異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

城の働き手

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 王とは国の頭にして、出張や政策、政治のため民の声を聞き届けるための見学と聞き込みといった仕事に関係すること以外ではほぼ常に居城に縛り付けられて資料と向き合って国をよりよく、円滑に動かす役割を背負った責任ある立場。役職に就いている限りは代わりの効かない不便な身分。
 ランスには自由が認められていなかった。休日など存在せず臨時の休みなどなくて、恋の味ひとつ知る暇もなかった。この国で最も偉い肩書きを与えられた国の奴隷でしかなかった。
 そんなランスは資料に印鑑を押しながら、幹人に軽く手を振りながら隣の鉄の塊、鎧という自由の拘束を受けた男に椅子を用意させた。リリは男に連れられて、部屋の外へとゆっくり歩く。幹人の方を振り向きながら遠ざかって行く姿。その瞳には淡くて強い寂しさが宿っていて、周囲に零れ落ち続けていた。

「さあ、座るのだ。あなたが来るのを心から待っていた」

 羽根を動かしインクを紙に染み付けて、動かし文字の形を成して。公的文書を書き留めながらランスは目を向けることもなく口を動かしていた。

「私も非常に忙しいものでな、この無礼を許して欲しい」
「いいよ」

 幹人が王を見つめる瞳、それは強くて苦い泡のような感情を放っていた。
――王の職務きつそう……絶対あんな仕事したくない
 代理人を雇ってどのような職務に宛てたところで最終的に足を踏み入れるのは王自ら。現地に足を運び全てを見て、民の鮮度の高い生きた意見を耳に入れて物事を判断する。
 ランス・フレムストンという王は己の人生の全てを国のために捨てていた。
 ランスの声がこだまする。不思議な感じを与えるあの声が、幹人にしっかりと届いた。

「困ったことがあるのだろう? 話してもらえないか」

 口が言葉を生み出している間にも羽根は動き、文字は綴られる。幹人は出来る限り優しい声でお願いを述べた。

「実は、この国の近くに大樹があるってうわさなんですけど」
「それか……」

 紙をめくり、文字の書き込みを再開してランスは大きく息を吸い、答えてみせた。

「視えないが確かにあるそうだ、世界の視かたを変えてみてはいかがだろうか」

 果たしてそれだけで見えるものなのだろうか、幹人は不安になりつつも話を続けた。

「できれば、案内してもらえませんか? 場所、分からないんです」

 そうか、そうなのか。息をつくと共に言葉も混ぜて吐いて、一度大きな伸びをして、幹人の目を覗き込んだ。

「構わないが、条件がある、手伝って欲しいのだが」

 息をのむ。王からの条件とは何だろうか。国の頭が悩み外の者に頼ってまで解決したいこと、少なくとも書類の類いの整理整頓などではないだろう。
 ランスは顔に似合わない明るい笑みを浮かべて述べた。

「まずは書類の整頓を頼もうか」

 幹人は驚きのあまり感情がひっくり返っていた。身も今にもひっくり返ってしまいそうで、焦りを覚えていた。
――公的文書、うっかり内容見たら処刑かも
 ぞわぞわと浅く背をなぞる薄気味悪い感情は微かに生々しい悪寒を与えていた。微かなものだった、そのはずがいつの間にやら大きく成り果て心の大部分を占め始めていた。
 そんな表情をしっかり汲んで見て取ったのだろうか、民の声を聞き続けた王としての冷たくも微かな優しさを含んだ笑みを気品を崩さないように浮かべ、安心を提供した。

「落ち着くがいい、私はあなたを刑に処するつもりはない」

 死しても大樹にはたどり着けない。そう付け加えて幹人の手を書類整理へと無理やり移した。幹人が書類を紙の端の記号と日付けと認証の印を元に重ねて机に仕舞っている間にもランスは地方の管理局に向けた書類を綴り、様々な相手から届いた書類にその名を書き留める。通すことの出来ない嘆願書、通すつもりではいる書類、それらは隣の机に分けて置いて、次の紙に手を伸ばし、ふと気が付いたことを幹人に告げる。

「これを見よ、私にこのようなフミを送り込んで来る者が今日もいるようだ」

 ランスの手に挟まっている紙を受け取り幹人は読み上げようとした。

「んんっと……読めない」
「そうか、様々な言語を操ることが出来るにも拘わらず文字はからっきしとは……つくづく不思議な男だなあなたは」
「ランスさんには言われたくありません」

 出自も経歴も人々の記憶にも、不明な部分が多いにもかかわらず、王という地位を手にしている人物。そんなランスはその紙を眺め、堂々と胸を張り、声を整えて読み上げた。

「こんにちは、ランスさま。私は霧に覆われた国に生きて来て、日々が不安なの。心まで霧に包まれてしまってなにも見えなくて。でもあなたのことを想うだけでいつでも元気に振る舞って明るい気持ちを保っていられるの。お願い、私と付き合って、私、ランスさまのことが」
「ちょっ、もういいから止めて」

 幹人の顔はいつになく熱っぽくて、汗がにじんでいた。ランスは乙女の告白文、それを堂々と読み上げていたのだった。
 渾身の告白文を他の人に知られてしまったどこの誰とも知れない彼女、霧の中の住民のことを想うだけで胸が締め付けられて息すら止まってしまいそうだった。

「しかし、私は彼女と付き合うことは出来ないのだ」

 そんな様子を目にしてランスは微笑んで幹人の顎に手を添えた。

「それにしてもあなたは静嬉を気に入ることが出来なかったようだな」

 それから取り外された王冠、髪を掻き分け見えた額、開かれた妙に色っぽい口、そこから奏でられた先ほどよりも低くありながらも想像していたものとは完全に異なる艶やかな声、全てに対して幹人は普通にその事実を知る以上の驚きを感じていた。
 目の前の王は女であり、幹人の知る人物だった。
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