は魚の身体に砕かれて破片の余韻を散らせながら消え去って、再び闇と霧に閉ざされた景色が訪れた。
――あんなの、どう倒せって言うんだ
リリならどう戦っただろう。植物を扱って相手を縛り上げて実験のような意地悪な量の毒を与えてじっくりと死体へと仕立て上げるだろうか。アナならどうやって勝利を狩り得るだろう。相手の動きを瞳で捉え、動線をも見切って躱し、ナイフを突き立てるだろうか。紘大なら、ただ圧倒的な強さを見せつけるのみだろう。真昼なら、鈴香なら。
考えればそれだけ深みに嵌って抜け出せない想像に囚われて、正面が見えていなかった。
頭の上に乗っていた生き物が柔らかな耳で幹人を素早く叩きつけることでようやく前を向き始めた。偽りの神が振り上げるメス、それが振り下ろされようとしていた。
「リズ、ありがとう」
考えても仕方がなかった。飛び退いて躱し、隣に立つ女の方を向いてランスを呼ぶように伝えてナイフをしっかりと握りしめた。
――受け止めたら負ける。絶対に勝てない
そう、あの巨大な刃物をナイフで受けきれるはずがなかった。純粋な力や素材の重みの他に、長い武器にかかる重力や遠心力といった物理法則までもが重ねられていた。つまり、世界そのものまでもが敵のように立ちはだかっているのだ。
幹人は戦い方に惑う。自分は自分、戦い方もそれでよい、寧ろそうでなければうまく立ち回ることは出来ないだろう。しかし、まともにぶつかれば確実に圧し負ける相手。物理で立ち向かうのが愚行であることはモチロン、魔法に至ってはどうしても弾かれて通用しない。リズもまた、同じような魔法を撃つことしか出来なかった。
――秘術を、使うか
幹人本体は扇子に取り付けられた人形で女が指示を受けて戦うあの姿。他力本願な姿はまさに今の幹人の姿を思わせる。時間稼ぎも奥の手も、自身のことを指さし嗤っているようにしか見えなかった。
「こうなったら」
幹人は風をいくつも用意して、駆けながら放ち続けてみる。相手は風になど気を留めずに幹人に襲いかかって来た。
――かかった
ひとつふたつ、次から次へと風が敵に当たっては砕けて意味もなかったのだと嘆く中、進路を逸れた鋭い風がひとつ、またひとつと街灯の後ろ側へとカーブを描きながら向かって行って、根元を叩き化け物に向かって倒れ込む。電気が通らなくなり灯りを失うその姿はまさに眠り込むよう。そのまま勢いよく相手の背に当たり。
手ごたえのないまま砕けた。
幹人は驚きのあまり声も動きも失ったまま口を開くのみ。向かって来る刃は確実に幹人へと向かっていた。あの戦術は何ひとつ意味をなさなかった。そう、幹人の思考など、想いなど、あってもなくても変わりがなかった。
向かって来る禍々しい刃に目を奪われている幹人は突如横へと飛ばされた。肩の方、リズが必死に耳を振って烈風を地面に向けて撃った衝撃で攻撃の回避を取っていた。
敵に口はないのだろうか、言葉のひとつも出てはこない。敵に心はないのだろうか、吹き飛ばされた幹人の方をただ殺すべき相手として目を向ける。感情の宿らない脚が地を蹴って勢いよく跳び、慈悲を持たない腕が幹人に向けて再び刃を向ける。
リズを抱き締め、幹人は家と家の隙間、路地裏へと潜り込んだ。狭い路地を駆けながら振り返り相手を一瞥する。狭すぎて身体が入らないのかメスの腕が邪魔しているのか、敵はつっかえて入り込むことが出来ない。
そのまま抜けてしまえ、そう思った矢先のことだった。地面に何かがめり込むような音が一瞬響き、次に身体が風を切るような、素早い動きを取った時に巻き起こる音が静寂を打ち破る。
悪い予感が幹人の全身をくすぐり血のように巡る。それは完全に的中していた。
幹人の向かう先、そこに敵は立っていた。
「俺追ってないで女の子でも探してろよ、むっつりクソおっさん」
幹人は思わず毒づいていた。背後には今を終わらせられないという闇、目の前には人生終焉の闇。後ずさり一択、ただそれだけのことだった。
――先輩が合流してくるのを待つしかないかな
無力ながらに時を稼ぐ他なかった。出来る限り先輩が来るはずの場所を離れないようにして。
そんな男が変わり果てた姿、自称神となる男の新たな形をその目に映して幹人は感情に身を任せて目や口を開ききってしまっていた。
両腕は巨大な刃物、医療用のメスのような形をした禍々しい想いを映し出したもの。脚は黒いウサギの毛に覆われていて、尾は竜のよう。身体は薄汚れた魚の形を持っていて、世界を見渡すその顔は、山羊の姿をしていた。
幹人は風を放ち、目の前に立つ女殺しにして性の欲を持て余す人物のひとりである元人間を引き裂きにかかる。おぞましき偽りの神は動くこともなく、ただ風を受けては首を微かに傾けるのみだった。
立て続けに霧を巻き込んで相手へと向かう暴風を作り上げる。街灯は揺れ、削られた地面に転がる石を拾って巻き上げて、襲い掛かる。しかし、偽りの神は微動さえしなかった。打ち付けられた風は魚の身体に砕かれて破片の余韻を散らせながら消え去って、再び闇と霧に閉ざされた景色が訪れた。
――あんなの、どう倒せって言うんだ
リリならどう戦っただろう。植物を扱って相手を縛り上げて実験のような意地悪な量の毒を与えてじっくりと死体へと仕立て上げるだろうか。アナならどうやって勝利を狩り得るだろう。相手の動きを瞳で捉え、動線をも見切って躱し、ナイフを突き立てるだろうか。紘大なら、ただ圧倒的な強さを見せつけるのみだろう。真昼なら、鈴香なら。
考えればそれだけ深みに嵌って抜け出せない想像に囚われて、正面が見えていなかった。
頭の上に乗っていた生き物が柔らかな耳で幹人を素早く叩きつけることでようやく前を向き始めた。偽りの神が振り上げるメス、それが振り下ろされようとしていた。
「リズ、ありがとう」
考えても仕方がなかった。飛び退いて躱し、隣に立つ女の方を向いてランスを呼ぶように伝えてナイフをしっかりと握りしめた。
――受け止めたら負ける。絶対に勝てない
そう、あの巨大な刃物をナイフで受けきれるはずがなかった。純粋な力や素材の重みの他に、長い武器にかかる重力や遠心力といった物理法則までもが重ねられていた。つまり、世界そのものまでもが敵のように立ちはだかっているのだ。
幹人は戦い方に惑う。自分は自分、戦い方もそれでよい、寧ろそうでなければうまく立ち回ることは出来ないだろう。しかし、まともにぶつかれば確実に圧し負ける相手。物理で立ち向かうのが愚行であることはモチロン、魔法に至ってはどうしても弾かれて通用しない。リズもまた、同じような魔法を撃つことしか出来なかった。
――秘術を、使うか
幹人本体は扇子に取り付けられた人形で女が指示を受けて戦うあの姿。他力本願な姿はまさに今の幹人の姿を思わせる。時間稼ぎも奥の手も、自身のことを指さし嗤っているようにしか見えなかった。
「こうなったら」
幹人は風をいくつも用意して、駆けながら放ち続けてみる。相手は風になど気を留めずに幹人に襲いかかって来た。
――かかった
ひとつふたつ、次から次へと風が敵に当たっては砕けて意味もなかったのだと嘆く中、進路を逸れた鋭い風がひとつ、またひとつと街灯の後ろ側へとカーブを描きながら向かって行って、根元を叩き化け物に向かって倒れ込む。電気が通らなくなり灯りを失うその姿はまさに眠り込むよう。そのまま勢いよく相手の背に当たり。
手ごたえのないまま砕けた。
幹人は驚きのあまり声も動きも失ったまま口を開くのみ。向かって来る刃は確実に幹人へと向かっていた。あの戦術は何ひとつ意味をなさなかった。そう、幹人の思考など、想いなど、あってもなくても変わりがなかった。
向かって来る禍々しい刃に目を奪われている幹人は突如横へと飛ばされた。肩の方、リズが必死に耳を振って烈風を地面に向けて撃った衝撃で攻撃の回避を取っていた。
敵に口はないのだろうか、言葉のひとつも出てはこない。敵に心はないのだろうか、吹き飛ばされた幹人の方をただ殺すべき相手として目を向ける。感情の宿らない脚が地を蹴って勢いよく跳び、慈悲を持たない腕が幹人に向けて再び刃を向ける。
リズを抱き締め、幹人は家と家の隙間、路地裏へと潜り込んだ。狭い路地を駆けながら振り返り相手を一瞥する。狭すぎて身体が入らないのかメスの腕が邪魔しているのか、敵はつっかえて入り込むことが出来ない。
そのまま抜けてしまえ、そう思った矢先のことだった。地面に何かがめり込むような音が一瞬響き、次に身体が風を切るような、素早い動きを取った時に巻き起こる音が静寂を打ち破る。
悪い予感が幹人の全身をくすぐり血のように巡る。それは完全に的中していた。
幹人の向かう先、そこに敵は立っていた。
「俺追ってないで女の子でも探してろよ、むっつりクソおっさん」
幹人は思わず毒づいていた。背後には今を終わらせられないという闇、目の前には人生終焉の闇。後ずさり一択、ただそれだけのことだった。
――先輩が合流してくるのを待つしかないかな
無力ながらに時を稼ぐ他なかった。出来る限り先輩が来るはずの場所を離れないようにして。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
我が家に子犬がやって来た!
ハチ助
ファンタジー
【あらすじ】ラテール伯爵家の令嬢フィリアナは、仕事で帰宅できない父の状況に不満を抱きながら、自身の6歳の誕生日を迎えていた。すると、遅くに帰宅した父が白黒でフワフワな毛をした足の太い子犬を連れ帰る。子犬の飼い主はある高貴な人物らしいが、訳あってラテール家で面倒を見る事になったそうだ。その子犬を自身の誕生日プレゼントだと勘違いしたフィリアナは、兄ロアルドと取り合いながら、可愛がり始める。子犬はすでに名前が決まっており『アルス』といった。
アルスは当初かなり周囲の人間を警戒していたのだが、フィリアナとロアルドが甲斐甲斐しく世話をする事で、すぐに二人と打ち解ける。
だがそんな子犬のアルスには、ある重大な秘密があって……。
この話は、子犬と戯れながら巻き込まれ成長をしていく兄妹の物語。
※全102話で完結済。
★『小説家になろう』でも読めます★
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
大工スキルを授かった貧乏貴族の養子の四男だけど、どうやら大工スキルは伝説の全能スキルだったようです
飼猫タマ
ファンタジー
田舎貴族の四男のヨナン・グラスホッパーは、貧乏貴族の養子。義理の兄弟達は、全員戦闘系のレアスキル持ちなのに、ヨナンだけ貴族では有り得ない生産スキルの大工スキル。まあ、養子だから仕方が無いんだけど。
だがしかし、タダの生産スキルだと思ってた大工スキルは、じつは超絶物凄いスキルだったのだ。その物凄スキルで、生産しまくって超絶金持ちに。そして、婚約者も出来て幸せ絶頂の時に嵌められて、人生ドン底に。だが、ヨナンは、有り得ない逆転の一手を持っていたのだ。しかも、その有り得ない一手を、本人が全く覚えてなかったのはお約束。
勿論、ヨナンを嵌めた奴らは、全員、ザマー百裂拳で100倍返し!
そんなお話です。
【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから
真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」
期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。
※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。
※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。
※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。
※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる