異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

工場の霧

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 工場の霧は幻想の霧となり得るだろうか。道は霧に覆われていてよく見通すことが出来ない。街は知識不足に包まれていてしっかりと分かることが出来ない。五里霧中という言葉がここまで似合う状況もないだろう。人の手に、人の無知によって造られた罪の霧。
 人の心が生み出してしまった迷いの霧。
 幹人の心の迷いは解けていても、幹人の存在の迷いは未だそこにあった。

――両親、大丈夫かな

――母は死んでる、父はいないも同然だ

――リリ、ごめん、こんな姿に、コウモリ混じりなんかにしちゃって

――だめだ、だめだだめだリリ、その薬は飲んじゃだめだ

――リリ姉、最後の最後まで魔女のチカラに頼ってしまったよ

 存在しないはずの記憶、更に、東ノ国に入る前の想いと後での想いの矛盾を思い出していた。
 幹人には分からなくなっていた。
 自身が、『幹人』が、この世界に来た時の境遇はどうだっただろう。思い出すことすら叶わない。己の記憶に自信を持つことが出来ない。自分自身のことにすら敵わない。
 様々な思い出、矛盾を孕んだそれが、全て現実のことのように鮮明に流れ続けて、この上なく美しい不快な幻想の音を鳴らしていた。
 霧に覆われていて、何もかもを見失ってしまいそうだと思っていた。見失っていない感覚さえも見失ってしまって、見失うことすら見失ってしまって、何も分からない。何もかもが嘘のようで本当のよう。
 霧が闇のようで、おぞましき幻想の中を歩く人々の姿が霧に包まれて、引き延ばされて引っ張られて、異形のような様を見せていた。恐怖に覆われる中、ひとり歩く続けて霧に全てを隠して誤魔化して。覚束ない足取りで歩いているということすら自分自身の意識にすら気付かせないままそれらを霧の中に隠し通して。
 その目はきっと迷いと闇と霧に汚されてしまっているだろう。景色を映すだけのそれ。ただそれだけのことしか出来ないのならば、何も見えないも同然だった。
 迷い惑い人のことなど見えていない、そんな幹人の様子を霧越しでも見て取ったのだろうか、その手をしっかりと、痛みすら感じさせるほどに強く硬く、握りしめる手。その手の主は幹人の心に入り込むような必死さを、むき出しの心を霧に隠せないほどに色濃く出して滲ませて、幹人の身を引っ張って声を届けた。

「幹人、幹人! しっかり見て、馬車に轢かれてあの世に引かれてしまうかも分からないよ!!」

 抱き締めて、この世に命を繋ぎ止めたようだった。幹人の意識が今の目の前に引き戻されたその時、目の端にある景色を捉えてしまった。
 馬の蹄が軽快なリズムで地面を叩き霧でよく見えない道に音のわだちを残しながら突き進み、人を乗せた車輪のついた箱を運び駆け抜ける姿、幹人がつい先程まで立っていたそこに残像を、存在の爪跡を残しているその姿を。
 己の中に住まう矛盾や様々な食い違う記憶に囚われている場合などではなかった。
 リリが幹人と共に歩く。よく見えないからしっかり確認してゆっくり歩くんだよ、そう柔らかな言葉を落ち着いた低い声に乗せて幹人に届けて。後ろから抱き締められたまま幹人は水のように潤いを持った想いを湧き水のように心の表層の自覚の更に自分の身近に想えるところまで流し込んで滾らせて歩き続けていた。
 進む途中でリリは幹人が心ここにあらずという致命的だった時間の内に知ったことを口にした。

「この国の王のランスだけれども、どうにも不明な部分が多いそう」

 どうにも経歴がうわさや根拠のない話単位で集めてみても不明瞭過ぎるのだという。捨て子や貧民層の者だったのだろうか、工場の霧にでも包み隠されてしまったのだろうか、そもそもの話、幻想的なチカラの存在が認められているこの世の中、どこかから突然現れてもおかしくはないのだ。
 分からないまま、王の城へと繋がってしまった。目の前にあるものはレンガ造りの立派な城、工場の群れという鉄で創り上げられた文明の居城とは切り離されかけ離れた年季の象徴。きっと中に招き入れる王の姿を幾度となく変えながらずっとこの国の変革や安定、飢饉に幸せを持ちながら流れる歴史を見つめ続けて来たのだろう。

「いい? 入るよ」

 リリの言葉は問いなどではなく確認。今の幹人にはしっかりと分かっていた。城の前にて槍を持って立つふたりの門番にランスからもらった権限の証を見せて霧すら畏まって入ることをためらうお高くお堅い口へと吸い込まれるように入って行った。
 中に広がる広くて豪華に飾られたシャンデリアが目に留まるような部屋。蒸気だけでなく電気も通っているのだろうか、蒸気発電などもあるのだろうか、大きな城に対して美しさと幽霊屋敷を見た時のような恐怖を心の中に同居させながら発電のことを考えて気を紛れさせていた。城の内部での発電、ランスの自家発電などといった可能性は限りなく低いであろう。
 廊下に付けられたドアはいくつもあれども、きっと王の業務室はもっとも分かりやすい場所にあるだろう。

「正面突破だ、リリ」

 必要もなく格好つけて突き進み、階段を上って正面の最も大きな扉を開き、中へと入り込む。扉の重みは幹人の腕に一瞬だけ怠さを与えていたものの、それもすぐさま忘れ去ったのだった。
 部屋の中は紙が山積みになっており、王は羽根を持ってひたすら何かを書いていた。顔を上げ、何ひとつ違和感なく心に入り込んで来るような声を響かせて歓迎の気持ちを示した。

「来たようだな、待っていた」

 割れ目のような赤い線の入った石をいくつか組み合わせて作ったような王冠を頭の左側に掛けるように被せている人物、それこそが霧に覆われし眠らぬ国の王、ランス・フレムストンだった。
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