異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

切り裂き

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 書類を作り上げるべくひたすらペンを走らせる。インクは羽根の先に吸いつけられて、紙につくと共ににじみ出て、書き留められて。

「幹くんはきっとやれる」

 そう呟きながら文書とひたすら向かい合う。
 幹人はすでに部屋を出て、有毒な霧に潜んで人の命を破壊する殺人鬼を探していた。
 ランスは新たな紙に手を伸ばしてペンを走らせ続けた。さらさらと擦るような音が静寂に溶け込むように響いていた。
――今頃見つけているだろうか
 始めの作戦としてはリリを囮に切り裂き魔を呼び寄せようということだったものの、娼婦としてはあまりにも心許ない体型をしていてタオルや綿で誤魔化そうと思っても不自然に、時間が経てば更に崩れてしまって成り立たなかった。
 幹人がどう思おうとも、世の多くの男に求められる者はある程度豊満で色気の塊のような女だった。
 ランスの思考とかけ離れた手の動き、文書の書き留めはもはや条件反射と化していた。
――何であんな細いだけの女なんかに惹かれるんだろうな
 幹人の生きる世界線では必ずリリもいて、毎回たまたま結ばれる。偶然を必ず引き当てるという化け物じみた正確な流れ。一体如何なる執念が彼の根底にあるのだろう。
 窓の外を眺め、闇の中に幹人とリが並んで歩く姿を見た。存在しないはずの光景を思い浮かべたにも拘わらず、何故だか既視感のあるものが浮かび上がってしまった。不思議なこと、星の明かりのように儚いはずの偶然は、力強く輝いていた。

「私としてはそっちの方が助かるからいいが」

 一度大きな伸びをして、積まれた予定の内、最後の文書に手を伸ばした。


  ☆


 ランスによって用意された女は男の罪深い欲望を引き受け背負う代わりに金をもらう存在に化けていた。生殖以上の段階にまで達して行為にまで及んでしまうその欲望の存在は罪に他ならない。抑えることすら出来ないものかと思いつつも実際に働くわけではないということに大きな安堵を抱いた。
 低俗なる卑しさの溜まり場にして命の継承に必要な高尚なる欲を持て余した者たちが空吹かしのように散らせる店を出て、闇と霧の狭間にひとり置いて行かれたような感覚を見つめながら歩いて。
 見えない景色、瞳に映せばきっと美しいものだと想像するだけで好きになれた。
 そんな彼女の首元に噛み付こうと迫る刃が風をも切り裂いて。女を仕留めようとするそれを幹人は慌てて飛び出しナイフで受け止めた。ぶつかり合う鉄の音は、耳に鋭い響きと思い起こすだけで頭が痛くなってしまいそうな不快感を残した。
 打ちあう鉄の刃たちの鋭さは殺意の表れか、己の意思を貫き通すための切れ味なのか。女を討とうとする殺人鬼と相手の殺意を討とうとする幹人。
 なに故に互いの意志の強さは釣り合ってしまうのだろう。
 殺人鬼は語る。

「死体を作らせろ、内臓の観察のために必要なのだ」

 ランスの探偵スイッチ動機編は正解を踏んでいたようだった。

「人を救うために人を殺すのか!」
「人を救える者を作るために人の死を作る」

 ナイフとメスは打ちあって、火花を散らせて不気味な霧の形をなぞる。

「所詮は女、それも男に尻を振って金をもらうだけの生産性のない存在を将来の文明の発展のための生け贄にして何が悪い」
「黙れ! 必要だからそこに在るんだ。何より……」

 ぶつかり合う攻撃と口撃の織り交ぜられた意志。決して重なり合うことの無い、確実に互いに理解の出来ない圧倒的な壁が形すらないままそびえていた。

「今まで殺されてきた人たちにも家族がいて大切な人がいて、誰かが悲しむんだ」
「この世界の歴史の動きそのものが現代神話、偉大なる功績のために、神たる存在のために命を捧げることの何が悪い」

 通じない、分かり合うことなど出来ない。己という名の宗教に心酔してしまっている人物と想いを交わすための言葉など幹人の頭のどこにもなかった。
 容赦なく風は吹き荒れる。幹人の周囲には霧すら近寄ることの出来ない風の怒気が力強く渦巻いていた。闇を空気を感情をも切り裂く音はどこまでも禍々しくて、優しい人の本来の在り方のよう。

「お前は優しいんだな、救いようのない女にまで想いを馳せて。だったら偉い俺にはもっと優しくしてくれよ」

 風は更に強く、おぞましい気配をかき混ぜながら霧の破片をも巻き込み暴れていた。

「じゃあ、優しくしてやるよ」

 医療用のメスは風に削られて、欠けて削れて形を失い始める。男の纏う外套は裂けて、ぼろきれは風に乗って霧に阻まれて大して役にも立たない街灯のくぐもった光に透けて行った。

「ダメなことをダメだって言うこと、それも優しさだよね」

 削れて切れ味を失って。持ち主の意に添わず戦意を喪失したメスは朽ち果てて消えてしまった。外套を奪われて現れた顔は、学校で見かけた面のひとつだっただろうか、微かな記憶の像が見覚えを訴えかけていた。
 戦う術をひとつ奪われた男は目を見開き、立ち尽くしていた。戦意は未だそこに在り、感情の空回りを続けていて、とてもではないがその狂気には目も当てられなかった。風に奪われた空気の湿り、乾いた口、ひび割れた唇を動かしながら聞き取ることの出来ない言葉を発しながらポケットから小さなビンを取り出し、蓋を開く。
 幹人は男の血走った眼に、正気の欠片も残さず消し去ったあの瞳に囚われて動くことも出来ず、ナイフを握る手も震えていた。
 常人ならざるモノの不穏な感情を直に向けられることはそれほどまでに恐ろしかった。
 男はビンから赤くて平らな粒を取り出し、力強く噛み砕いて笑い叫んで見せた。

「くくく。あははははは、計画を止められた今、俺は……俺自身が、神になる」

 幹人は慌てて風を放つものの、全ては手遅れだった。霧は黒く穢れ、男の周囲へと集い、男の背から何かが突き出してきた。そのまま男の身体は干からびて、中から目にも映らぬ闇を纏った何者かが現れるのを止めることは叶わなかった。
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