異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

リリの気付き

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 ランスと幹人を残してリリは部屋の外へと追い出されるように導かれた。ランスは一国を統べる王である。そのような大きな名を持つ人物が幹人に対して酷いことを行なうことはないだろうとは思いつつも、心のどこかで強く渦巻く得体の知れない息苦しさを感じていた。
 その感情の色は一体どのようなものだろう。リリにはその色が見えない、本人であるにもかかわらず分からない。
 騎士に引き連れられて、廊下を渡る。明るい廊下に向けた瞳は揺れて、見えもしない外の霧がリリの口を伝って肺腑を充たして重々しく身体を圧し付けるようだった。その霧の味は感情の味、瞳が掠れて灯りは揺れて、気持ちに不快な波を起こし続けていた。
 ドアが開かれて、中へと迎え入れられる。

「お好きなようにどうぞ、王の部屋にさえ入らなければ文書でもなんでも閲覧可能」

 これまでの国の政策や成果から人物の経歴まで、一般国民でも見ることが出来るように資料室の閲覧は自由なのだという。
 リリはそれを聞かされて即座に資料室へと向かった。ランスの経歴のうわさ話の真相が知りたくて、ランスという人物の存在に対する違和感の正体を手の中に収めたくて。
 リリはすぐさま資料を探し始めた。ファミリーネーム、フレムストン。Fの文字列、そこに収まるもの、その経歴の中身を見つめたリリの表情は分かりやすいほどに変わり果てていた。上澄みだけでは済まされない大いなる驚きに満ちていた。

「ホントに……王になる前のことが書かれていない」

 考える、不明を晴らすべく、思考する。苗字、フレムストン、きっとフレイムストーン、炎の石、あの王冠のことだろう。
――それが由来なら、地位を手に入れる前の苗字は?
 気にしてしまっては止まることが出来なくて、気が付けば隣に立つ騎士に訊ねていた。

「私は旅行者としてこの国を治めるランスさまの偉業とその地位、そして王になる前のことを知りたいんだけど、前の苗字は知らないかしら」

 騎士は感情のひとつも籠っていない声で、ただ淡々と事実を提示するだけだった。

「ランスさまに苗字は元々ない。あの苗字は、王に就く前に手に入れたものだ」
「そう……ありがとう」

 苗字すらない、つまりは貧民層と思われた。
 苗字すらない頃、つまりはZよりも後ろ、本来ならば決して記録にも残らないはずの名、偉業を成し遂げることで苗字を得た本物の成り上がりの者のみが記録されるという誇らしき過去の汚点、そこにランスの名が記されているのだろう。
 ブランク、ロクに苗字も持っていなかった一部地域や貧民層の最下級の者、本来ならばその名すら載せてはもらえない偉人の集う資料を漁り、その中にランスの名をどうにか見つけ出す。
 歳も分からない、いつのことかも分からない、しかしながらしっかりと記されていた。突然石をいくつも束ねて作ったような大きな剣を叩きつけて賊や悪しき騎士を追い払ったという事実、続いて仕事もしない怠惰な王を叩き落して自らがのし上がろうとしたこと、それから王位に就く前に数年間の勉強をしていたのだということ。文字を識別した途端、他の教科が極端に成績を伸ばしたことと元々この国の誰も読むことが出来ない文字を扱っていたのだということ。
 加えて科学の方面では貴族並みにして科学者未満の知を持つと共に異常な妄想癖があるのだということ。
――相当頭が良かったのかしら、いやそれだとどうして科学を
 東ノ国の綾香と悠菜のような出来事は本来身分の差という壁に阻まれて乗り越えることのできない出来事。世間知らずの子どもがたまたま関わった時くらいでしか起こりえないこと。なにより、誰も読むことの出来ない文字の存在。

「もしかして」

 リリは騎士に話して外出許可を獲得して、駆けだした。これまでの冒険では魔法がなくても、寧ろ魔法を思考の中から取り払うことでたどり着けた事実があるではないか。今回がその状況、リリはふつふつと湧いて来た直感を信じて駆け続ける。
 霧が鉄の出っ張りから噴き出して、辺りを覆っている。人々の進化の代償、人の生んだ罪がこの国全体に蔓延り薄く濃く広がりながら空気を飲み込んでいた。
 リリは大きく咳き込む。この霧は毒なのだろうか、吸い込むたびに嫌な予感と形としては在るのか無いのか曖昧で、おまけに独特な感触を首に巻いて締め付けるような息苦しさに包まれていた。
 工場が並ぶ無機質の都市の中、レンガの街並みの方へと入り込んで行く。霧は隅々まで立ち込めていて気分に得も言われぬ暗雲が立ち込めていた。
 霧に包まれて薄暗い中、レンガの建物の隙間で壁に背を任せて座る子どもたちや、力のないくたびれた手で数少ない食料を分け合って食べる家族がいて、心に幾度となく鞭を打ち込まれていた。
 恐らくどのような人物が王となろうともこの場を改善することは容易ではないのだろう。
 そんな景色を見て、リリはすぐさまランスが純粋にこの貧民層の出という憶測を否定した。誰も寄り付かない埃だまりのような場所に栄養不足の民、この環境で高度な学問を学び理解するにはあまりにも無理がありすぎた。
 壁を見つめ地面を見つめ、歩き続け眺め続ける。どれだけ歩いただろうか、壁に刻まれたそれが、リリの足を止め、瞳を引き寄せた。刻まれたそれは何年前に彫られたものなのだろう。汚れによって塗られて黒く汚れ切っていた。
 そこに用いられる文字の形を見て、驚愕に頭を奪われた。その文字は少し無理をして読めば東ノ国の文字に似ているもの、幹人がメモを取っていた時に用いる文字の形そのものだったのだ。
――もしかして、ランスも
 異界より訪れし者、幹人と同じ世界から入り込んできた存在なのだと理解して、リリは素早く戻ることにしたのだった。
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